今宵、如南の美酒は嬉し涙に似て
総大将たる袁胤が討ち取られたことで兵たちは途端に逃散しだした。所詮借り物の兵、そんなものである。
それを見た如南の守備兵から歓声が上がる。勝った、勝ったのだ。守り切ったのだ、とばかりに。
ある者は歓喜の声を上げ、ある者は緊張の糸が切れへなへなとうずくまる。その場で眠りだす者すらいた。
ぎしり、と重い音を立てて城門が開こうとする。半壊したそれは容易には開かず、僅かずつその隙間を広げていく。
そして城外には軽い緊張が走る。共闘したとはいえ、さて、どう相対したものかと互いの軍をまとめながら袁家軍と孫家軍は微妙に距離を取る。
ばぎり!と大きな音が響き、いよいよ城門はその役割を放棄するがごとく崩壊する。土煙が舞い、その向こうには無傷の如南がのぞく。
誰が先に入城するか、先触れはどうするか。互いに互いを刺激するつもりはないにしても、必要以上にへりくだるつもりもない。
奇妙な沈黙、膠着が数秒、或いは数分続く。
土煙が晴れ、道が開ける。深まる緊張、張りつめる空気。
「美羽ー!」
そんなものに構わず、孫尚香は駆ける。役割は終えたとばかりに昼寝を決め込む白虎を置き、力の限り、駆ける。
虚を突かれ、甘寧ですら呆けたように見送ることしかできない。
孫尚香は瓦礫を飛び越え、或いはよじのぼり。如南の街にその身を躍らせていく。
かつてこれほどに一生懸命に走ったことがあったであろうか。いや、ない。幼い体躯に残された全身全霊を振り絞り、駆けるのだ。
そして門扉を越えて呼びかける。力の限り、声の限り。
「美羽ー!来たよ!来たよ!無事なの?返事をして!美羽!美羽?!」
その声に反応したのもまた幼い体躯に名家の誇り。振り絞り、叫び、駆け出す。
「シャオ!シャオ!妾はここじゃ!シャオ!シャオー!」
豪奢な衣装が汚れるのも構わずに砂塵の中に身を躍らせる。
二人はその勢いのままに抱き合い、無事を喜び合う。
「美羽!よかった!無事で!よかったよ!」
「シャオ!よう来てくれた!よう、来てくれた!」
「来るよお……。友達だもん!だって!美羽は友達だもん!来るよ!来るよぉ……」
互いの名を呼びあい、火が付いたかのように号泣する。
慌てて二人を追ってきた袁家と孫家の将兵はそれを見て、胸を打たれる。もらい泣きする者とて一人や二人ではない。
そしてそれは甘寧とて例外ではない。ツン、と鼻腔に込み上げるものを感じながら袁家に対するわだかまりが溶けていくのを感じていた。
嗚呼、と零れる。主君たる孫権が袁家に隔意を持つ自分を派遣した理由が分かった気がする。
抱き合う彼女らのように、孫家と袁家は共に歩めるのではないか。
そんな甘い未来を幻視してしまうほどに、どうやら彼女は感動していたようである。
「何とも、上手くこの場を表現することができんわが身を悔しく思うな。詩の一つも吟じたいくらいなのだが」
涼やかな声が甘寧にかけられる。空色の髪に純白の戦衣装。僅か五百の騎兵で七千を相手取り、単騎で敵陣に特攻し大将首を挙げた趙雲その人である。
「ああ、まったくだ。武骨を恥じることはなかったが、残念に思ったのは今日が初めてだ」
嘆息しつつニヤリ、と応え軽く拳を打ち付けあう。
らしくない。だが、たまにはいいだろうと甘寧は緩んだ口元から白い歯を覗かせる。
「なに、これからいくらでも学ぶ機会はあろうよ。
……何せ我等はまだ生きておるのだからな」
「そうだな。その通りだな」
再びニヤリ、と笑みを交わす。これ以上は無粋とばかりに趙雲は身を翻す。
「さて、かくも千両役者が揃っていてはこの身が霞むのも無理からぬというもの。ただまあ、美味しいところはいただくとしようか」
悠然と、袁術と孫尚香が抱き合い、号泣するその場に歩み寄る。
内心、苦笑する。随分、染められてしまったものだと。
無論、あの男に。
「袁術様!孫尚香殿!戦勝まことにめでたい!袁家の将兵よ!孫家の将兵よ!そして如南の民よ!
