万夫不当
「何よ、これ……」
賈駆は目の前の光景に言葉を失っていた。そして断じて認めたくなかった。
万夫不当が、神速が将として率いて、神算鬼謀たる自分が軍師を務める董家軍。
それが、潰走している、などと。
「いや、負けた負けた。実に徹底的に負けたぞ。では後は任せた」
そんなことを言い残して朱儁は洛陽に帰還していった。禁軍を再編するのだという。最精鋭の多くを喪い、ロクな軍にはなるまいがそれもまたよし。
そのような言を、哄笑と共に去る朱儁とその配下――確かに数は相当に減っていた――を唖然と、呆然と見送るしかなかった。
今にして思えばもっと詳しい情報を吸い取るべきであったのだ。間違いなく朱儁が率いていた軍は中華でも最強を名乗る資格のある精鋭だったのであるから。
袁家軍と別れてすぐに黄巾の大軍と接敵。
それはいい。数で上回る黄巾との戦いなど幾度も重ねている。最近は朱儁の打ち漏らした残敵の掃討のみであったが。
涼州騎兵の突撃を止められる軍なぞ存在せず、ただ蹂躙するのみである。そう。そのはずであった。
「なんやねん!突いても切っても倒れへんとかありか!おまけにこっちの攻撃がすり抜けるとかなんやねん!」
前線からもたらされる悲鳴にも似た報告に董家軍は混乱する。
ただならぬ空気に従順かつ勇猛な軍馬も悍馬と化す。鉄の統制、団結が強みの董家軍にとってそれは致命的。
それでも戦線を維持していたのは将の有能さを示していたのであろう。だが、それも限界。ただ、数の暴力で押し寄せる黄巾。やがて蟻の一穴は波濤をもたらす。
「これはいかんのですぞ!支えきれないのです!」
悲痛な叫びは陳宮のもの。
もとより騎兵とはその突破力が持ち味。防衛なぞ不向きこの上ない。
兵と将の質で支えるにも限界が来る。
「これは……。
撤退するしかない、か」
むしろこの退き時を逃さずに決断した賈駆の戦術眼こそ誉められるべきであろう。彼女の命を受け、銅鑼が撤退の合図を董家軍に知らしめる。
「ちい!業腹やけどしゃあない!けったくそ悪いなもう!
退け!退くで!こんなんで死んだらアホらしいしな!」
見切り千両とばかりに董家軍はたちまちに戦線を放棄し、撤退を開始する。死闘の最中にそれを成し遂げたのは将兵の非凡さ故のものであろう。
不気味に押し寄せる死霊の軍勢を尻目に見事に転進、撤退を果たすのである。
ただし、死霊の軍団は疲労など欠片も見せずに董家軍を追撃、追跡する。
無言で迫り死を撒き散らす。災厄そのものの姿。
きっとそれはいずれ中華全土を覆うであろう。そう思わせるほどに大地に死の気配を撒き散らしていた。
◆◆◆
「流石と言うべきなのでしょうねえ」
ギョロ目の男――波才――はその貌に笑みと言われる表情を浮かべながらひとりごちる。
先日の官軍には包囲殲滅を確信したその瞬間に包囲網を突破された。しかも本陣すぐ横を。
そして董卓の軍勢に至っては見事な転進である。もっとも。
「逃がしはしませんけどねえええええええええええええええええええ!」
制御下の幻影兵と僵尸に更なる進軍を命じる。肉体的な疲労とは無関係な彼らは命令に従い行軍速度を速める。
……元々は黄巾の軍に幻影兵や僵尸を潜ませていたのだが、今やそれは逆転どころか。波才の操る傀儡のみの軍勢である。
犠牲を考慮する必要もなくただただ大地に死を振りまく。それもこれも。それもこれも。
「んー。いいですねえ。死の香り。絶望の呻き。生への渇望とその叫び。実に素晴らしい。
ああ、素晴らしい。素晴らしいですねえ。ですが、物足りませんねえ」
足りないのだ。生者がいると。
嘆きが、怨嗟が、絶望が、諦観が、足りない。実に足りない。
ただ、それも積み重なった死こそが全てを満たす。
死者の軍を率いてから、連戦して負け無しである。
「なんとも健気ですねえ。無駄な抵抗というものですがねえ」
睥睨する先では何やら小細工を。
「ほう。中々に厄介ですねえ。流水の上では幻影兵は無力……。儘ならぬものですが僵尸の力押しといきますか……」
より一層深まる死の気配。常人ならばそれだけで発狂するであろうそれに目を細め、波才は命を下す。
「さあ、僵尸よ、蹂躙なさい。そしてその死を歌姫たちに捧げるのです……」
◆◆◆
「頼んだわよ、恋。ボクが軍を再編するまでの時間を稼いで!
ほんと、無理はしなくていいから!」
なんと情けない言であるかと賈駆は自己嫌悪に身を焦がす。。
何が軍師か、何が神算鬼謀かと。個の武に全軍の命運を託すことしかできないのかと。
「ん。任せて。本気、出す」
その煩悶を知ってか知らずか。
呂布は表情を変えずに宣言する。誰あろうと防衛線は越えさせないと。
常にない、呂布の表情。故に賈駆は最善を尽くす。
そして防衛線である。黄巾に対する防衛線を築く。
河を渡すその橋梁に築く。荷馬車、岩、枝なんでもいい。
障害物で進路を閉ざす。僅かに開く進路は呂布の支配下。数を頼みに押し寄せてくる僵尸を無感動に呂布は見渡す。
「皆は、恋が守る……」
殺到する僵尸。だが障害物のお蔭か精々同時に相対するのは十体ほど。手にした奉天画戟が風切り音を生ずるたびに灰は灰へ、塵は塵へと。
吹き荒れる暴風になすすべもなく、僵尸たちはそれでも打ち寄せ、そして散っていく。それでも並みの武将が相手であればその数の暴力でいずれば奔流が呑みこんでいたであろう。
だが相手取るは万夫不当。淡々と方天画戟を振るい、ひたすらに打ち砕いていく。一撃必殺の連撃。圧倒的な数の暴力をものともせず、中華最強の武を遺憾なく発揮する。
中天にあった日輪が西の地平に落ちる頃、呂布は軽く伸びをする。
撃滅した僵尸、実に三万余。
ただ個人の武によりそのすべてを打ち払い、ついに董家軍の撤退を完全以上に援護し、守護りきったのである。
「おなか、減った……」
呂布はとぼとぼと董家軍の陣を目指す。そこには敵を防ぎきったという達成感なぞ欠片もなく。
帰る先を探す迷い子のような儚い少女の姿しかなかった。
いずれにしろ、董家軍は呂布が稼いだこの半日で軍の再編に成功する。混乱と恐慌の色の濃い軍をまとめきったのは流石の手腕であろう。
そして、その戦力と士気をすり減らした彼らは袁家軍と行動を共にすることになる。
涼州騎兵と並び漢朝を守護してきた漢朝の防壁、武の要。いよいよ袁家軍が黄巾本隊と接敵することになるのである。