凡人の目指すところ
情事の後の気怠い空気。増す熱気と漂う湿気。
ふぁさ、と薄布を剥いで女は寝台から身を起こす。
水差しから注がれた冷水。既にぬるくなってしまったそれをこくり、と飲み干す。
中天に差し掛かった月が彼女の均整のとれた身体を青く照らす。
激しい情事で乱れた髪を手櫛で軽く整え、くすりと笑う。
「どうした?」
男の問いに極上の笑みで応える。
「いえ、もう、始末はついたころかな、と思いまして。
ねえ、二郎さん?」
男――紀霊――は顔をしかめる。
「そうか、そうかい。そりゃ実に。実に結構なこった。
それも七乃の思い通りなんだろう?」
投げられた言葉に女――張勲――は微笑む。
その笑みが何を意味するか紀霊には読み取ることはできない。
情事の痕跡も、上気した顔も夢幻ではないかと。
「どうもご不満のようですが……。いまさら、あの三人の助命とか言いませんよね?」
にんまりとした笑みを貼り付けたまま張勲は問う。あの三姉妹の処断を最終的に命じたのは紀霊だ。程立と張勲のその献策。
それを彼は容れた。苦虫を幾重にも噛み潰しながら。
「そりゃ、ねえよ。今更だしな。吐いた唾の始末はつけるともよ」
けして本意ではないのだろう。だがそれに張勲は斟酌しない。
「ご不満ですか?」
にまり、と問い詰める表情は艶然と。
「……最善じゃあねえ。そうだろ?」
「ええ。最善は彼女らを取り込み利用する。それが私達の献策だったんですよねえ。
未だ黄巾の乱は鎮まらず。その余勢を平らげて、袁家隆盛となる一手を拒んだのは……」
笑うその顔は清楚と淫靡を両立させていて。
そして反論の余地などない。
「二郎さんですよねえ」
その一言に紀霊は顔をしかめる。見ようによっては泣きそうなその表情に張勲は畳み掛ける。
「最善と言う意味では、そうですね。太平要術の書、でしたか。
あれを手にしながらの破棄。これはいかにも悪手ですよ。
それでも、です。
それを二郎さんが決めたのであれば、私たちはそれに従いますよ。
ええ。喜んで、ね」
ねちょり、と首筋に舌を這わせながら張勲は紀霊を責めたてる。
「そりゃ、確保するなら簡単ですけどね。扱う人にその気がないのならば」
かえって、厄介ですよね。
ちゅるり、と首筋を吸い上げて印を刻む。
それがあなたの選んだ業だと言わんばかりに。
「無難な一手。誰はばかりますか。たかが三人の犠牲に慄いて、いいんですか?」
瞑目した顔。眉間に皺が深く。
「――可愛い、人」
◆◆◆
「どうした、二郎よ。珍しいな」
姉者こと春蘭です。なんでって、筋を通しに来ました。
だって春蘭が捕縛した三姉妹、今や物言わぬ骸になってしまったからして。
「何を言っとるのだ、二郎よ。
私が捕えた三姉妹。それが脱獄したからといって私の武勇に傷が付くものか。
それよりもだな。それをきちんと討ち取ったことに賞賛をすべし、だな。
なんでも、怪しげな手妻を使うのだろう?そんな不可思議なもの、いてはいけないものだ。
だからな、二郎よ。よくやった!」
ばしばしと満面の笑みで背中を叩いてくる春蘭にほっこりしてしまう。
「や、別に俺がやったわけじゃないというか、彼奴らをきっちりと護送することこそお役目でだな……」
「馬鹿もん!」
怒号が俺を襲う。
「二郎よ、二郎。
貴様の信頼する配下が果たしたのだろう。
だったならば、それを貴様が誇らずしてどうする!
いわんや部下は、だ。何条もってその功を誇るのだ!
将たるものはな、部下の功績を誇るべきなのだ!誇らねばならんのだ!
貴様がそれに疑念を持つのは、侮辱だぞ!それとも!」
貴様の配下は誇られぬことを果たしたのか?
