凡人の帰還
――目の前に広がるは曇天。今にも雨が降りそうな黒いそれは、今の漢王朝の行く末を思わせる。
どんよりとした空気は重く、湿っぽい。ひょっとしたら薄く雨粒が落ちているのかもしれない。それくらいに粘つく空気だ。
それでも、それでも俺はこうして生きている。だったら歯を食いしばってでも生きるしかない。前に進むしかない。
などと珍しくシリアスさんと仲よくして雰囲気に浸っている俺に声がかけられる。いや、人間暇だとロクなこと考えねえってことさね。
「旦那!あね……呂伯奢様がお呼びだ――ですぜ!」
あいよと軽く応えてどっからどうみてもごろつき寸前の男に手をひらひらとさせて持ち場を離れる。
今の俺は呂伯奢率いる商会の用心棒……ぽい感じで振舞っている。
呂商会は母流龍九商会がカバーできていない南皮から洛陽の北回りのルートを牛耳る商会だ。
その会頭たる呂伯奢と知り合ったのは俺が放浪している時にたまたま巡り会って、って訳じゃあない。
「お呼びだそうで。入るぞ」
応えも聞かずに戸を開け、室に踏み込む。
「おや、お早いお着きだことで」
出迎えるのは着飾った妙齢の麗人。艶然と笑いながら俺を差し招く。優雅なその様は貴人のもの。漂う色香は成熟したそれであり、思わせぶりにしなをつくる。
まあ、普通に魅力的な麗人ではあるのだが、それどころではないのである。今の状況がね、それどころじゃないのですよ。
「うるせえよ。さっさと用件言えってば」
「つれないねえ。そんなんじゃ女にもてないよ……と言いたいところだけど、そうでもないみたいだしね。
ま、いいさね。南皮までの道程に敵影なし。明日払暁に発つことにする。
二刻もすりゃあ無事に我が家への帰還がかなう見込みさね」
くすり、と妖艶と言っていい笑みで呂伯奢――ええい、面倒だ。張燕がそう言う。
そう、俺が、俺たちが南皮までの道程を、身を任せたのは黒山賊であった。
「まあ、しかし驚いたよ。まさかアタシ達のとこに来るなんて思ってもみなかったからね」
艶然と、しかし苦笑気味に張燕は呟く。
「そうかい。お前さんがそうなら、他の誰にも読むことはできんってことだろうからな。そりゃあよかったってものだな」
洛陽を脱出した俺たちが身を寄せたのは薄汚い寒村。洛陽からほど近いそこは実は黒山賊の出先機関。
政局、機を見るに敏。その張燕は中央の動きには非常に高い関心を寄せており、いち早く動きを捉えるために村一つを買収していたのだ。
その、いわば隠れ里的なそれを俺が知っていたのは張燕に渡された一枚の地図。黒山賊のそのようなアジトの数々を克明に記したそれのおかげだ。
「でもねえ、思わなかったのかい?アタシが、アンタたちを売る、ってことは」
挑発的なその言葉。
まあ、そうよねえ。でもね。
「ないね。生死を問わず、洛陽に俺たちを売ったとしたら黒山賊に未来はない。
面目にかけて袁家は本気で黒山賊を討つさ。それくらいは自明の理。そんな選択をするかね」
張燕は、フン、と何か拗ねたように口を尖らせる。
「ああ、そりゃあ勘弁願いたいねえ。あたしゃ大きな博打は勘弁さね。
一世一代の大博打に勝ったんだからさ、あとはこつこつと積み重ねていきたいものだよ」
そして、打って変わったようにけらけらと軽やかに笑う。
そう、そうだからこそ。それが分かっていたからこそ俺は黒山賊を選んだのだ。表面的には不倶戴天の黒山賊――実際は馴れ合いも甚だしいのだが――に身を預けたのだ。
それは成算あってのこと。張燕という女傑を高く評価しているからこそ、である。
「まさかに、黒山賊を率いる女傑がなあ。言行不一致甚だしいとはこのことだろうな」
「おやおや、アンタがそれを言うのかい。袁家という巨大な組織を牛耳るアンタがそれを言うかね。
まったく。重ねて言うけどね。あたしゃ分の悪い賭けは大嫌いでね。アンタだってそうじゃないのかい?」
フン、と一つ笑って俺は言う。
「賭け事は、胴元に限る」
その言に呵呵大笑する張燕。いつぞやもこうだったな、と思い出す。
黒山賊の本拠地に身を寄せた時に、裂帛の気迫をひた隠しにしながら問われた時だ。
――曰く、アンタの目指すところはどこだ、と。
無論、答えてやったよ。さっさと隠居したい、ってね。隠居した後にあれこれ悩むのも面倒だから、世は平らかでないといけないと。
だから、俺はさっさとのんびり隠居したいだけだと。そのために色々やっていると。
