幕裏:闇に棲む蜘蛛
絡新婦の理
「はぁ、困りましたねえ。
これじゃ、殺しておしまいってわけにもいかないですねぇ」
口にした言葉ほど困った様子もなく、少女が呟く。にこにことした表情は固定されていながらも不自然さはない。心底楽しげな口調にもおかしなところは何もない。
「なになに、梁剛と深い仲になった可能性が大、と。
これは意外ですねぇ。てっきり幼馴染あたりと乳繰り合うと思ったんですが」
ぺらり、と報告書の分厚い束ををめくりながら言葉を紡ぐ。鼻歌混じりに。
「さらに、手元の商会を通じて江南への介入、内容は孫家を通じての援助ですか。
これはまあ、どうでもいいですね。むしろ手元の人材が減るだけでしょうに。
たまによく分からない手を打ちますねぇ」
せっかくの珠玉の人材を得たというのに、と。応える者もいないまま、少女の独白は続く。あくまで笑顔のままに。
「それにしても業腹ですねえ。袁家内で保たれていた四家の均衡が完全に崩れちゃったじゃないですか。
文家も顔家も、どうして危惧しないんですかねえ。次期当主の側近派遣で満足してる場合じゃないと思うんですが」
全く、困ったものである。今の袁家は非常に危ういバランスの上に立っているのだ。それを理解しているのはごく一部のみ。
そもそも当主の袁逢とてその地位は盤石ではない。本来彼女は匈奴との大戦における神輿にすぎなかった。最前線に袁家当主が立つということなどありえない。それが成されたからこそ士気は徹頭徹尾高く保たれていたのだ。無論戦争に万全などない。討死の可能性も大いにあった。つまり袁逢は戦死しても惜しくない、だが袁家当主としては不足ない。そういう立ち位置であったのだ。
予想外であったのはその戦績である。「魔弾の射手」と異名をとるほどに最前線で兵を鼓舞しながらも自ら弓を取る姿はまさに武家当主の理想。いわゆる「匈奴戦役」を生き抜いた兵士、士官、将からの支持は凄まじいものがあり、そのまま袁家当主という地位を得たのである。
だが、潜在的な政敵は多い。そこをあえて病弱を主張し政治に関わらないことで袁家のパワーバランスは安定していたのだが、袁逢が愛娘たる袁紹と紀家の跡継ぎたる紀霊を引き合わせてよりその構図が変わりつつある。
ふぅ、とため息を漏らす。憂いが笑顔に影を落とす様は一流の役者の演技が如く迫真。
「大きくなりそうな火種も眠ってますしねえ。
袁家が栄えるのはいいんですが、これ以上はちょっと不味いかなぁ?」
「火種・・・。彼奴の婚姻、かな」
不意に少女に声がかけられる。その声に驚いた風もなく、少女が答える。憂い顔から喜色満面。花開くが如く。
「そうなんですよー。水面下で動いてる人もいますけどねー。
顔家、文家も紀霊さんと次期当主を娶わせたいみたいですよ。
今のところ袁家の後継たる袁紹様が本命ですけどねぇ」
文武の首魁たる田豊と麹義。両者もどうやらその流れに異を唱えるつもりはないようである。
「ふう。妥当ではあるな。紀家の力が肥大化したならそのまま取り込めばよいのだから」
「そこが一番穏当な落とし所でしょうねえ。ただ、他の係累が黙ってないでしょうけど」
ククク、と少女の言を受けて笑みを漏らす。
「まさか外患を誘致するとはな。これは流石に想定外であったとも」
「あー、それはそうかもしれませんねー。ちょーっと調子に乗りすぎかもしれませんねえ。紀霊、それとあの方。どっちに釘を刺しますか?」
如何しましょうか?と小首を傾げる張勲に、影は囁く。
「ふむ。まあ、いい。しばらくは放置だ。いいな、娘よ」
愉快そうにしているその声。それすら擬態であることを少女はよく知っている。
「はい、お父様。お父様のご意向のままに。
私はお父様の意図に従い、糸のまま動く操り人形。袁家に張られた糸を紡ぐ人形。
――紀霊は蜘蛛の糸に絡め取られた獲物にすぎません。
もがけばもがくほどに、糸に、意図に絡められ、動けなくなるでしょう。
毒を与え、針を刺すその日のために、私はただ、糸を張り、意図を巡らしましょう」
それは蜘蛛の理。袁家の闇の底の、さらに底。そこには糸が張り巡らされている。
けして光の当たらぬ蜘蛛の巣の真ん中で絡新婦はひたすら糸を紡ぐ。意図を巡らす。
それが張勲の在り方であり、役割であった。袁家にて諜報を担う張家。異才奇才ひしめく張家。彼女はその中でも最高傑作である。
七乃さんが本気になったら天下を取れるという公式設定




