幕裏:絡新婦の理
「あらあら、これは面白いことになってきてますねえ」
蜘蛛の巣の深奥で張勲はくすくす、と微笑む。ぺらり、とめくる書類。袁家領内外の動向がまとめられたものだが、最近は紀霊に関する報告の比重が高まっている。
「これはどう考えても偶然なんでしょうけどね・・・。ちょっと紀霊さんには気の毒かなぁ」
いっそ、暢気といえるであろう表情のままに首を傾げる。紀霊という獲物は思いのほか元気だったようだ。想定よりもその動きは活発で、激しい。これは想定外である。
「動けば動くほど糸に縛られていくというのが分かってないですねえ・・・。といって、動かなければそのまま追い詰められますし。――結局、何をやっても無駄なのになあ」
あくまで平淡――にこやかではあるのだが――な声からは何も読み取ることはできない。なぜならば、意図を束ねて糸を紡ぐ彼女もまた繰り人形でしかないから。そして、もはやその生が何のためにあるのか、彼女には分からない。
――既に彼女は生に倦んでいた。どうしようもなく心が膿んでいたのだ。
だが、それがどうしたというのか。彼女はただ繰り手の意図通りに踊ればいいだけなのだ。そんなことを考える彼女の背後の闇がその濃さを増す。それこそが彼女の操り手。袁家の闇を一身に背負う張家の当主である。
「娘よ。戦が起こるな」
それは、異形であった。容姿は整っていると言っていいだろう。だが浮かべる笑みは災厄を連想させ、発する言の葉からは破綻と崩壊を匂わされる不吉。纏う空気には死と血の赤黒い闇が色濃く匂う。そして、広げた両の手。そこに常人ならば違和感を抱くであろう。そう、広げた掌。そこにある指は六本。闇に生まれ闇に生き、名前すら捨て去って深淵から蒼天を睥睨する。希代の暗殺者でもある彼は、ただ、【六】という記号で認識されている。恐怖と嫌悪と畏怖を込めて。
そしてその娘は張家の最高傑作と言われるほどに完成されている、という。その張勲がくすり、と笑む。父の言、その物騒な言葉をおかしそうに受けとめる。
「ええ、お父様。戦が起こりますね。しかも袁家が巻き込まれちゃいますねー。これは厄介ですねー」
いっそ朗らかと言っていい口調で張勲は嘆息する。諜報が張家の本領。だからこそ不穏な空気を見逃さない。そしてその流れは変えることは困難であるし、そのつもりが全くない。そう。目の前の不吉な空気を纏う男にはそんなつもりがないのだ。
「――派手に火を放つべし」
その言を受けて張勲が問う。
「それはいいんですけど、紀霊さん、死んじゃうかもしれませんよ?今彼がいなくなったら色々面倒じゃないですか?」
「ここで死ぬならその程度の駒というだけのことだ。精々抗ってもらおうじゃあないか。まだまだ紀霊は小物よ。奴一人が死んだとて知れている。
それより田豊だとも。奴の手が見えん」
ふむ。と数瞬熟考し、張勲は頷く。
「そうですねえ、田豊さん。表面的には全く何もしていないみたいなんですよねー。何もしてないわけがないのに。すごいですねー」
「そうだ。流石は田豊と言ったところか。こちらの絵図をある程度は察知しているだろうよ。それで動かないならそれで構わんとも。監視にも気づいているだろうが、それでいい」
「牽制ですかー。そういう駆け引きって、あの方には無意味っぽいですけどねー。
――いっそご退場願った方がよくないですか?」
「それには及ばん。あ奴がいなくなれば流石に乱れすぎる。
沮授ではまだまだ袁家を押さえられんよ。
それに、あ奴を消すとすればこちらも総出で挑まんといかん。不敗、という二つ名は伊達ではないのだ」
過日の匈奴の大侵攻において、軍師という立場でありながら最前線で戦線を支えた――物理的に――猛者である。流石の【六】も尋常な手段では討ち取れないと判断する。
「はいはーい、了解です」
その辺を理解しているのであろう。張勲はあっさりと引き下がる。察しがいいことである。本当に。
「ふ、お前は良くできた人形だよ。実によく踊ってくれる」
「あら珍しい。お褒めにあずかるなんて、いつ以来ですかねえ」
張勲の問いに応える存在は既に室にはなく、その声は虚しく響くだけである。
「んー。どうしたものですかねえ」
と言っても、どうしようもないのだ。彼女は人形でしかないのだから。どろり、と濁った瞳は闇を乱反射し、更に沈んでいく。そう。別に現状に不満があるではなし、問題はない。何も問題はないのである。絡新婦はただ、糸を繰るだけである。繰り手の意図のままに。