いや、張燕みたいな麗人が呆けた顔というのは中々見れないから、ある意味眼福であったのだろう。艶姿の今よりもきっとね。
まあ、張燕が恐ろしいのはそれだけではない。いつまでも野盗なんかやってられないとばかりに母流龍九商会に目端の利く者を数十名送り込んできたのだ。
そしてでっちあげたダミーカンパニーの呂商会。これにより直接物流に携わる。南皮から洛陽までの最短ルートはもともと黒山賊が押さえていたこともあり、これが莫大な利益を生む。
張燕がしたたかなのは、これを呂商会独占としなかったことだ。他の商会もそのルートを使う。ただし護衛料がマージンとして上乗せされるので、価格的優位性はダントツ。
野盗まがい、というよりほとんど野盗の集団であった黒山賊を、一部とはいえそうして使いこなし、十万とも言われるその数をきっちり養う。しかも合法的に。
その、ソフトランディングのための調整能力というか、統率能力というか、先見性に俺は感嘆しきりなのである。
「まあ、黒山賊と袁家は不倶戴天の敵だけどな」
ぴしり、とそれでも馴れ合うつもりはないと一応主張してもまあ、蛙の面になんとやらである。
「ま、固いことはいいっこなしさ。そら、一献」
いつのまにか手にした酒を、これまたいつのまにか掴ませた酒杯に注いで張燕はにんまりと笑う。俺もしょうがないから、笑う。
「そうだな。できることなら、長いお付き合いであってほしいね」
「おや、嬉しいことを言っておくれでないかい。そうだね、どうせならより親しくなっとくかい?」
むわり、と成熟した女の色気が俺を取り巻く。肌を重ねるか、と露骨に問うてくる。
「いや、俺は情に流されるからな。それはやめとく」
あらそうかい、と残念そうに身をひるがえす。
「ま、きっちり南皮まで送り届けてやるよ。姫さんたちと一緒にね。
今後とも。どうぞお引き立てのほどを」
その言葉を聞き流し、思う。
明日だ、明日には帰れる。南皮に帰れる。
それから、どうするんだ?決まっている。でも、気が進まない。それは許されない。ああ、やだやだ。
室に一人。
酒精を呷りながら、意識が混濁していくのを心地よく迎えて、沈む――。
◆◆◆
郭嘉は其の報を受け、走りだした。
それが真ならば、真ならば。
――郭嘉はそれほど身体能力に恵まれてはいない。いや、劣っていると言ってもいいであろう。
謀士なんぞにはそれほど価値を求められない世の中だ。彼女は大いに苦しんだ。
脳髄の冴えを誇ろうとも、武家に於いては枝葉末節。故に、約束された声望を捨て、流浪したのだ。
遠回りをしたように思う。結局今自分が仕えるのは袁家なのだから。だが、かけがえのない友人に恵まれた。
郭嘉は走る。既に脳髄には必勝の戦略が幾筋も出来上がっている。
だが、その根源を、前提を満たすための材料がまだ足りない。だから郭嘉は走る。脆弱な心肺が悲鳴をあげる。
その悲鳴すら弱々しく、ひゅぅ、と鳴る。それでも郭嘉は棒となった足を前に進める。そして夜明けの一番鶏を合図に開く城門。
そこに立つ青年を見る。
多少薄汚い恰好であっても見失うものか。全く。身を隠すならば得物くらいは取り繕うべきなのだ。
必死に呼吸を収めて、努めて平静に声をかける。
「お早い御着き、とは言えませんね。ともあれ、ご無事でなによりです。
それでは、後ほどに。落ち着いたらご相談と承認を頂きたいことがあります」
踵を返す郭嘉に戸惑ったような声が追いすがる。
「え?稟ちゃん?ちょっとそれ冷たくない?久しぶりの再会なんだし、もうちょっとこう、反応があると思うの。
あれ、稟ちゃん?稟ちゃんさーん?」
フン、と郭嘉は決して振り返らない。
その彼女の脇を弾丸と化した幼女――多分典韋だろう――が通り抜ける。
後方でドゴォ!と微笑ましい音が響き、やや遅れて駆けてくるのは、もう一人の親友。常山の昇り龍。
「おお、稟よ。主が帰って来たというのは真か?
いや、これまでも幾度もそのような報はあったが。稟が動くということは今度こそは、という奴だな」
この、心根が真っ直ぐな親友になんと言ってやろうかと思うのだが。
「そうですね。どうやら今回は確かだったようです。どうぞ歓迎はお任せしますとも」
きっと、立場的にも、性質的にも、彼の横に立つのは武人であるべきだ。
誰にともなく言い訳しながら郭嘉は歩を進める。自らの責務を果たすべく。
反董卓連合。既に考え付く状況において袁家は最終的に勝利する。
それを郭嘉は確信するのであった。




