そして時は動き出す
情事の後の気怠い空気。
何進は酒壺から酒杯に酒を注ぎ、ぐびりと飲み干す。
熱い塊が喉を焼くのが心地いい。
袁家より贈られたそれは火酒というそうだ。なんとも言い得て妙である、などと埒もないことを思う。
「呑むか?」
未だ余韻に浸っている華雄に問うと否と応える。
強い酒を呑むつもりはない、との応え。
「お前さんも真面目だねえ」
苦笑し、灼熱の喉越しを味わう。
「……随分上機嫌なようで。
実に珍しい」
贅肉の欠片もない、鍛え抜かれた裸身を晒しながら華雄が問うでもなく呟く。
「は、そうか。そう見えるかよ。まあ、そうかもしらんな」
カカ、と声を上げて何進は笑う。ぐびり、と響こうほどの飲みっぷり。
「以前の貴方はそういう風に声を上げて笑うことなど滅多になかった。
言ってみれば、もっと殺伐としていた」
近寄りがたく、殺伐としていたというのが実態。それからすれば随分丸くなったものだなと華雄は思う。
「そうか。そうかい」
そうかもしれないと何進は思う。
昔のように触れるものを全て切り裂くような、壊してしまいたいような衝動。あの苛立ち。そういうものはとんとなくなってしまった。
そして思い定めたところは手に届くところまで来ている。はずだ。
「……むかついてたのさ」
何進の独白。
「ああ、そうだ。
生まれが士大夫やら皇族やら。実にご立派なことさ。
それで奴らは頭が足りないときた。その日の買い物の支払いにすら文句をつける。
自分が購った代金すら頷かず、そしてそれが通る。通っていたのさ。
それが政治的手腕ならいいさ。だが、単なる餓鬼の駄々以下というのはな、正直むかついたものさ。
そしてそんなのばっかりでな、嫌気がきた」
だから、と何進は吐き捨てる。
そしてぐびり、と幾度目か杯を干す。
「気づけば大将軍さ。
別にな。
真っ当に商売できりゃあ、それでよかったんだがなあ」
それからは暗闘の日々だ。まあ、幾度刺客に襲われたことか。傍らに華雄が来るまではそれこそ日常茶飯事。
抱いた女が刺してくるなぞありふれていて。
まあ、それも今となってはいい思い出。
なに、これから渡り合うは袁家と曹家。
どちらも俊英を抱えて迫ってくる。なんとも心地よいことよ。
そうだ。これからの政争。勝とうが負けようが何進の根源たる思いは果たされるのだ。
無論、唯々諾々と譲るつもりはこれっぽっちもない。
真正面から応じるさ、と笑う。
むしろ挑んで来いと笑う。
「追いかけてもな、届きっこないと思っていたのさ。
そうでもない。ああ、そうでもないようさ。
蜃気楼を。虹の根元のお宝を。掴むのはただの人間さなぁ……」
栄耀栄華極めている何進だからこその言葉の重み。
それでも問いたいことがあると華雄は口を開こうとするのだが。
裸身そのままに扉の脇に寄りて身体を瞬時に練り上げる。
闖入しようとする存在を認識して得物を掴み、構える。
例え刺客が十人でも討ち取れると確信しながら弛緩していた筋肉を引き締めていく。静かな闘気は高まり、牙を研ぐ。
「王允です。至急のお知らせが」
張りつめていた空気が僅かに弛緩する。
細く開かれた扉には確かに王允。護衛が抱き込まれたということもないようである。
華雄は闘気を緩めて目線で何進に問う。如何、と。
「フン、とりあえず。そこで用件を言えばいいさ」
「それでよろしいのですか」
非常の時である。それでもいいのかという問いに何進は眉一つ動かさずに重ねる。
「そこで言え。できないなら帰ればよかろうよ」
震え声。それは屈辱故か。それでも王允は口に昇らせる。
「皇太后様が、大至急にとお呼びです……」
ギロリ、と何進は王允を睨みつける。
それでも王允は揺るがない。
だとすれば本当に緊急事態なのであろう。これまで妹が自分を呼びつけることなぞなかったのだから。
ならば是非もなし。
「お気をつけて」
華雄の声にフンと一瞥で答えて身づくろいを最低限に整える。
ただし腰には七星刀。漢朝伝家の宝刀である。
宮中にて佩刀できるのは大将軍である何進のみである。
◆◆◆
またぞろ蒙昧どもが厄介ごとを起こしたのかと思いつつ何進は馬車に乗り込む。
執金吾に呂布を宛てたが、目立った効果はない。順当に董卓、もしくは賈駆に与えるべき地位であったかと思いながら思索にふける。
――風切り音一つ。僅かな身じろぎ一つで躱して続く矢を二本の指で掴みとる。
「ハ、舐められたものだ――」
後宮に於いて佩刀できるのは大将軍たる何進のみ。そして腰にあるは七星刀。
馬車から飛び出し、抜く手も見せず射手を切り捨てる。その運足は神速。
「いいぜ、遊んでやるよ」
刺客に囲まれ尚、何進は不敵に笑った。
そして七星刀を無造作に構える。
「クハ、多少は腕に覚えがあるようだがな!」
潜った修羅場の数が違うとばかりに何進は刺客を次々と切り捨てていく。
十数人ほどいた刺客は最早数えるばかり。ニヤリと凄絶な笑みを浮かべながらたじろぐ刺客に自ら歩み寄る。
血に酔ったような表情を浮かべながらも内心は氷のように冷たく澄んでいる。
(――フン、刺客は全員が宦官。となれば首謀者は曹操か?いや、それにしてはお粗末そのもの。
彼奴が首謀者ならば夏候惇を全面に押し出して夏侯淵の狙撃という必殺を繰り出さないわけはない。
とすればこれは欺瞞工作か。しかしこれだけとすればいかにも浅薄。奥の手こそが本命か。
まあいい。なんにせよ目の前のこいつらを始末すりゃあ――)
殺気を新たに手にした七星刀を無造作に振るう。やれやれとばかりに最後の数人に向き合い、歩を進める。
なんだ、浅薄な暴走か。
そう、気を緩めた一瞬。
閃光が落ちた。
「ぐ!」
楼台より落ちた閃光は何進の脳天を割ろうという鋭さ。
それを咄嗟に受けた何進こそ流石と言っていいだろう。
だが、その代償は大きく。
からん、とあっけないほどに軽い音を立てて転がる七星刀。そして、落ちた利き腕より吹き出る鮮血。
返り血を浴びてその闖入者はなお無言。
夜目にも鮮やかな赤毛。浅黒く焼けた肌。刻まれる刺青。肩に担ぐは奉天画戟。
彼女こそは三万の黄巾を独りで退けた中華最強。万夫不当。
「呂布、かよ……!」
無表情に、無感動に。無言で佇む呂布は無造作に歩を進める。
「く!」
咄嗟に後退する何進。奉天画戟の間合いを外すべく飛び退く。
「逃がさ……ない」
必殺。振るう奉天画戟はあっけなく何進の胴を割る。それは間違いなく致命的な一撃。
ごぼり、と口から赤い塊を吐き出して何進はむしろ憐れむような視線を呂布に向ける。
「馬鹿……めら、が、よ……」
漢朝を間違いなく支配していた希代の英傑の、それが最期の言葉。
それを呂布は無感動に見下ろすのであった。




