鏑矢
袁家よりの檄文はあまねく諸侯に届けられた。
無論、北方において対匈奴の盾としてある公孫にもそれは届いている。
むしろ事前に、袁紹以下が帰参する前にも打診があったほどだ。それに応じるために準備は整えていた。
北方の備えをしつつの参戦。そう、黄巾の乱の時でも公孫賛は全力を出してはいない。
「はは、やっぱり麗羽も二郎も無事だったか。さもありなん、だな。
あいつらがそんなに簡単にくたばる訳がないんだよ。
そんなこと、私は知ってたけどな!」
「ご高説勇ましくお見事。
不安げにあちこちと、うろうろと彷徨う姿。
それは行く宛のない迷子のようであったと記憶している。
だが安心してほしい。こと、ここに至って、だ。
そのようなこと、誰にも言うつもりはない。士気に関わる案件であるのを私は理解している。
涙目で私にあれこれ弱音を吐いていたのも――」
淡々と述べる韓浩の言葉に、公孫賛は悲鳴と抗議の声を同時に発する。
「うわあああああああ!言うな!忘れろ!忘れてくれー!」
まあ、こんなものかと韓浩は追及の手を収める。
なに、仮の主の平常心を取り戻させるのもお役目というもの。
ぜえぜえと呼気荒い公孫賛を見やり、頷く。これでこそだ、と。
それはそれとして、だ。
韓浩はぎり、と歯を噛みしめる。常になく、額に皺が寄る。
「ま、まあ、そのなんだ。黄巾の時と同じく留守は任せた」
いささか想定よりも消耗した感のある公孫賛の言。それに韓浩は首を横に振る。
決意を胸に。
言説は相変わらず淡々としているが。
「それには及ばない。今回は私も参軍する。させてもらう。
田豊、麹義の両名の武威で匈奴の蠢動は抑えられる。これは確実。
なれば戦力の分散は愚策というもの」
淡々と語る韓浩。
だがしかし、公孫賛はそこに隠しきれない熱を感じ取った。感じてしまった。
「いや、韓浩が参軍してくれるなら百人力だ。実際、ほんと、助かる。
でも、有利不利じゃなくて、理由があるんじゃないか?」
公孫賛の言葉に韓浩は言葉を選び、それでも言う。言うのだ。
常になく、ほとばしる。
「雷薄どのが、討たれた。紀家の宿将である雷薄どのが。だ。
……実際、どこの馬の骨ともしれない小娘でしかなかった私だ。それなのに何くれとなくよくしてくれた。
常々、恩義は返さねばと思っていた。
そう、雷薄どのが討たれた。討たれてしまった。
それについて、いささか以上に思う所がある。
――参軍の許可を」
素直じゃないなあと公孫賛は思う。
恩人が志半ばに討たれた。だから仇を。
実に普通の話なのに。
「いいさ。韓浩が来てくれるなら、千人力だ。見せてやろうじゃないか、公孫の武威を。
董家軍の騎兵も武名あるけどな、白馬義従も捨てたもんじゃない」
頷く韓浩の肩を抱き、公孫賛は笑う。
この無表情で無愛想な腹心――借り物ではあるが――の思いは無駄にはしない。するものか。
準備は万全。高らかに公孫賛は命じる。
「白馬義従、出るぞ!」
漢朝騎兵の最精鋭一万、洛陽を目指して出撃。
◆◆◆
くすり、と曹操は艶やかに笑う。
これでなくては、と軽やかに笑う。
「ふふ、そうよね。そうでなくてはいけないわ。麗羽、二郎。
まさか董卓に捕えられるとは思っていなかったけども。
正直、心が躍るわ……」
身体も、火照る。
艶然と笑う。きっと失ったものの大きさに身を震わせ、それでも前を向いて進むのだろう。
その覇気、意思の力を思うほどに曹操の官能は刺激される。
「か、華琳様!御身はかけがえのないもの!
ここは戦力の温存もあるべく――」
ぎろり、と曹操は腹心たる荀彧を睨む。興醒めなことを言うなとばかりに。
「いい?桂花。
私はね、この中華。盗むよりはね」
奪いたいのよ――。
そう。であるからこそ袁紹の発した檄文。
それが描く反董卓連合の絵図。
それが示す、強いる選択。董卓が牛耳る漢王朝を選ぶかどうか。
……いや、これは選別の儀式に近いのだろう。
「ふふ、面白くなりそうだわ」
なに、面白くなければ面白くするだけのこと。
曹操。
紀霊が最も恐れ警戒する英傑が見据える未来は定かならず。
ただ、その覇気は比類なきものであった。
曹家軍、洛陽に向け出陣。
総勢一万の大軍。いずれも精兵である。
◆◆◆
「桔梗さんは益州に帰らないの?」
馬家は既に軍を発している。そこに届いた袁紹による檄文。それに応じて馬家は函谷関を大きく迂回して反董卓連合への合流を目指す。
ちゃっかりと言っていいかもしれない。同行する厳顔に馬岱は不思議そうに問いかける。
「うむ。劉璋殿が囚われているのでな。益州劉家は動かん。じゃが、此度の戦に我が主は注目されておる。
故にまあ、生き恥を晒しながらもこうして同道を願っておるというわけじゃ」
にまり、と口を歪める厳顔の心根を読めるほど馬岱は人生経験が豊富ではなく、それに思いを馳せるほどに智謀に自信もなかった。
故に、そういうものとして受け入れる。おかしな動きをすれば、その時はその時である。
戦場は千変万化。ならば目の前の事象を受け入れ、動くのみ。ましてや馬家当主たる馬超が決を下したのだ。それを支えるのが役目と馬岱は心得ている。
それをずっと、物心ついた時から期待されていたのだから。
それを疎かにしては敬愛する叔父に顔向けができないというものである。
「しかし、本当に韓遂を北方の護りに充てるとはのう。いやはや、たいした肝の太さじゃ」
揶揄したような口調。それに乗らずに馬岱が応えるのはあくまで飄々。
「んー、たんぽぽはいつでも本気だよ?韓遂さんが何かしたら、洛陽を落とした後に取って返す。
そして今のお姉さまは無敵だよ?
