西涼に馬家気炎を挙げる
「ち、父上が死んだ……?
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!そんな馬鹿なことがあるか!
あんなに強い父上がやられるはずがないだろう!」
三か月前のその慟哭。
それを厳顔は忘れることはないだろう。悲痛な、幼子のようなその声を。それは何かしら胸をうつものがあった。
……厳顔がここ涼州にいるのには理由がある。
董卓が起こした変事の詳細について可能な範囲で情報を集め、辛くも洛陽を脱した彼女が向かったのは益州ではなく、涼州。
最も激発する可能性が高いのが涼州であったからだ。可能性としては袁家もあるが、馬家と違い未だ当主はじめとした首脳は行方不明。
なれば袁家は捜索に力を注ぐであろうという判断である。
一方馬家については馬騰の死亡が確認されている。
馬超はいささか以上に直情径行にあり、暴発する可能性は大いにあった。その場合、益州にも派兵の要請が来たであろう。
まあ、函谷関で防がれる分には問題ないが、馬超の武勇を考えれば洛陽まで迫る可能性もある。
そのまま押し切ることもありえるであろう。その場合、劉璋を人質とされている益州が兵を出すことはありえず、それを逆恨みされることもありえる。
故に馬超の暴発を抑えるために厳顔は涼州に赴いたのである。
無論、劉璋を置き去りにしたことに対する風当たりは厳しいものがあるであろう。
だが、同じく囚われるよりは主君に正確な情報を送り、その上で最善を尽くすことこそが肝要。
直接的な地位も権力も持たない劉璋が害される恐れはほぼないと言っていい。
名よりは実を。主たる劉焉が常々言うことである。
そして厳顔は益州と密に連絡を交わしながら涼州にある程度の影響を築くことに成功していたのである。
「とは言ってもねえ。多分お姉さまもうすぐ爆発するんじゃないかなあ。実際それを止めることもできないかなって、たんぽぽ思うなー。
ま、これまで抑えていたのが不思議なくらいだけどね」
肩をすくめながら馬岱は厳顔に言う。そろそろ限界だと。
実際そうなのであろう。
「とは言え、函谷関は要害。更に韓遂の蠢動もある。馬家単独で動くのはいかにも不利であろう。
何より、相手は主上を奉っておるぞ?
武の名門馬家。その名を逆賊とするのは本意ではなかろう?」
お主ならば分かっておるじゃろとばかりに厳顔は馬岱に目線を向ける。
馬岱は、たははと手を振り。笑って応える。
「いや、あのね。何て言うのかなあ。
こんなに厳顔さんと私たちで認識に差があるとは思ってなかったなあ。
確かに月さん……いや。董卓は、今上陛下を擁立してるよ。でも、それは大したことじゃない。
厳顔さんも分かってるんでしょ?今上陛下が正統だとは言えないということ。
ならばそれを糾すのが武家の名門たる馬家の義務なんだよね。
董卓を配下にしていた馬家ならなおのことだよ。
おじ様からよく言われてたんだよ。『命を惜しむな、名を惜しめ』ってね。
あの時は分からなかったけど、今ならよく分かる。
うん、覚悟完了、って奴かな」
その笑みは平穏でいて、だからこそその覚悟を感じさせるものであった。
「な、なんと?
しかし、韓遂は難物なのだろう?」
くすくす、と馬岱は澄んだ笑みを浮かべる。いかにもおかしげに。いや、これは見知っていた馬岱なのであろうかと厳顔は瞠目する。
その表情に迷いなぞ全くなく、面差しには覚悟が現れている。
「うーん。正直、今のお姉さまだったら鎧袖一触だと思うなあ。
それに韓遂だって根っこは同じだと思うよ?何せおじ様の義兄弟だしね。
それでなお立ちふさがるならばまあ、錦馬超の真価、というやつ。その武威ってやつ。それを、ね。
身をもって知るんじゃないかな?」
「……匈奴はどうする。背後の備えは」
「洛陽を落としてから返す刀で蹂躙すればいいでしょ。匈奴に領土欲はないからね。
あっさり逃げると思うし。
まあ、もし長城を越えて本当に来たならば、こちらも長城を越えるだけだし」
血で血を洗う戦場を駆け抜けた少女と、要害に楽園を築こうとしていた艶女の認識の差は埋めがたく。
「お姉さまをね、止めていたのは。準備が整っていないから、というのは厳顔さんにも言ってたよね。
あれは方便じゃなかったの。
そしてその準備は整ったんだなこれが。
ああ、そんな顔しないでほしいなあ。たんぽぽ嘘は一度も言ってないし。勝算だって十分あるしね」
勝算?首を傾げる厳顔に馬岱は笑いかける。
「うん。馬家が万全に戦の準備を完了したんだから、袁家だって同じだと思うよ?
根拠?
だって、二郎様とたんぽぽは気が合ったもの。あの方からは武家の匂いがしたもの。とても、濃くね。
だからこそ、おじ様もあんなにも気に入ってたの。
うーん、分かるかなあ。分からないかもしれないけどね。
袁家と馬家は似た者同士だよ。そりゃあ、色々と違って見えるし、実際違うんだろうけどね。でも、根っこは同じ」
さて、お前はどうする?益州劉家はどうするのだと笑う。
これが連綿と国境を守っていた武家の凄味かと厳顔は思う。ならば。
「劉璋様には申し訳ないことになるかもしらんな……」
主たる劉焉に送る書状の内容を推敲しながら厳顔はそうつぶやいていた。




