紅蓮の過去
「あらあら」
使者がもたらした報せに黄忠は軽く戸惑う。
張紘が、袁家の台所を担う男が自ら足を運ぶという。その意味に気づかぬほど黄忠は愚かではない。
しかも、だ。物資を提供したとは言え、精々五百ほどの軍勢を率いる自分に、である。
「どうやら、劉姓に対しては表面上であっても重視する。ということかもしれないわね」
この、反董卓連合という戦は、いわば新たな権力者を決める戦いである。
そう。本来であれば洛陽の、雲の上での暗闘で決するべきものが大地にその災禍を降り注いだようなもの。
その是非、善悪なぞ黄忠は知ったことではないし、論ずるつもりもない。それは一介の武人には過ぎたことだ。
だが、自らが仕える劉表は皇族に連なる存在だ。なればその、劉家に対する立ち位置というものについては無関心ではいられない。
自分一人ならばなんとでもなる。が、娘がいる。ぜひあの子には安寧な世において生きてほしい。それが母としての黄忠の願いである。
なればこそ、漢朝の権威たる劉家への待遇に対しては黄忠とて無関心ではいられないのだ。
それを、張紘という重要人物が自ら足を運んでくれるということに黄忠は安堵を覚える。
そう、たかが五百。たかが五百のみなのだ、率いる軍勢は。
いや、無論黄忠が鍛えた精兵であるという自負はあるが、果たして北方においてかの匈奴と渡り合った袁家の、或いは馬家の軍勢と比べたらばその実力はいかがなものか。
――せめて自分は兵を率いるのみに専念できれば、とも思う。
だが、文治を志す劉表のもとには有望な軍師は集まらずいた。皮肉なことに。
いや、候補はいたのだ、いたのだ。だって、荊州には水鏡女学院という教育機関があるのだから。
だから、いつかは軍略を預けられる英才が仕官してくれると思っていたものだが。
同期や、近しい先輩後輩は水害を契機に荊州を後にした。
そして英邁を世に謳われた天才たちは世を憂いて旅立った。その真意は分からない。
いなくなったという事実だけが残るのみ。
「……考えても、馬鹿馬鹿しいわね」
くす、と黄忠は艶然と笑う。生き方が違う。目指すところが違う。きっとそれで済まされるのであろう。
そんな、天から授かった才能のない身は、地べたに張り付いてその日を過ごすしかないのだ。
そんなことを言ったらかつての同期から怒られそうだな、なぞと思いながら黄忠は娘の笑顔を思い出し、奮起する。
そう、腰の重い主君が自分を派遣したのも、貴重な物資――袁家にとっては取るに足らないかもしれない――を供出したのも世の安寧が第一ということなのだ。そのはずなのだ。
だから、黄忠は柔らかい、慈母のような笑みを浮かべつつも苛烈な覚悟を課している。
いや、母だからこそかもしれない。
身を捧げてでも、と思うのは守るものがあるからであろうか。
そんな、ある意味悲壮な覚悟で訪れた賓客を出迎える。艶然と、柔らかい笑みで可能な限りに好意を得られるように。
だからこそ訪れた人物に渾身の笑顔を、と思っていたのだが。
その人物はいい、だが、その後ろに控えるのは。
「じょ……た、単福!あ、貴女、無事だったの?!」
赤毛の麗人に黄忠は取り乱す。喪った知己がいるから?いたから?
喪ったあの時が甦るから?
「はて、誰かなそれは。人違いだろうよ。それはともかく、張紘よ。
何を呆けている。失礼じゃないか。
なに、そんなにこの麗人に興味津々ならば後で私が口を利いてやってもいいのだぞ」
何やら張紘が返し、女が笑う。
その、ちょっと皮肉気で、でも相手を気遣うやり取りはやはり知己のもので。
だから、一瞬。
酷薄と言えるほどに鋭く突き刺さる視線に黄忠は身を震わせたのである。
◆◆◆
「なあ」
応える声は低い。常のように笑みを含んだものではない。
だからこそ張紘は重ねて問おうとする。
それを赤楽は言わせない。
「できればこのまま君の口を塞いでしまいたいものだな。
いや、割と本気で。
いい。いや、いいんだ。これは私の我儘だろうな。
違うな、ちょっと混乱しているだけ。気の迷いみたいなものだろうよ」
赤楽は、苦笑する。その笑みはいつになく、苦く、暗い。
それを見て張紘は窘める。
「そんな風に言ったものじゃあないだろ。だって、これで身元が分かったじゃあないか。
あんなにも、お前は根無し草だったのを気にしていたじゃあないか」
その言葉に赤楽――徐庶――は苦笑する。
「分かったところで。ああ、私は結局のところ、人殺しなのさ。
思った通りで意外性の欠片もないのが申し訳ないがね。
更には天涯孤独ときたものだ。
ああ、今までと変わりなく、今までではいられない。
苛立ちしかないね。厄介極まりない。
それが自分の足跡と思えばこそ、さ!」
吐き捨てる彼女に張紘は笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「そうかい?
おいらは嬉しいけどね。あんなにも自分をさ、自分の足跡に悩んでたじゃあないか。
だからおいらは、さ。
お前の当てのない旅路が終わってくれたみたいで、嬉しいよ」
「やめてくれよ」
くしゃ、と。
それまで取り繕っていた表情を崩して嘆く、泣く。
「何がだ。何がだ!
人を殺し、狂人を演じる。
恩を返す父母は無く、だからこそ因果に囚われる!
一体私は!あそこで死ぬべきじゃあなかったのか!それを救われて!
君に救われて!どうしろっていうんだ!
人の死と絶望しかない私をどうするんだよ!
君たちは、あんなにも光に包まれているじゃあないか!
だから君も、もっと光に!
そっちにいけよ!私なんてほっといてさあ!」
「そいつは聞けない相談だな」
やなこった、と重ねて耳元で囁く。
ふりほどこうとする女の身体を、張紘は意外に力強い力で抱きしめる。絡め取る。
「おいらは、そんなにたいしたもんじゃないさ。
あの時、行き倒れてたお前を拾ったのはきっと運命ってやつさ。
それに、いちいちそんなの深く考えてられるもんか。
何より、おいらはな」
渾身の力で、消えそうなその魂魄を抱きしめ、口づける。
「過去も未来も知ったことじゃない。
おいらは、お前が大事で、大好きで、一緒にいたい。それだけが大事なんだよ。
これじゃ、不足か?」
足りないなら、もっと囁こう。伝えよう。
だって、こんなにも大事なのだ。その気持ちが伝わらないなんて、いやだ。
離れるなんて、いやだ。
放さない。
「張紘。君は、君が。
そんなに、思ってくれるのか」
私なんかを、と。
「お前じゃなきゃ、嫌だ」
常の、穏やかな彼からは思いも寄らない情熱。
それが女に燃え移る。そして観念する。
「ああ、張紘。いつも、いつでも傍にいる。だから、もっと抱きしめてくれ――」
精一杯の願いに張紘は全力で応える。
――そして徐庶。彼女はその名を名乗ることはなかった。
彼女はあくまで赤楽。
張紘の愛人として人生を歩むことを選んだのである。
彼女の功績は献策一つとして歴史に記されてはいない