我等は勝った!勝ったのだ!如南の防壁は守られた!誇れ!誇るのだ!そなたらが立ち向かったのは紛れもない強敵!
その手で掴んだ勝利を誇れ!そして祝おう!」
何千、何万の視線が集まるのを感じ、趙雲は昂揚し、戦慄する。なるほどなるほど。主はこのような中で見栄を切っていたのかと。
そして手にした愛槍龍牙を風車の如く舞わせ、自らも舞う。その動きに如南中の衆目は趙雲に集中する。
わずか数秒の舞を終わらせ、見栄を一つ。そして高らかに吠える。
「勝利を、誇れ!勝鬨ぃ!上げろ!」
高まる熱気を練り上げ、吼える。
突き上げた拳。
「えい!えい!」
「「応!」」
「えい!えい!」
「「「応!!!」」」
「えい!えい!」
「「「応!!!!」」」
満足気に趙雲は頷き、場を鎮める。
「功ある者は袁家より褒賞が与えられる!明日よりは復興が始まる!だが!その前に!改めて戦勝を祝おうぞ!
女衆は酒を!料理を!男衆は火を焚け!舞えい!今宵はお主らが主役ぞ!宴ぞ!」
わ!と如南の民は昂揚そのままに駆け出す。取って置きの美酒を、珍味を!
今宵こそが出番である。明日をも知れぬというのはたった今まで味わっていたのだ。なればこの瞬間に全てを注いで祝おうではないか、と。
この日、如南は夜が明けても喧噪、楽曲、歓声が絶えることはなかったという。
◆◆◆
ふ、と李豊は目覚める。
喧噪は未だ如南を覆い、絶えそうにもない。
夜半を過ぎたというのに、と苦笑して身を起こす。
身体は疲れ切っているのに意識は覚醒している。まるで新兵の初陣のときのようだ。
それほどまでに彼は昂揚しているのだ。
如南は守られた。ついにその門扉は敵に粉砕されることはなかった。
彼の戦いは前線で戦う将兵のために食事を届けること。紀家軍でもずっとそうだった。
だが、此度だけは手ずから槍を振るいたい、と思った。
だって、此度の敵は、その黒幕は。
隻腕の、かつての戦友からもたらされた報に心は千々に乱れた。
伴侶が、妹が義勇兵に志願したのは如南の危機以上に自分の狼狽、激情故だったかもしれぬ。
自分の代わりに戦場に立った伴侶と妹。
忸怩たる思いで、それでも厨房こそが戦場として全力を尽くした。尽くしきった。そこに悔いはない。
のだが。
……どこかで響く万歳の声。
守れた、守護れたのだと必死に自分に言い聞かせる。
どす黒いものを、湧き上がるものを押し殺そうとする。
不意に、ぎゅ、と温かいものに包まれる。
「んー」
寝ぼけたのであろうか。彼の伴侶が抱きついてくる。思いのほか力が込められており、振り払うわけにもいかず、大人しく抱きしめられたままになる。
「だーいすき!」
寝言であろうか。きっと寝言であろう。その声に、ふ、と心が軽くなる。
「ああ、俺もだ」
きゅ、と抱きしめかえす。
そして思う、思える。これでいい、これでいいのだと。
◆◆◆
――如南防衛戦において特に奮戦した人物にはその貴賤を問わずに袁術から真名が授けられたと言う。
戦場で直接授けられた十名は特に十傑衆と称され、語り継がれることになる。
だが、そのうち一人はあくまで固辞し、その名は伝わっていない。
その十傑衆の最後の一人については諸説あり、講談の格好の対象となることになる。
だが、それはまた別の話である。




