時の奔流
董卓、叛す。そして何進、馬騰、朱儁を誅滅。
遺勅により今上帝を廃位。弘農王とする。
弘農王とは劉協の陳留王と比較し、相当位の低い地位である。
劉弁はこれに異を唱えず、大人しく皇位を譲った。
そして至尊の座に就いた劉協により、董卓は相国となり絶大な権力を手にした。漢王朝をその手に握ることになったのである。
その報せは衝撃を以って中華を駆け巡る。
最も衝撃が大きかったのは間違いなく袁家であろう。先帝たる、現弘農王劉弁への輿入れに向けて調整をしていた矢先の変事である。
これで動揺しない方がおかしい。
それを何とか抑えきっている沮授と郭嘉の能力と尽力は賞賛されるべきであろう。無論、あらゆる支援を行っていた張紘にもそれはあてはまる。
悩ましいことに、今のところ袁家の首脳の行方については情報が途絶えている。死んだとも、捕えられたとも伝わってはいないのだが。
「……そろそろ、抑えきれないかもしれません」
常ならば涼やかな笑みを浮かべる沮授が、流石に疲労困憊といった体で呟く。
「いや、沮授はよくやってるぞ。もう董卓の謀反から三か月だ。これまで表立った動きがなかったってのは、すげえことなんだぞ」
張紘の言葉は本心からのものではあるが、慰め程度にしかならない。
袁家の今後は誰が担うのか。水面下では動きが本格化してきている。留守居役が沮授であるのもそれを助長するのだ。
袁家の権力争いからは身を遠ざける彼の姿勢は、能あっても欲なしと好意的に取られていた。彼はあくまで袁家の補佐に徹するというのは袁家における共通認識と言ってもいい。
だからこそ、ここにきて問題が生じる。
誰が袁家を牛耳っても、沮授さえ抱き込めば。と思う輩が出てくるのだ。無論それを座視する沮授ではないのだが、袁家の後継争いに口を出すわけにもいかないという二律背反。
「こうなると、いかにも袁胤様の件は痛かったですね……」
まさに痛恨、である。
袁紹の予備として袁逢は袁術を産んだ。だがその袁術が輿入れとなれば予備がいなくなってしまうのだ。
かつてその座には袁胤がいたのだ。であるからこそ不穏な動きがあっても袁胤は誅されなかったのである。
李儒の一手はこの上なく袁家に深刻な影響を与えていたのである。
「幸い、景気はいい。そのおかげで民の動揺はない。
ほんと、それだけが救いって感じかなあ……」
不穏な空気も、目前に迫っていた黄巾の脅威に比べれば雲の上の出来事。目前の好景気により袁家領内の民は落ち着いている。
黄巾賊残党は半ば流民と化して袁家領内に流れ込む。それを養うために大規模な公共工事――大規模農場や鉱山、橋梁建設に街道や港湾整備他多数――が計画、実行される。その需要に応えるために各種生産活動は全力回転。
それを支えるための財政出動が必要とされるのだが、袁家の金蔵は揺るぎもしない。
治安出動のための軍備の強化も相まって、袁家領内は空前の好景気に沸いていた。
それがあるからこそ、これまで袁家内部の蠢動も抑えられていたのである。
「流石にそろそろまずいですね。
いや、つい数か月前までは袁家は盤石と思っていたのですがね……」
肩を落として盛大にため息と弱音を吐く。これも張紘の前だからこそであろう。
張紘も深く懊悩の表情を浮かべる。ぐったりとした様相の親友にかける言葉もないのだ。
そんな二人を黙って見ながら茶を淹れ、甲斐甲斐しく茶菓子を出していた赤毛の女性――赤楽――が呆れたように口を挟む。
「本当に君ら二人だけだと辛気臭いな。
あの、暢気かつ軽佻浮薄かつ女好きであれこれ厄介ごとを呼び込む御仁がいないと、見てられないことになるのだな」
そしてつかつかと歩みを進め、張紘の頬を引っ張り、弾く。
それも盛大に。
「い、痛いぞ?!」
恋人の抗議の声に赤楽はフン、と呆れたように鼻息を一つ。
「当たり前だろうが。痛くしたんだからな。
目が覚めたかな?ああ、まだ寝てるみたいだな。
じゃあ目覚ましをあげよう。
そもそもだ君ら。
あえて聞こうか。これは本気で疑問なのだがね」
やれやれ、といった風の仕草からの視線は炎。
それが二人を射貫く。
「君らはあの御仁がこんなことで儚くなるなんて本気で思っているのか?」
それは決定的な言。これまで二人とも、あえて口にしなかったものだ。
「これは手厳しい。確かに二郎君の安否についてはあえて口にしていませんでしたとも。
ですが、それは最悪を想定していたからこそです。
備えはしています、が……。
いえ、これは甘えというものですかね」
「よせやい、おいらだって認めたくなかったのさ。
それは、思っても、言ったらそうなっちまうんじゃないかって、な」
やれやれ、とばかりに赤楽は肩をすくめる。
「便りのないのは良い便り。あの御仁がこんなことでくたばるはずはないともさ。
君らは義兄弟なのだろう?君らが信じてやらなければ誰が信じるというのだ?」
ニヤリ、と口を歪ませる麗人に沮授と張紘は呆然とする。彼女は最悪に備えろ、と言ったのではなかったのか。
そんな二人の表情を愉快そうに見て再び口を開く。
「あの御仁、ひいては仕える主君がこんなことでどうにかなるはずはないだろう。
考えても見ろ。まあ、袁紹殿の豪運については語るに及ばないよな?