春蘭の言葉に笑みが漏れる。
「何だ、いい顔をするじゃないか。もっと鬱屈すると思ったのだがな。
ふん、桂花の出番はなさそうだな。
いいか、二郎よ。
人の上に立つのだ、我らは。だから、無様を晒すべからず、だ。
……特に私の前では、な」
にんまりとした顔で春蘭は拳を一つ。腹に。
「げほ……!」
ずしん、と重厚な一撃。
呼気が止まり、視界が緑に染まる。
遠くなる意識を必死でつなぎ止める。大地と接した膝に感じる重力が楔となり、意識を留めるのに成功する。
「それでいい。それでいいんだ。
みっともなく地を這うのが我らに相応しいのだろうよ、きっとな」
意気揚々とその場を去る春蘭に何か言おうとするも、そんな余裕もない。
だけど。だけれども。
見上げた空はどこまでも青くて。
「は、はっはは!」
何か、何故か湧き出る衝動を解放する。意味も分からぬままに。
明日からはきちんとしよう。だから今日は好き勝手しよう。
そう思う俺の目の端には陳蘭と、流琉。
ごめんな。あと少し、少ししたらしゃっきりするから、さ。
だから、あと少しだけ、ごめん。
◆◆◆
「いや、三人でこうして卓を囲むのも久しぶりですね」
ほんと、まったくだよ。
というわけで、春蘭にのされて暫く大地と仲よくしていた二郎です。
現在は義兄弟と一緒に飯食いながら飲んだくれてます。酒うめえ。
「まあ、おいらたちはともかく二郎はあちこちと忙しいからなあ。ま、なんにしてもお疲れ。
大変だったみたいだな?」
ありがとうね張紘。癒されるわー。マジ心のオアシスだわー。
「おうよ、僵尸だの幻影兵だの、やってられねえっちゅうの。槍で貫いても死なないとか、既に死んでいるとかもうね。
そういうのは勘弁してほしいと思ったよ。ほんと」
以下俺の愚痴(迫真)を小一時間聞いてくれたことに感謝を。うん。結構鬱屈してたみたい。
「はは、死人の相手の次はいよいよ何進大将軍か。二郎も気苦労が絶えねえなあ」
ぐ。必死に逃避していたことを的確に抉りやがって、このこのー。
「ああ、今落ち込んだ。たった今酒が不味くなった。勘弁してほしいっつうの。ほんと。
あんな政治的怪物と渡り合うとか俺の役目じゃないだろって」
「おやおや、今や袁家の全権代理人たる二郎君が何をおっしゃるのですか。いや、人も羨むその栄達、権力。
あやかりたいものですねえ」
「おい、沮授よ。代わってやる。いつでも代わってやる。むしろ代わってくれ」
にこやかに笑って沮授は杯を干す。
「何をおっしゃいますやら。既に二郎君の権勢は揺るぎないじゃないですか。
僕のような小才子にはとてもとても」
こんにゃろう。お前が小才子なら俺はなんだっての。
「まあ、此度の上洛が終われば一段落つくのでしょう?」
「ああ。次期皇帝は劉弁様。何進が後ろ盾だからな。これは揺るがない。
そしてあの華琳がいよいよ朝廷に乗り込む。きっと宦官勢力をまとめてくれるだろうさ。
自然、何進の対抗馬となるだろうて」
「次期皇帝を掌中にした何進大将軍を相手にどこまで食い下がれますかね?」
食い込むも何も。華琳ならばやるだろうさ。政治的な暗闘は望むところだろう。腹心のネコミミもいるしな。
表立っては春蘭の武勲だってモノを言う。言わせるだろう。
「食い込めるようにすればいいさ。なにせ、袁家は表舞台から去るんだからな」
そう。此度の乱。それが治まればまあ、漢朝に動乱は起こらない。下手に何進やら華琳と対立する前に中央の権力闘争からは離脱だ。
そして何進と華琳の政争をできるだけ長引かせる。
「袁家は武家よ。
あくまで北方の守護がその本分さ。それに茶々を入れないように多少は動くとしても、な」
「そして二郎は悠々自適に隠居を決め込むんだろ?」
ぎくり。てへぺろ。
「ああ、そうだ。晴耕雨読どころか、晴れた日も働くものかよ。怠惰に、余生を面白おかしく生きていくのだぜ」
「やれやれ、幾度二郎君のこの宣言を聞いたことやら。
これで本人は結構本気というのが救えないですね」
うるへー。のんびりと余生を送るために頑張ってんだから、いいだろうがそれくらい!
「まあ、政治の表舞台、政争から距離を取るというのは賛成だしな。
それと、二郎よ。
お前の目指すとこ、確認させてくれ」
いつになく真剣な目で張紘が俺に問う。
俺の心胆を、秘めていた絵図を問うてくる。
だから俺も向き合う。
「いいさ。何でも聞いてくれよ。いまさらお前らに隠すことは、ないしな」
女性関係とかは勘弁な!
