臨戦
郭嘉は手元に届いた書付にため息を漏らす。
どこをどうやったのか、厳重に情報封鎖されている洛陽からの便りである。送り主は、彼女の親友。
「反董卓連合。ですか……」
その五文字のみが記されていた書付。巧妙に隠蔽されたそれにより、親友の無事を知る。
そして苦笑する。大きく出たものだ、と。
今の袁家にそのような余裕はない。内部の権力闘争を押さえるのに精いっぱいなのが現状だ。
矢継ぎ早に出された大規模投資計画により、官僚の業務負荷を増大させて暗躍できぬようにしていたが。それもそろそろ限界であろう。
そもそもの根幹に対しては、何ら対策を打てていないというのが実際のところであるのだ。
……こうなると郭嘉が重用されるようになった経緯、後ろ盾であった存在――無論紀霊その人である――そのものが足を引っ張ることになる。
郭嘉の能力は万人が認めるものではあったのだが、どうしてもそうなる。それはかつて忌み嫌った袁家の旧弊。
思えばそれを感じない環境を整えられていたのだな、と自嘲気味な笑みが浮かぶ。そしてその笑みは陰を含むものだ。
「おやおや、これはどうにもお疲れの様ですね。少し休まれた方がよいのではないですか?」
声をかけてきたのは、今や袁家の屋台骨を一身に支える沮授である。
貴方こそ憔悴しきっているではないか。
そう言ってやろうとして振り向く。そこには、にこやかな笑みはそのままで、見違えるように生気に満ち溢れた表情である。
誰だこれは、などと思う。思ってしまうほどだ。
いや、涼やかな笑みに胡散臭い香りがまとわりつく。そういえば沮授という人物は本来こういう感じであったか。
「……。
そうですね。そうかもしれません。
しかし、正直、見違えました」
郭嘉の言に沮授は笑みを深める。
くすり、という笑みの口元にはごまかされない彼女だ。鋭い視線が周囲を睥睨しているのが今なら分かる。
ふむ、何があったか知らないが本調子に至ったということであろうか、と。
更に探る郭嘉の視線を真正面で受け止めて尚、沮授の笑みは柔らかく、深いものとなる。
「いや、正直僕も追い詰められていたようで。知人に叱られましたよ。
辛気臭い、ってね」
一体誰がこの青年にそんな言葉を投げることができるのだろうか。さしもの郭嘉も言葉を失うのだ。
その、呆然とした表情に沮授は笑みを深める。
「いささか、現状維持に汲々としすぎたかもしれません。袁紹様や二郎君が帰還した時にこれでは呆れられてしまいます。
いかにも袁家の首魁となるには権謀術数に長けねばなりません。ですがそれでは足りません。
さて、蠢動する方々。様々です。
郭嘉さんから見てどう思われますか?」
ふむ、と郭嘉は幾人かの顔を思い浮かべようとするが、どれもこれも小粒にすぎる。
なるほど。袁紹というのは傑物なのだと今更ながらにそう思う。
彼女の日輪の如き光輝が目に焼き付いているためであろうか、有象無象はいずれも取るに足りない存在に思えてしまうのだ。
なるほど。
……なるほど。
「――陰謀ごっこで袁家を牛耳って、私たちの主人面しようとする凡骨たちが多いなと思ったものです。
いえ、夢想するのは勝手です。
ですがその夢に酔っているのに付き合うというのは、実際苦痛でしかないですね」
我が意を得たりとばかりに沮授は微笑む。
なるほど、本来の彼はこうなのかと郭嘉は内心で沮授という人物の評価を改める。
唯々諾々とした官僚かと思えば、こんなにも覇気があるのではないか。袁家の差配を任される訳である。
非常時にこそ、その人物の真価が発揮されるというのは誰の言葉であったろうか。
なるほど。
「ええ、そうですね。袁家の本領は武に在ります。袁家に覇を唱えるのであれば、武勲なくしては叶わぬというのは必然というもの。