ここではあの御仁についてだけ語ってみようか」
艶然と微笑む。心底楽しそうに。
「たまたまお忍びで市場に来ていたらたまたま居合わせた張紘と私に出会ってその場で口説き落とした。
たまたまふらりとこれまた街中を歩いていたら李典、楽進、于禁という俊才に出会い、登用した。
たまたま立ち寄った料理屋で知り合った典韋殿を、たまたま立ち寄った町で見かけ、そのまま登用した。
武者修行と称して出奔したら旅先で皇族に連なる劉璋殿を助け、誼を結んだ。
更にその道中で程立、趙雲、郭嘉なぞという傑物が野盗に襲われている現場に巡りあって救い、なんだかんだで全員登用した。
――こんなに天に愛されている御仁がこんなことで果てるわけがないだろう」
文句あるか?とばかりに、どちらかと言えば薄い胸を張る赤楽に張紘は苦笑する。
ぽり、と頭を掻いて頷きを幾つか。
「いや、すまねえ。確かに二郎は生き汚いからな。こんなことで死ぬはずはないや。
おいらとしたことがどうにもいけねえや。随分弱気になってたみたいだ」
「ふむ、なるほど。
そうですね。二郎君ならばそれこそ何をしてでも、同行されている方々を無事に送り届けるでしょう。
その通りですね。
いや、女は強しと言うべきですかね?いやいや、これは妬いてしまいそうですよ、張紘君」
言いながらも沮授は内心舌を巻く。時折見せていた明敏さに加えてこの事態においても全く揺るがない。これは認識を改めねばなるまい。
彼女であれば袁家内部においても柱石となれるであろう。間違いなく。
「クク、沮授殿。
よしてくれよな。これは岡目八目という奴さ。私にとっては結構他人事だからな?
おのずと見える景色も違うというだけさ。
ウン、そうだな。もっと言えば一度死んだような身さ。だからあれこれ好き勝手に言えるってだけ。そしてね」
――惚れた男一人ならばいかようにもしてみせるというだけさ。
そんな、無言の悪戯っぽい目線を受けて沮授は苦笑する。
「そうですね。僕らの動揺。それはたちまちに波及してしまうでしょう。そうですよね。
いや、今日はご馳走様でした。色んな意味でね。
二郎君が帰ってきたときに余計な気苦労を背負わせないようにするとしましょうか。
ええ、本当にご馳走様でした」
訪れた時と同様に、にこやかに。しかし含んだ表情は変わって明るく、沮授は席を立つ。
「なに、漢朝全てを敵に回してもお釣りがくるほど僕らは備えてきたんです。気楽にいくとしましょう」
それも全てはあの男が無事であったならば、である。
言外のそれを理解して張紘も笑う。
「二郎は楽をしたがるからなあ。だったら先回りして徹底的に楽をさせてやるってのもいいな」
「それはいいですね。
いつも二郎君には驚かされてばっかりですから、たまには僕らが驚かせてやるのもいいかもしれません」
「その時の二郎の顔、見てみたいもんだな。
いやあ、楽しみが増えたな」
軽口を叩く二人を見て赤楽は暢気にむしゃり、と茶菓子を頬張るのであった。




