開戦
「来よったか!」
ガタ、と張遼は我知らず椅子から立ち上がる。
いよいよである。いよいよ勝負の。待ち望んだ決戦の時が来たのだ。
ここは虎牢関の最奥、そして司令塔。
ぐったりと空腹にへたりこんだ呂布と、伝令の報告に、むむむと唸る陳宮のみがいる。
董家軍の、もっとも信頼できる幹部陣だ。本来ならばここには、彼女らを口やかましくまとめ上げる軍師と、それを困ったように包み込む総大将がいるのが常だったのだが。
だから、自分が総大将的な役割にいるのは落ち着かない。いや、向いていないのではないかとすら思ってしまう。
かつては、董卓と賈駆に好き勝手言っていればいい立場だったのに。いざそうなるとこんなにも自縄自縛になるものかと嘆息してしまう。
だが、ようやく決断を下すべき好機が来た。
いよいよだ。ようやく反董卓連合が汜水関を出て進軍してきているという。
当然、汜水関の時と同じく橋頭堡なり、野戦築城しているであろう。
であれば時間が過ぎるほどに勝ちの目は失われていく。
未だまともに備えがない今こそが野戦にて乾坤一擲の機会。
と、言うよりそれしか董家軍の勝ち筋はない。ないのである。
時間をかければかけるほどに反董卓連合――袁家――はその陣容を文字通り分厚く整えてくる。
で、あれば野戦築城する陣地を確保すべく生身の兵が動く、今こそが好機。
まともに野戦を仕掛けることのできる機会は今を置いて他はないのだ。
「董家軍、出撃の時、というわけや!」
虎牢関という要害に籠るのを利点とさせてくれない敵に歯噛みしつつあった張遼は指示を飛ばす。
出し惜しみはしない。する意味が無い。
虎牢関には門扉を守る兵のみでの全力出撃。
それはともかくとして。まあ、まずは。
「ほな、皆な。腹いっぱい食べえや」
これまで飢えていた兵達に思う存分食べさせる。
いや、満腹の兵なぞ使い物にはならないが、まずは士気を上げること。そして、即刻ぶつかり合うことはないだろうという計算もある。
なにせ、払暁から日没までのみ戦闘すると伝えてきて、それを履行してきたのだから。
実際、色々な意味でありがたかった。
だが、それもこれまでである。
なんにせよ、落ち込んでいた士気をどうにか立て直して張遼は手元の軍勢を虎牢関より発したのである。
野戦であれば、一撃で逆転もありうる。ありうるのだから。
◆◆◆
反董卓連合の本陣。その最奥。急ごしらえの天幕とはいえ、そこは袁家当主が逗留するに相応しい豪奢なつくりとなっている。
だだっ広いその空間に悠然と袁紹は鎮座し、優雅に茶を喫する。
「落ち着いて、らっしゃるのですね」
声をかけたのは郭嘉。袁紹の傍らで対董家軍の方針を立案、統括する軍師である。
元々名家の出身であったがその地盤による栄達を嫌い、名を伏せて中華を放浪したという変わった経歴の持ち主である。
まあ、それで当初仕官を進められていた袁家に結局腰を落ち着けることになろうとは、と郭嘉は苦笑するしかない。
だが、その過程は間違いなく糧であり、それがなければ今の自分もないであったろうと郭嘉は確信している。
なにより自分とは全く違った視点を持つあの友人とは出会うこともなかったはずである。
などと、益体もないことを考えている郭嘉を見ておかしそうに袁紹は笑う。くす、と。
「何か粗相を致したでしょうか」
内心ちょっとだけ焦って郭嘉は問う。いや、ちょっと思いを馳せていただけでおかしな態度はなかったはずなのだが。
「いいえ。でも、心ここに在らず、といった様子がおかしくって」
くすくすと、重ねて笑う袁紹に郭嘉は憮然として応える。
「――落ち着いて、いらっしゃる」
くすり、と袁紹は笑いを軽やかに重ねる。
「ええ、郭嘉さんにそう見えているのならば安心できますわ。
だって、そうでしょう?
総大将が慌てて、狼狽しているような軍が勝てるはずありませんもの。
ええ、そうですわ。今私にできることは、こうしていることだけですもの。
前線で槍を振るうことも、献策することもできない。
それでも。この反董卓連合において一番重要なのは私ですわ」
だから、と袁紹は笑う。華々しく光輝すら纏って。
「如何に袁家が隆盛か、諸侯が如何に弱小か。この身で示すのが私のお役目ですわ。
そう、戦わずして勝つ。それをこの身で顕現するのですわ」
だから、と笑う。
豪奢で、華麗に、雄々しく。そして気高く。
「袁家軍については私の手を離れていますわ。既にね。
だってそうでしょう?」
そして一際艶然と、光輝を放つのだ。
「だって、二郎さんが仰いましたもの」
任せてください。勝ちます。徹底的に。そしてその栄光は貴女に、と。
「だから、私はこうしているのですわ」
全身で語る、放つ。自分の仕事は戦の結果に対して責任を取ることである、と。
既に断は下しているのだ。誰に権限を与えるか、という。
「なるほど。では。私は、その二郎殿に引き立てられたのですから。これはいよいよ負けられませんね」
下手な冗談である。が、そのような戯言を口にすることを知れば程立や趙雲は瞠目したであろう。郭嘉が冗談を口にするとは!
