決起
それは闇の底のさらに底。日の光が差すこともない一室である。
そこには蜘蛛の巣すら張る余地なく、闇のみが漂う。
「張られた蜘蛛の巣は今や張りぼて、と。こうして私がここにいるのがその証左ね。
そう考えると袁家の威光、遥か遠く虚しいかもしれないわね」
くすくす、と麗人は笑う、嗤う、哂う。
「李儒よ、お主の言うことは分かるのじゃがな。いかにも時期が悪いと思うでおじゃるよ。
麻呂の高貴たる呼びかけには、それはそれは従う官吏、武将が列をなすであろうぞ。
じゃがの、このたびは時期尚早でおじゃる」
袁胤は上品に笑いながら李儒の持ち込んだ案を差し戻す。いや、中身に目も通さずに遠ざける。
冗談ではない。拾ったこの身、命。無駄にしてなるものか、と。
「のう、此度の蜂起案とやら、じゃがの。
どう思う?許攸よ」
艱難辛苦を共にした腹心に問う。
「そうですなあ。袁術様を手中にというのはウチらが検討した目的そのもの。これはええですやろ。
やけど……。今この時期に蜂起するのは正直言って、阿呆のすることやと思いますわ。
今は力を蓄える時期ですやろ。
ありえへんですわ。今蜂起するなんて、な」
やれやれ、と全身で否定する許攸の仕草を見て袁胤は笑う。
「ほ、ほ。どうやらお主の雇い主も切羽詰まってきたようでおじゃるな?
まあ、麻呂には関係ないことでおじゃる。精々足掻けばいいでおじゃるよ」
ほ、ほ、と上品に笑う袁胤。李儒はそれでも揺るぎなく。
その態度にちり、と袁胤の本能が警戒を呼び掛ける。これでも袁胤は権謀術数の巣窟を軽やかに歩いてきたのだ。だからこそ李儒の余裕に違和感以上の不穏を嗅ぎ取る。
表情を司る筋肉の一筋すら震わせることなく更に袁胤は笑う。笑い続ける。
その笑みに同調して李儒も笑い出す。心底可笑しげに笑う。それがいっそ不気味である。不吉でさえある。
「七千、準備したわ」
苦労したのよ?と哂う李儒にさしもの袁胤も青ざめる。
即座に問うたのに李儒は笑みを深める。
「許攸よ、如南の守りはいかほどじゃったか」
秀麗な貌を白くしながら許攸は小さく応える。千、と。
「あらあら、高貴なお方が取り乱してはいけませんわね?
まあ、私にはどうでもいいことですけどねえ!」
獰猛な笑い声を阻むものはいない。いやしないのである。げらげらと、心底愉快そうに笑う李儒の嬌声を切り捨て、袁胤は腹を括る。
「……是非もなし、じゃな。麻呂が立つ。それしか……なかろうよ」
「そんな、袁胤様!あきまへん!」
きっぱりとした口調で呟く主に、許攸はすがりつく。勝ち目などないと。後がないと、無謀だと。
「ほ、ほ。美羽の身柄さえ抑えればどうとでもなる。それは変わらんのじゃ。
孫家などと言う不安要素を排除した今こそ好機かもしれんの。
いやさ、美羽の身柄さえあればどうとでもなるのでおじゃる」
その目がある以上、下衆に賽を振らせることはできぬ。万が一にもできぬのだ。
その思いを察して許攸も覚悟を決める。自分たちが立たなくとも李儒の手の者が乱を起こす事象に変わりはないのであろう。
であるならば、目の前の下衆の雇用主である十常侍どもに袁家の未来を委ねることなぞできようはずもない。
ぎり、と歯を食いしばりながらも許攸は笑みを浮かべる。裂けよとばかりにその口元は三日月を描く。
「あい。仰せのとおりです。最初の一手が決まればわが身の春が来ますなあ。
もとより咲くことのないはずだったこのわが身。精々派手に咲き乱れてやろうやないですか」
愉快、愉快とばかりに艶然と許攸が微笑む。笑う。その目元には紅い雫。
「ええよ、ええよ。あんたらの思うままに動いてやろやないか。
けど、うちかて意地があるさかいな。やりたいようにやらせてもらうで」
「ええ、結構よ。失望させないで欲しいわね。楽しみにしてるわ」
立ち去る李儒。許攸は顔を真っ赤にして地団駄を踏む。
それを傍目に袁胤は呟く。
「まあ、確かに美羽の守りが甘いのは確かでおじゃる。
紀霊よ、袁家を託したこの身でおじゃるが……、容赦はせんぞ?」
ほ、ほ。と雅に笑う袁胤。
その様子に幾分か落ち着きを取り戻す許攸。
「さてもさても。かくもあはれなるこの身、武家の身として本懐である」
ほ、ほ、と雅に笑い袁胤は軟禁されていた屋敷より姿を消す。
如南に向かい兵が押し寄せてくる数日前のことであった。
◆◆◆
黄巾軍実に二万と数千。
これを殲滅すれば如南周辺から叛徒どもはほぼほぼ駆逐されるはずである。
一網打尽。
数百から数千の集団で散らばっていた黄巾賊を巧みに誘導し、一つの集団とした風の手腕には戦慄を覚える。正直何をどうやってこうなったか分からんのよね。いやほんと。
なんか星と色々打ち合わせてて、色々やってたみたいだけんども。
俺と流琉は本陣に陣取り、風がその補佐。騎兵は星が率い、歩兵は雷薄が掌握。陳蘭が長弓兵を従え、ある意味切り札の真桜は今回はお休みだ。
二万が十万でも負ける気がしない布陣である。
ぶっちゃけ俺は何もせんでいいしな!
