黒雲はいつも青空の後に忍び寄る
「ねえ、月。くれぐれも気を付けてね。大丈夫だとは思うけど、くれぐれも、ね」
賈駆は思う。そもそも送り出すべきではないのかもしれないと。
いや、董卓が迂闊な言動をするとも思いはしないのだが、ある意味敵地でもある清流派の首魁。劉協の呼び出しはこれが初めてではない。幾度もあったことである。
確かに劉協は英邁ではある。それは間違いないこと。だが董家はあくまで馬家、ひいては何進の閥である。あまり関わりたくないというのが賈駆の本音である。
無論、馬騰に全てを報告してはいるし、その報告についても馬騰は色々と評価はしてくれている。彼自身腹芸なぞできないからこそであろう。
ただ、あまりにもキナ臭い。間諜の真似事を主君にして親友の董卓にさせていることもそうだが、何より。
劉協からの使者たるこの女が気に食わない。
――李儒というこの女が気に食わない。
不気味な人物である。一体何が目的で動いているのかが、まるで見えないのだ。賈駆をして、である。
宦官勢力に近しいと思えば清流派にも名を連ねる。あれこれと暗躍しているという噂だが、その行動原理が見えない。見えないのだ。
智謀の士という世評に間違いはないであろう。だがそれは一体何を目指しているのか。それが見えない。
チリ、と胸を焦がす焦燥。ままよとばかりに賈駆は大上段に切り込む。
「何が目的よ」
にやり、と形容すべきであろう。李儒は間違いなく佳人である。だのに、なんとも品性を疑うような笑みを浮かべてこちらを見てくる。
「あら。漢朝の栄耀栄華に決まっているでしょう。
とっても。とぉっっても賢い貴女にお尋ねするけどね。外戚の専横の善悪。英邁な人物が至尊にあることの善悪。
いえ、一般論よ?さて。それで、どう思うのかしら?」
何が一般論かと思いながらも賈駆はぴくりとも表情を動かさない。
「――返答しないといけないのかしら?」
「いいえぇ。否、と言っておきましょう。それが既に返答ですよ。
まあ、当たり前の返答。そう。議論の余地なぞないわね」
哂いながら言い募る。だから清流派にいらっしゃい、と。
ねっとりとした湿度すら漂うその誘い。
賈駆は即座に応える。
「お断りよ。ボク達は武家。その責務は国土の守護。だから、まあ。そうね。
こう言いましょう。お呼びじゃないわ、ってね」
「あら、随分な言い様ね。何がご不満なのかしら?」
気に食わない。目つきが気に食わない。こちらを見下すその目つきが気に食わない。
貼りつく笑顔が気に食わない。
垣間見える、下衆な品性が気に食わない。
なにか妬ましそうにこちらを見る目つきが気に食わない。吐き気すらもよおすほど。
嗚呼、そうだ。自分はこの女が気に食わないというより。生理的に受け付けないのだ。それを自覚する。自覚した。
賈駆はにまり、と笑う。
だったら遠慮なんてしなくていい。そうだ。喧嘩を高値で売りつけるのに長じている男がいたじゃないか。
高値で買い取る喧嘩上手がいたじゃないか。
彼ならばどうするかな、と思い、ほくそ笑む。いや。笑う。
くすり、と。
「何がおかしいのかしら?」
ああそうだ。余裕ぶっこいたこの麗人ヅラをひっぱたいてやろう。
「いえね、本当に前から思っていたのだけれどもね。
流石に申し訳なくて今まで黙っていたことがあるのよ」
目線を下げ、賈駆は口を開く。いっそ朗らかなほどに。
「貴女の口がとっても臭くって。
ごめんなさいね。ほんと、正直何を言ってたかって。
実は覚えてないの。それどころじゃなくて、ね。
そう、ほんとごめんなさいね?」
「――な!……!」
絶句した李儒を置き去りにして賈駆は室を辞する。
何一つ益のない会見ではあったが。
「ああ、すっきりした!」
あの顔!李儒の浮かべた顔はしっかりと脳髄に刻み込んでいる。なんとも愉快!
久々に安眠できそうだと賈駆の足取りは軽い。
だが、翌日より彼女の表情は険しくなってしまう。
◆◆
――董卓、還らず。