ねえ?」
これまで無言で馬を進めていた馬超がうっそりと応える。
「……誰だっていい。立ちふさがるやつは切り捨てる。それだけだ」
馬岱は苦笑する。馬超本来の闊達さは見る影もない。だが、こちらの言に受け答えするだけましになったと。
そして目にしたならば、牽制にはもってこいである。
「おお、怖い怖い。
今の馬超殿の前に立つ輩には憐れみすら覚えるのう」
茶化す厳顔の言葉にも馬超は眉一つ動かさない。
「ああ、そうさ。父上が死んだんだ。それ相応の報いはくれてやる。くれてやるとも。
――殺してやる」
いささか、いれこみすぎかなと。
馬岱にも思うところはあるにしてもこれはひどい。
「……まあ、二郎さんがきっとその場を準備してくれるよ、ね!お姉さま」
意識して馬岱は馬超の意識を誘導しようとするのだが。
「二郎……。そうか、あいつも、狙われたんだな……」
「そ、そうだよ?だから、ね?」
「あいつは助かって、何で父上が……!」
その言に馬岱は顔を引きつらせる。しまった、話の持って行き方を間違えたかと。
「き、紀家の宿将の雷薄さんを……。ううん、それより、許せないのは董卓だよね、お姉さま。
特に張遼なんか、あれだけ目をかけられてたのに、さ!
――お姉さま、頭を冷やしてね。武ならともかく、騎兵の運用なら相当な遣い手だよ?」
慌てて矛先を逸らす。かつての盟友に。
「――は!少しはやるかもしれないけどな、叩き潰してやるよ」
ほう、と厳顔は内心ほくそ笑む。
どうやら益州に鎮座する主に色々と面白い情報が届けられそうだ、と。
――反董卓連合、一枚岩にあらず。
◆◆◆
「穏、どうしたものかしらね」
袁紹より届いた、その檄文を手に孫権は腹心の陸遜に問う。
既に沮授より内々に出兵の打診……というより要請があって後のこと。
既にある程度出兵の準備は出来ていたので特に混乱はないのだが。
「そうですねえ。陣構えをもうちょっと豪華に、派手にしてもいいかもしれませんねえ。
どうせこうなっては勝つのは袁家ですし」
既に袁家の勝ちを確信した陸遜に孫権は問う。
「――穏も袁家の勝ちは揺るがないと思うの?」
検算する。
「無論。負ける要素はほぼありません。
で、あればここは全力で袁家に張るべきかと思いますねぇ~。
長沙の太守の座すらまだおぼつかない孫家。声望が今は何より欲しいところです。
そうですねぇ。もっと言えば」
荊州を頂けるくらいには活躍してみせましょうかと。
「――なるほど。いずれ劉表殿は益州に赴くと。
そしてその後釜には袁術殿が宛てられる予定だった、と。
だけれども彼女は皇后となる身。空白地となりかねない荊州は確かに狙いどころね。
あまり欲張っても仕方ないし、そこを此度の目標としましょう。
ただ、それにはそれなりに手柄を挙げないといけないわね?」
陣構えはどうするのかと孫権は問う。
「まずはいかに此度の出兵に力を入れているかということを示すためにも、蓮華様にご出馬願います。不肖私が補佐を。
そして副将にはシャオ様。その補佐には孫家最強の……」
「思春ね。確かに江賊上がりの思春の声望を上げるには絶好の機会。
当然明命も連れて行くわよね。守りは祭がいれば大丈夫でしょう。そうね、亞莎もそろそろ責任ある立場で経験を積むべきだものね。
でも、シャオまで連れて行くとなると、万が一の時が困ると思うけど」
一つ考え込んで孫権は眉を顰める。
「だからいいのです。それくらい大きく賭けるべきです。そしてシャオ様は袁術殿と懇意。なれば……」
それに孫権は得心する。
「そうね。袁術殿は皇后、いずれ国母となるべきお方。
なれば此度の仕儀に心を痛めているはず。
シャオは当然お慰めするでしょうね。となれば。袁術殿と孫家の繋がりを諸侯に知らしめることができる。
……江南の一豪族と侮られることもなくなるわね」
無論、それだけではない。孫尚香は兵卒に絶大な人気がある。天真爛漫なその言動だけではない。
実際、兵を操るのも末恐ろしいくらいに巧みなのである。或いは瞬間の判断においては孫堅をすら凌ぐかもしれない。
よろしいとばかりに手を打ち、孫権は陣構えを命ずる。
「孫家百年の計はここより始まる。
穏、頼りにしてるわよ」
「無論、お供いたします。ええ、二郎様にいいところ見せちゃいましょう!」
「じ、二郎は関係ないでしょ!穏!」
軽やかに主の怒気――とは言えぬほどのたわいもないものだが――を躱しながら陸遜は笑う。
いよいよ、戦場でまみえることになるのだ。
あの男は、いかなる絵図を描いてくれるのだろうか。いっそ敵でないのが残念なほどに心は昂ぶる。
褥での睦み合いを脳裏に思い浮かべ、陸遜は人知れず艶然と笑うのであった。