「茶化すなよ二郎……いいけどさ。
中央は何進と曹操の政争に任せる。そして武門として北狄に備える。それはいいさ。それでいいさ。
でも、それだけじゃないだろう?」
ぐびり、と杯を呷って喉を焼く感触。向けられた視線。刹那合った視線をそらす。
そんな俺に沮授が張紘の言葉を受けて続ける。
「袁術様は如南の太守から、荊州の州牧に。それが二郎君の絵図ですよね?
さて、何故如南だったのでしょう。そして何故に荊州なのでしょうか。
北方三州が隣接するその利を崩し、幽州を公孫へ。飛び地の荊州をなぜ望むか、というのは当然の疑問です。
普通に見れば、袁家の勢力を削ぐ動きに他なりません。
……だからこそ何進大将軍より容易に内定を頂けたのでしょうけども、ね」
張紘が続ける。
「北方三州から荊州はいかにも遠い。その中継点として見れば如南はまさに要地。
そして、荊州だ。大河をもって繋がる。如南を経由して北方と江南は繋がる。
南船北馬。船は既にある。だから今、街道を整備して繋げてるんだろう?
更には益州だ。劉璋殿との友誼。いずれは益州の州牧となるであろう彼女との繋がり。荊州から益州。
そして、涼州だ。二郎よ。見事に、ぐるりと中華を包囲するな、道は、物流は。
だから、きっと母流龍九商会のもたらす利でもって地方を押さえることができる」
沮授が珍しく真顔で続ける。
「街道、航路が整備されればどこか一地方が蛮族に攻められても救援が容易ですしね。
それは如南において起こった乱、あれが証明しています」
「だからこそ、地方をぐるりと取り巻く道の中間にて要所。要衝。その荊州に袁術様を据えるんだろ?
そしてかの地。無論反発する勢力も多いだろう。そのための孫家だ。
袁家がいかに武威あろうとも水上にては未知数。それを補って余りあるのが孫家だ。
平時においても、大河の安全保障を任せておけばいい」
「中央の政争は捨て置き、地方の安寧をこういった形で練り上げる。
いや、大したものです。それが実現すれば、その首座たる袁家を除くことは最早不可能……。
漢朝を守護する防壁はそのまま、包囲する武威となるのですからね」
大きくため息を。
そして感謝を。
「それだけじゃない。食糧供給は北方から。江南、益州の特産品との交易で民も潤う。
無論涼州の騎馬も南部に流せるだろうさ。そして上手くしたら波斯との交易も復活するだろう。
絹の道の入り口が涼州になるか、益州になるかは知らん。が、どっちにしても、複雑に利権の絡み合った状況になれば戦乱を起こす馬鹿はいねえ。
いたとしても周囲に掣肘される。その暗黙の了解があれば、成れば結構いい感じになるかなと思う」
経済の発達、複雑化する物資の流通と利権。それにより、武力の行使が極めて困難になる。いずれ来るであろう資本主義社会の先取りである。
「理ではなく、利によって安定を。
そいつが俺の魂胆さ。ただ、それには武力の裏付けがないといかん
商圏を広げるのはいい。だがその安全は担保されねばならない。それこそ漢朝に匹敵するだけの権威に、武威によってな」
だから、沮授と張紘。どっちが欠けてもいかんのだ。
今はまだ俺の個人的な人脈に頼った綱渡り。だが、それがこなれたらば、ほっといても機能するようになれば。
「英傑がもたらす平和じゃない。凡人が利により維持する、維持せねばならない仕組みをなんとか作り上げたい。
沮授、張紘。お前らみたいな傑物なくしても回る仕組みをな。
そしたらば、俺ものうのうと昼間から酒を呑んで、佳人と戯れられるってもんさ」
凡人の、凡人による、凡人のための仕組み。
それには個人の武威なぞ必要ない。人を、死骸を操る外法は必要ない。十万の民を操れる術者も必要ない。
俺が目指すそこには、そんなイレギュラーは必要ない。だから切り捨てた。これからも除外する。
それを俺はもう悩まない。幾度目の前にその選択肢があっても笑って切り捨てるだろう。
「まあ、なんだ。頼りにしてるよ。ほんと。なんか照れくさいけどさ。お前らがいてくれて、よかった。
ほんと、頼りにしてる」
そっからは正直記憶がない。気づいたら俺の部屋で、沮授と張紘もいて。なんか、多分呑み過ぎたのだと思う。
その日のことを二人に聞いても、いい笑顔をするだけで俺が何したか、何を言ったかなんて全く教えてくれなかった。




