破顔
夜天に浮かぶは満月。中天に差し掛かり地上を青白く照らし出す。
ここ南皮がいくら不夜城と言われていてもそれは歓楽街のごく一部に限定されている。
多くの民は日没とともに眠り、一番鶏の声で起きるのだ。
無論、この時刻に活動するものもいる。合法、非合法問わず。彼の場合はれっきとした役目である。
欠伸をかみ殺しながらとぼとぼと歩く彼はいわゆる獄卒であった。
「うーん……」
伸びを一つし、牢を見て回る。と言っても今歩いている牢の連なりは一室しか使われていない。
余程の大罪人なのか当初は不眠番が十名ほど付けられていたほどだ。だが、その態度は至って大人しく、三人揃って手弱女である。
そんなに警戒することも無かろうということか、どんどんその警戒度合いは軽くなり、最近の数日に至っては自分だけである。
まあ、三人とも相当の美少女であるからに。その寝顔を独占できるというのは中々に役得ではないかと男は思って夜警に志願した。
……牢内に月明かりが差しこまず、当てが外れたのにはがっかりしたものだが。
自然、勤務から熱意は奪われ、おざなりに牢の前を通るだけになってしまっている。
「ん……うん……」
そんな様子の男の耳に悩ましげな声が入る。
おや、と思い、近づくと、長い、水色の髪をした少女が、声をかけてくる。
「ね、お役人さん!ちょっと来て!
姉さんが、姉さんの様子がおかしいの!ひょっとしたら病気かも!」
「な、なんだと?」
先ほどまで全身を包んでいた眠気もどこへやら。慌てて三人に近寄る。無論易々と牢の鍵など開けはしない。
だからまあ、緊急事態なのだ。誰かを呼びに行く前に状況を確認するのがよいだろう。
そう判断する男に、桃色の髪の少女がどこか熱を含んだ声で訴えかけてくる。
「なんだか……身体が火照っているんです……。特に、ここ、胸のあたりが苦しくって……」
その豊満な胸をはだけて切なそうに。
これは思わぬ役得とばかりに生唾を飲み込み、その谷間に目を凝らす。ええい、もっと明かりを!
「お役人さん!」
最初に声をかけた少女がこちらを呼び、咄嗟に振り返る。ああ、この子も本当に美少女だ。胸の辺りがいささか寂しい気もするがそれもまたいい――。
目と目が合った瞬間に彼が考えていたのはそんなことだった。
◆◆◆
「ちょろいもんね!」
久々の娑婆の空気は美味い。三人姉妹――言うまでもなく張角、張梁、張宝のことである――がほう、と息をつく。
太平要術の書がないとはいえ、彼女ら――特に張宝――の妖術は高い水準を維持している。鳥が飛び方を忘れないように、一度身に付いた技術というのは消えることはないものだ。
……牢番の彼は実によくやってくれた。鍵を開け、彼女らを先導し、同僚を欺くことすらしてくれたのだ。
門扉が明け放たれた時に見上げた月をきっと彼女らは忘れないであろう。
なにせ。
「姉さん、まだ油断はできない」
よくて死刑。どんな残虐な刑罰が待っているかも分からぬのだ。で、あればなんとか脱走を。
まあ、彼女らはどう見ても手弱女。警備が緩むのも時間の問題とは思っていたが。
「うん、でもでも、こんなに早く逃げ出せるなんて、ついてる!さ、慌てず急いで逃げ出しちゃおう!」
幸い南皮の街には土地勘もある。夜闇に紛れればどうとでもなる。
そう、思っていたのである。
「おやおや、脱走とは感心しませんねえ。ここは大人しく牢に戻ってほしいところなのですが~」
視界にいつの間にか少女が一人。茫洋とした表情からは何も読み取れない。微笑んでいるようでもあり、無表情なようでもある。
「ええ?いつの間に?