「ええ、二郎さんが仰ってましたもの。
進むも、退くも貴女次第と。あの二郎さんが全幅の信頼を預けているのですもの。
くれぐれも変な遠慮なぞしないでくださいましね?
貴女の献策に立ちふさがるものはこの私自ら裁きの鉄槌を下してやりましょう」
おーほっほと笑いは、高貴に響く。
「いいですこと?わきまえてらっしゃるわね?」
郭嘉は頷く。
「勝利こそ最優先。魂魄に刻んでおりますとも」
「よろしくってよ。その忠勤、嬉しく思いますわ」
袁家鉄の掟。その根底。
勝てない戦に意味はない。しない。だから袁家は最強なのだ。
◆◆◆
「で、うちらは何をしたらええねん」
怒気すら露わにして李典は郭嘉に問う。心底から彼女は怒っているのだ。
だって、李典は知ってしまったのだ。これからあの青年。自分を取り立ててくれた、かけがえのない青年。紀霊がその命を晒すのだ。
そのような無茶をしなくても、と李典は歯噛みする。例えば連弩だ。紀霊から示唆を受けたのは結構な前のこと。或いは、或いは。
思いつきでしかなかったであろう数多い兵器。その中にはきっと珠玉もあったはずなのだ。それを総動員すれば彼をそのような修羅場に立たせることもなかったのではないか。
そんな悔いさえ李典にはある。実用化と量産化さえしていれば、と肺腑が焼ききれそうなくらいに燃え上がる悔恨。
だが、その思いは郭嘉には届かない。受け入れない。
たかが攻城兵器で戦局が左右されるものかと。いや、移るならば袁家の底知れない、無尽蔵な財源あればこそだ。
それにしたって、と内心苦笑する。
「あんたなあ、勘弁してや。うちらは、ほんまに頑張ってるし、お望みなら不眠不休待ったなしや。二郎はんが珍しくうちらに頼ってきたからな。
ああ、知っとるわ。戦場で死ぬより過酷やよ。死に至るのは一瞬ちゃうし。
つまり。ええか、二郎はんのためやったら袁家工兵は一日十二刻休まず職責を果たすで!
なんなら一日四十八刻の任務も果たしたるわ!」
だから、と李典は訴える。
「二郎はんが何や身の程知らずなことをしようってのは分かってるねん。
あんたが、だからつれないのも分かってるねん。
何でもええ。うちに、うちらにできることは言ってほしいねん。
後生や……」
嗚咽を交え、みっともなく哀願する李典に郭嘉は問う。
「どうしてそこまで紀霊殿に肩入れするのですか。
貴女の才については把握しています。どこでも、誰でもそれは評価するでしょう」
冷然とした郭嘉の言葉に李典は激昂する。
「あほ!あんたはあほや!阿呆!うちはな!うちは!そんな大したもんやあらへんわ!
阿呆!うちはな!本来そこらへんで野垂れ死んでるくらいにどうでもええ存在や!そんなもんや!
うちがな、お役にたってるとしたら二郎はんのおかげや!
やから!やから!
うちかて分かるわ!あの呂布に二郎はんが挑むて!
やから、ほんまはうちはあんたの相手なんてしたないねん。そんな暇ないねん。
汜水関と同じく土攻めで虎牢関を落としたいねん。
でもな、二郎はんはそうやないねん。
汜水関みたいに土攻めしたら楽やのに。そのためにうちは、うちらは頑張ってるのに」
幼子のように滂沱の李典。彼女の献身は報われないであろう。
だが、その想いは無駄ではない。
「分かりました。貴女の想い、把握しました。無駄にしません」
道すがらに郭嘉は思う。
自分はどうにも、おかしいなと。
袁紹の想い。それは高貴であった。そして覚悟があった。信じる男に委ねて揺るがぬ思いがあった。
そして李典の嗚咽。そこには鬼気迫るものがあった。自分を引き立てた男に対する思いは慕情か、感謝……それだけではない。
「まあ、それがどうした。と言うべきなのでしょうか」
既にあの青年に毒されているのかもしれない。
そして、既にこの戦に於いて勝利は約束されている。
後は。
「勝ち易きに勝つ。お見事です。後は貴殿の武勇、或いはそれ以外の何か。
それを楽しみにしていますよ。
なに、貴方が討死したって……」
袁家に勝利はもたらしますとも。
笑みなぞなく、真面目くさって郭嘉は思う。
願わくば、あの青年が呂布を打ち砕きますように、と。
 




