凡人と、描く未来
トントン、と軽やかな音が俺の耳朶を刺激する。それは慣れきっているにしても無視できない音響。一日の始まりを告げる音響。
更に美味そうな匂いが鼻腔をくすぐり、意識が急浮上していく。夢の底から意識が急浮上していく感覚は嫌いではない。くあ、と欠伸を一つ。大きく伸びをする。これでも寝起きはいい方なのだ。いや、そうなるように鍛えられたと言うべきか。
「お、ようやく起きたかー。ちょうどええし、ご飯食べやー。ま、その前に顔洗っといで」
にひひ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた声の主――俺の上司の梁剛姐さんで、あれやこれやと俺を容赦なく鍛えてくれた人物である――が俺の尻を叩く。最近では週の半分くらいはここに入り浸っている。勝手知ったるなんとやらとばかりにささっと顔を洗い、食卓につく。
「ほら、とっとと食べてまいやー」
いただきます。そして文字通りがっつく。ものっそい美味いんだからこれは仕方ない。姐さん曰く兵站に伝わる簡単な野戦料理のアレンジらしい。まあ、姐さんはもともと兵站出身らしいからなあ。などと思うのだが。
卵と小麦粉に野菜と肉を混ぜたものを鉄板で焼いたそれは、多分お好み焼きそのものである。どろっとしたソースが食材の旨みを引き立てる。うん、ラーメンとかチャーシューとかあるからそりゃソースくらいあるよな。ここら辺は深く考えるだけ無駄であろう。
しかし、兵站で経験を積むと料理が上手くなるのだろうか。ならば陳蘭にも兵站に異動させるべきだろうか。いや、別に不味くはないのよ。ただ、そのまあなんだ。けして美味くはないのであって。いや、不味くはないのよ。けして美味くないだけで。うん、別に不味くはないのだ。
「ごちそうさま!」
「はいな、よろしゅうおあがり」
「そしたら、夕方には詰め所に顔出せると思うんで」
「今日も泊まってくのん?」
「そのつもりっす、遅くなるかもしらんので、飯は・・・」
十中八九遅くなるけど、どうしようか。と迷う俺に姐さんはくすり、と笑う。
「ええよ、どっちでも。冷めててもええんなら作り置きしとくさかいな。
食べて帰るなら朝にするし」
ひらひら、と手の平を振るって好きなようにしろと言外に。いやほんと、好き勝手させてもらってるなあと痛感する。
「そしたら、行ってきます」
「無理せんとな」
ちゅ、と軽く唇を合わせてから俺は政庁に向かう。最近は訓練よりも中央との打ち合わせの比率が高い。隊の事務的なことは大部分を任せてもらっている。袁家の各方面との面通しということなんだろう。そこいらへんのノウハウもそうだが、そのついでに斗詩や沮授と会えるのが助かる。流石に一日訓練してから打ち合わせとかは無理だからな。
本来なら猪々子もいるはずなんだが、日常業務に追われているそうで滅多に合流できてない。ここいらへんは個人の適性があるからしゃーないしゃーない。
そして本日のメインイベントである。麹義のねーちゃんに軽く挨拶だけすると、俺は待ち合わせの会議室に向かった。
「あら、二郎様、今日は早いですね」
「そりゃ斗詩もだろ……ってここでお仕事か」
「ええ、今日は来客もないですし」
「そっか」
斗詩と猪々子は麹義のねーちゃんにびしばし鍛えられている。特に斗詩は何でもできる万能タイプなので重宝されてるようだった。まあ、袁家を支える名門の次期当主だから英才コース待ったなしである。俺?げ、現場優先で一つ・・・。
まあ、戦乱にあっても前線参謀さえつければ猪々子で心配ないだろ。斗詩が後詰で沮授が後方支援。うむ、負ける気がしないな。俺?ゆ、遊撃こそ紀家の本領だから・・・。とーちゃん見習って領内を水戸黄門的行脚して治安維持に努めるつもりである。
うむ。袁家配下の名家である紀家当主(見込み)が巡回すれば領内安堵間違いなし、である。そして受ける接待の嵐なんだぜ・・・。かー、つれーわー。毎日接待を受けるとか気が休まらないわーつれーわー。
というのが俺の将来設計である。うむ。後は前線に引っ張られる前にさっさと隠居するだけである。そのためにも色々頑張らんとな……。
さて、姐さんに送り出されて向かった先は政庁である。いや、俺だっていつも遊び歩いているわけではない。たまには仕事もするのだ。――それに今日のお仕事は俺が発起人だしな。そのために袁家の重鎮に召集をかけたのである。もっとも、その面子は斗詩と猪々子、それと沮授に張紘という超身内ではあるのだが。
とは言え、いずれも次世代の袁家を担う人材であるというのは間違いないところである。麗羽様を旗印に、クソッタレな時代に立ち向かう戦友となるのは確定的に明らか。つか、このメンツが信用できないならもうなにも信じられないぜ。
とは言え、各人は超多忙であり、打ち合わせの時刻に来ていたのは斗詩だけであったのはやむを得ないところであろう。むしろ万難を排してくれたであろう斗詩には感謝である。
まあ、大筋については事前に打ち合わせてるしな。そしてイレギュラーな案件についても問題ないだろう。――黒山賊の討伐を紀家軍が担当するという案件だ。陳蘭に任せてた母流龍九商会の私兵もそれなりに使えるようになったらしいし、ちょうどいい。実戦テスト、って奴だ。
くすり、と斗詩が笑う。
「それにしても二郎様がきっちり仕事されるようになったって、文ちゃんがぼやいてましたよ。最近相手をしてくれないって」
ころころ、と軽やかな笑み。清冽さと、漂う艶やかさの危うい均衡にくらっとしかける。これは年頃の女子の特権なのだろうな。箸が転がっても面白い彼女らは、微笑み一つだけで魅惑的なのである。つい最近まではちっちゃい女の子だったのになあ。いかん、おっさんくさいぞ俺。
「いや、別に相手はしてるぞ?斗詩や猪々子みたいな美少女が来て相手しないとかありえんさ」
実際、俺の横で飛び跳ねてた幼女軍団がいつの間にか美少女軍団に様変わりである。時の流れというのはすごいなあと思うのだ。いやだからおっさんくさい述懐だというのは認識しているのよ……。
「もう……。二郎様はまた、そんな調子のいいこと言って……」
頬を朱に染め、どこか憮然とした表情の斗詩の頭をぽんぽんとはたいてやる。いや、この表情見ただけで世の男どもは八割方ノックアウトですわ。
「いや、ほんとだって。実際、歓迎はしてんだけどなあ。茶も菓子も出してるぜ?そのまま飯食って、泊まって帰ることだってあるんだぞ?