ええ。袁家の当主が滞在する邸宅を襲い、紀家の宿将を討つ。このような暴挙に対して黙するなぞありえません。
一当てせねば武家として面目が立ちませぬもの」
いささか挑発的な言を郭嘉は吐く。
探るような視線の郭嘉に沮授は応える。にこやかに。
「そうですね。大義名分なぞ勝ってから考えればいいでしょう。
まあ、必要最低限のことは陳琳さんにお任せするとしましょうか」
沮授の言に郭嘉は声を出して笑う。ああ、それは適任だ。さぞかし名分を起草してくれるだろう。
「では。そちらのあれこれは、お任せしますよ。流石に僕が出るわけにはいきませんから。
取りあえずはお任せします。二郎君が惚れこんだ軍才、当てにしていますよ?」
す、と眼鏡を整えて郭嘉は応える。
託されたものを確認する。
「では、任されました。
これより袁家は反董卓連合を糾合します。
まずは涼州に遣いを出し、馬家軍と連携を謀ります。これにより二正面作戦を強います。
此方は、まず星を如南より呼び戻して兵を率いさせます。襄平よりは公孫賛殿を招聘。彼女の白馬義従あれば董家軍の騎馬軍団に伍することも可能でしょう。
そして南方よりは孫家に派兵を求めます。最悪将だけでも。彼方は歴戦。客将としても使い様があります」
次々と流れる郭嘉の言。それに沮授は満足げに頷く。流石である、と。
眠れる獅子はいよいよ起きようとしているのだ。その咆哮が楽しみなほどに。
郭嘉が語る百の戦略に対して、沮授は千の内憂を想定する。
それらを全て平らかにして、沮授は微笑むのだ。
そして、郭嘉という軍事的才能の塊がいよいよ本領を発揮することになるのはこれ以降のことである。
◆◆◆
☆その頃の劉璋ちゃん
「こら、ここから出しなさい!
こんな所に私を閉じ込めるとか、どういうつもりなの!」
こんな所と言うが、ずいぶんと立派な邸宅である。
それは分かっている。
それでも劉璋は黙らない。
何が起こったか。おおよそのことは理解している。ならば、それならば、だ。
自分にしかできないことがあるのだ。
皇族である自分にしか。
「弁君に会わせなさい!協君を呼びなさい!」
敢えての呼び方。そしてそれが出来るのは自分のみ。
二人の橋渡し、仲立ちなんてできない。そういう状況でもない。
それは理解している。
それでも。
それでも皇族として劉璋には義務がある。世を平らかにする義務がある。
そして自分に価値があるというのも理解している。学んだ知は力であると確信する。
自分の身に価値があるということを最大限に利用するのだ。
そうして知った事実にはちょっと脱力してしまったりしたものだが。
いや、自分を守るべき厳顔がとっくに逃亡していたというのは、流石に思うところがあった。
だがしかし、考えれば彼女は母である劉焉の部下。
であれば今の洛陽の状況を確実に伝えるというのはそれが本来の業務であるのだろう。
馴染んで、気安かったのは確かだが。
それはまあ、そういうことなのだろうと劉璋は割り切っている。割り切った。割り切ったとも。
それはそれとして自分のできることをするのみ。
自分の言は、けして無視できないものである。
それを理解している劉璋は、発声を鍛えることにする。
どうせならば洛陽全土に自分の叫びを伝えよう。
「えっと、声量には肺活量だったかな。肺活量って確か息が苦しいほど鍛えられるのよね。
それには鍛錬あるのみ、と。
水練が一番いいって二郎は言ってたけど流石に無理よね。
だったら走るか、馬術か、よね」
劉璋としては宮廷内を身軽な格好で走って、ついでに情報収集をしたかったのだが、流石にそれは許されることはなかった。流石に。
幽閉されている劉璋がひたすら馬術に興じていたというのは、複数の資料に記されているのである。