ち、ちいちゃん!」
「任せて!」
その眼を合わせ、魅了する。なに、かつては数万の信者を操ったのだ。太平要術の書がなくとも一人くらいどうとでもなる。
現に先ほどだって他愛なく。
そしてその期待は裏切られる。
「んー。抵抗は無意味です。そこを動かないでほしいですねえ」
ひたり、と一歩踏み出す。
淡々とした声。そして笑みを浮かべた顔。それは本当に笑みなのであろうか。
「く!」
張宝は魅了で操るのを諦め、周囲に鬼火を呼び出す。冥府を思わせるその青い炎が連なるのを見ても、現れた少女――程立――はぴくりとも表情を変えず。
更に一歩踏み出す。
「も、燃えちゃえ!」
その歩みに怯みながらも張宝は鬼火を放つ。
呼び出したそれを一斉に叩き込む。幾十にも及ぶそれは程立を包み、その身を焼き尽くすかと思われた、のだが。
「な、なんでよ!」
程立を包んだと思ったが刹那、鬼火は忽然と消え果てた。
「さてさて、なんででしょうね~。
残念ですが、その手の手妻は風には効きませんので~。
ああ、そうそう。こういう時に冥土の土産というのを持たせるのが作法らしいですが」
くふり、と笑みを深くする。
「風は二郎さんほど甘くありませんので~」
今更牢に戻ると言っても遅い。
無慈悲な宣告が響きわたる。
三人は凍りつき。
どすり、と鈍い音が一つ響いた。
「え、なに?これなに?」
腹から生えた剣。そこから盛大に赤いものが噴き出す。驚愕の直後に灼熱を感じ、遅れて痛みがやってくる。
ごきり。
今度は、何か硬質の者がぶつかり合った音。それも自分の内部から。
それが何を意味するか分からぬまま、崩れ落ちた。
どさり、と音を立てて倒れ込む三人を尻目に程立は口を開く。
「いや、流石お見事なものですね~」
どう聞いても音は一度ずつだったのに、三人それぞれの身体は二本の剣に貫かれている。一本は腹部。一本は頸椎を貫き、大地を紅く、黒く染め上げる。
ゆらり、と闇を染め上げたような黒装束の男が姿を現す。
「他愛なし、と言いたいところだがね。
少女よ。君が動きを止めていてくれたおかげだとも」
「これはご謙遜を。いや、眼福ごちそうさまでした。
――後始末はお任せしても?」
す、と黒装束の男――張郃――が手を挙げると同じく黒装束を纏った集団が現れる。張郃と違うの皆が揃いの髑髏の面で顔を隠していることであろうか。
彼らは無言で物言わぬ骸を袋に入れ、どこへともなく去っていく。
「しかし、思いのほか早く済んだな。正直もう少し手間がかかると思っていたのだが」
「まあ、死出の旅路というのは彼女らも分かっていたでしょうからね~。
焦っていたのでしょうね」
実際はそうでもないのですけどね、と程立は苦笑する。
「ほう?姉上もそんなことを匂わせていたが……。大逆の大罪人。極刑以外にあるまいよ」
くふ、と程立は笑う。そうであればよかったのだが、と。
「あの三姉妹が民を魅了し、操り、扇動したのは間違いありません。が、この実態は知られていません。
黄巾軍を率い、官軍と渡り合ったのはあくまで波才。なれば彼が首謀者とすることも可能です。
ええ、彼女らの力、妖術には価値があるのですよ。とんでもない、ね。
死一等を減ずるのを考慮するほどの価値が。そして、その機会はあるのですよ。それもこれ以上ないという大義名分が」
ふむ、と張郃は考え込む。そしてニヤリ、と口を歪ませる。
「恩赦、か」
「ご明察です。新皇帝即位なんてまあ、数十年に一度のこと。めぐり合わせがいいのやら、悪いのやら、ですよ。
……恐らく何進大将軍は黄巾に加担した民にこれを適用させるはずです。未だ雲霞の如く湧き出る黄巾賊。それらを全て討伐するには、漢王朝は疲弊しきっていますから」
何せ、黄巾賊。賊の討伐に諸侯の軍を動員しなければならないほどなのだから。黄巾賊に禁軍が敗走するほどなのだから。
「目端の利く者は欲しがるでしょうね。ええ。中華を揺るがした実績。手駒としては、魅力的でしょうよ」
くふふ、と意味深に笑う程立に張郃は笑みを重ねる。
「何とも、業の深いことよな。御せるものかね」
「さあ?誰がその身柄を得るのか、それを御せるのか。全くもって未知数ですね~。
ですから」
後顧の憂い、断つべし。
◆◆◆
張郃は嘆息する。この世の邪悪を具現化したあの男。六本指の義父。アレが世から除かれたくらいでは微塵も影響はないらしい。
その事実に至り、声を上げて笑った。
いや、正邪聖俗のなんと虚しいことよ、と。
そして思ったのは全身傷だらけの男の、まぶしいばかりの笑顔であった。