嘘だと思ったら斗詩も遊びにおいでよ。全力で歓迎するぜー」
これで相手していないとか言われると流石の俺も思う所はあったりなかったり。
「ああ、そういうことなんですね……。それは……文ちゃんが一方的にご迷惑をおかけしているだけですよね……。お仕事から逃げ出して二郎さんがサボり仲間と思ったらきちんとお仕事をしてたから愚痴ってただけという……」
がくり、と肩を落として斗詩が頭を抱えてもだえる。よせよ、可愛いじゃないかね。
「いいっていいって。なんなら斗詩も机並べて仕事しよーぜー。
斗詩みたいな可愛い子が横にいたら……駄目だな気が散って仕事になんねえや。
今のなしー」
ぷっと吹き出す斗詩。おかっぱにしている綺麗な黒髪が揺れる。
「もう、そんなこと言われたら……本気にしちゃいますよ?」
「いや、ほんとのことしか言ってないから」
「そうじゃなくて、ですねえ……。もぅ……」
斗詩が笑いながら抗議の声をあげる。うむ。斗詩が睨んできても可愛いだけである。このこの、とぐりぐりとなでくりまわしてやる。
と、ガチャリと戸が開く。
「おやおや、お邪魔でしたか」
「お邪魔というか遅いというか」
「すみませんね、最近立て込んでまして」
これっぽっちも悪いなんて思っていないであろう胡散臭い笑顔で沮授が言葉を続ける。
「どうも、色々頻発している事象はつながってないみたいなんです」
沮授の言葉に思考を切り替える。あれこれと袁家領内で起こる不具合はあれこれあったのだが、それの根っこは繋がっていると思っていたのだが。無論、沮授の調査よりも根深いだけという可能性もある。むしろこっちの方が蓋然性は高いであろう。
「……逆に厄介だなそりゃ」
「統一された意思の元動いているならこちらも対抗し易いんですが、少なくともその意図は見えないですね」
やれやれ、困ったものですとばかりに肩をすくめる沮授。意外と消耗しているようで、激務っぷりが目に見える。頑張れ。超頑張れ。
「一つ一つ潰していくしかないかー。それでも沮授なら傀儡は炙り出せるだろ?
ここまで大掛かりにやってくるんだ。囮くらいは仕込んでくるだろう」
「ええ、その通りですね。それも巧妙に隠蔽されてましたがね。それでも外患を誘致しているとされる黒幕気取りの人形は粗方捕捉できそうです」
流石は沮授である。ひとまず後方は安心して任せてよさそうである。つか、他に任せる人材なんていないのだがね。
「よし、ま、とりあえずは黒山賊か」
「そちらはお任せしますよ?」
「応よ。外向きのことはまあ、任せとけ。紀家は遊撃がそのお役目。果たして魅せるともよ」
攻勢には文家、守勢には顔家。そして遊撃こそが紀家の本領。とーちゃんが地位に拘らず、領内安堵に努めていたのもきっとその本領を保つため。そしてその紀家に於いて最精鋭たる梁剛隊である。一朝ことあらば士卒が将となるエリート部隊なのだ。
「気を付けて、くださいね……。月並みなことしか言えないですけど」
「なに、所詮は野盗の類さ。どうということもない」
とは言え、史実全盛期の袁紹でも殲滅できなかった黒山賊が相手なのだ。慢心はしないとも。末端が相手だとしても、な。
「アニキー、ごっめーん遅れたー!」
「二郎すまねえ、色々揉めててな」
まあ、メンバーが揃った会議自体は四半刻で終わったんだけどね。いや、事前に根回ししてたし。袁家の次代を担うこのメンツが一堂に会してあれこれやっているという事実が重要なのだよ。うむ。
――俺は俺で万全を期していたとこの時は思っていたのである。




