前夜
政権奪取より数か月。
賈駆は相国となった董卓の腹心として国政を思いのままにしている、と世間一般では思われている。
権勢をいいことに先帝に退位すら強い、権勢は留まるところを知らない、とされている。
だが勿論、実際はそうではない。
董卓を人質に取られ、最早李儒――或いはその背後――の操り人形に近しい。
朝廷の人員からは冷たい目で見られ、官僚たちからも面従腹背状態であるのが実際のところである。
それでいて、辛うじて政権運営が果たされているのは賈駆の有能さと勤勉さを示すものであろう。
とは言え、最早それは恐怖政治に近しいほどに成りはてている、あまりに不服従の過ぎる官僚は幾人かが見せしめとなっている。するしかなかった。
それを見てまた官僚が反感を募らせるという悪循環を分かりながらも、賈駆は止まることが出来ない。
そして更に扱いに困っているのが禁軍である。
呂布、或いは張遼に押さえさせようとするも内部の政治的抵抗が激しく、ままならない。
だが、意に沿わない武力集団を抱えることほど危ういことはない。煩悶しながらも打つ手なく賈駆は摩耗していく一方である。
そんな時に来客が告げられる。
正直それどころではないと門前払いしようとするも。
「ここで李儒、か……。
いいわ。通しなさい」
ぎり、と歯ぎしりしながら賈駆は身なりを整え、軽く化粧すらして出迎える。
「あら、思ったより元気そうね。お仕事は順調かしら?」
くすくす、と笑うこの女を今すぐ縊り殺してやりたいものだ、とばかりに。
視線に殺意を込めて、賈駆は李儒を睨む。
「あらやだわ、こわいこわい。
そんな目で見られたら、やあね。
うっかり手が滑っちゃうかもしれないわねえ」
にまりと何かを示唆しつつ李儒は笑う。蛇のような湿度に賈駆は改めて嫌悪を感じ、それを押さえ込む。
「何の用よ」
素っ気なく。
賈駆はもはや態度を繕おうともしない。どうあっても、何をしても事態は改善されないのである。
目の前の存在に忖度しても自身がすり減るだけである。
「いえね。あまりにも貴女が大変そうでね。
正直、色々と回ってないでしょう?
いえね、よくやっているとは思うのよ、本当に。でもね。あまりにお粗末な様子だから心配になってね。
多少なりとも助けてあげようかな、って思ったのよね」
誠意の欠片も感じさせないとはこういうことか。いっそ関心すらしながら賈駆は応える。
「アンタに助けてもらうくらいならば、そうね。
今ここでアンタを刺すわよ。その方が手っ取り早いわ。
でもどうせボクでは無理だろうから、そろそろ武官でも呼ぼうかなって思ってるくらいよ」
「あら、怖いわねえ。でもまあ、なんでだか私は嫌われているみたいだから。
だから、貴女の助けになりそうな方を紹介しようと思ってね」
す、と手を上げる。それが合図であったのであろう。人影が姿を現す。それは意外な人物。
「何だな。この状況だと僕は悪者一直線なんだが……。
もうちょっと話の流れとか、そういうものについて気配りしてほしいなあ」
苦笑しつつ姿を現したのは皇甫嵩。賈駆が取り逃がした漢朝の大物の一人である。
「な、なんで!アンタら、あんたらっ!
そうか、そうか……っ!
最初から、つるんでたのね!」
絞り出すよな賈駆の言葉に、皇甫嵩は困ったような顔を浮かべる。
「そう思われても仕方ないけどね。まあ、経緯は置いておこう。そしてはっきり言おう。
君らの統治は見ていられないのさ。ああ、実際見ていられない。
だからね、せめて禁軍の面倒くらいは見てあげようというのだよ。
それで大分違うだろう?」
確かにそうだ、その通りだ。禁軍を皇甫嵩が押さえてくれるならば、相当賈駆も楽にはなる。
だが、それでいいのかと思う。それはいけないと思う。
この、目前の男は信用してはならないと本能が警告してくる。
だが、それでも賈駆には選択肢はあってなきが如し。李儒が提示した選択肢をどうこうできるわけもない。それでも。それでもと思うのだが。
「まあ、思うところはあって当然だろうさ。僕だって色々と思う所あるし、ね。
ただまあ、それで被害をこうむるのは、か弱い民たちじゃないか。
だからまあ、ひとまずよろしくね。
ああ、主上にもご挨拶しときたいなあ。頼まれてくれるかな?」
にこやかな皇甫嵩を苦々しげに賈駆は睨む。
だが、確かに。
確かに皇甫嵩が禁軍を掌握するにつれて賈駆の負担は減っていったのである。
故に賈駆は皇甫嵩その人の真意は捨て置くことにする。
いや、それを深く考える余裕なぞなかったと言ってもいいであろう。
まさに忙殺、であった。
そして、それより暫し時を置き、時代を動かす人物が再び舞台に姿を現すことになる。
その報を受け、賈駆は項垂れ、皇甫嵩は人知れず舌打ちする。そして李儒はほくそ笑むのだ。
その無益さ。
それに気付くにはもう少し時が必要となる。