などと勝った!第八部完!みたいに暢気に構えていた俺に急報がもたらされる。
「し、使者がいらっしゃって、先触れもなく、待たせようとしたのですが、その……!
ああ!」
取次の武官が何やら錯乱している。
ざわめきがここまで伝わってくるな、と思うより早く馬蹄の音が響く。
無論ここまで馬を走らせるなど無礼極まりない。俺が口を開こうとする前に、どさり、と馬が泡を吹いて倒れる。
辛うじてその転倒に巻き込まれずにいた馬上の人物こそ褒めるべきか。
よろ、と立ち上がった麗人は埃にまみれてはいたが見誤ることはない。
張家当主、七乃だ。なるほど、彼女を制止できるほど権限を持ってるのは陣中では俺くらいか。というか、紀家の陣中をどうやって突破したのとか色々とツッコミどころはあるな、などと半ば現実逃避しながら思う。彼女がこんな有様になるなど、いい報せであるはずはない。
横から差し出された水に見向きもせずに七乃は叫ぶ。
いつもの艶を含んだ美声ではない。渇きにひび割れたしゃがれ声だ。その声が不吉さをいや増す。
そして、その報せは最悪。
「袁胤、叛す。如南、危うし。賊は七千余。至急、美羽さ、ま……を……」
そこまで言って七乃は倒れ込む。
大地に伏す前に辛うじて抱きかかえ、事態を理解し。叫ぶ。この場での最適解はこれぞとばかりに。
「星!」
「は!ここに!」
「騎兵五百で救援に向かえ!何をやっても構わん!美羽様を!」
「承知!」
余計な言葉など何一つ発せず星は駆け出す。
機動力を考えれば騎兵の最精鋭のみで先行させるしかない。
ここから如南までは五日ほどか!
ええい、こっからどうしようと逡巡する前に呼ぶ。
「風!」
「はいはい、ここにおりますよ~」
のほほんと俺の軍師が応える。その笑みに、いくらか頭が冷える。ここで俺が激昂してもなにもいいことはない。ぴしゃり、と頬を打ち、立ち上がる。
「速攻だ。目前の黄巾を最速で瓦解させるように策を頼む」
これまでは基本的に殲滅を主眼に置いておいた。が、今回はそれどころじゃない。
時間は璧玉よりも貴重なのだ。
「では、早速参りましょう。
黄巾を打ち崩した後は如南へ取って返します。それでよいですね?」
「おうよ。頼むわ!」
短期決戦、出し惜しみは無しだ!
ここぞとばかりに三尖刀を発動し、指揮官先頭で黄巾に突撃する。
「そこを!どけえええええええええ!」
◆◆◆
袁胤、叛す。
七千の兵で如南に迫る。
その報せがもたらされた時の如南は、控え目に言って恐慌状態であった。
武官も文官も右往左往の見本市である。
だが無理もない。寄せ手が城塞都市に押し寄せたなど、匈奴戦役で南皮が最前線になった時以来のことである。
その混乱の波の中で袁術は自失していた。
通常業務すら満足に理解できてはいない修行中の身である。
それでも、部下たちの縋るような視線は彼女を射抜く。
(ど、どうすればいいのじゃ……)
ぷるぷると震える膝が崩れていないのはいっそ称賛物であるであろう。
袁術の周りには今現在、頼りにする将帥なぞはいない。間が悪いにもほどがあるというものである。
じわ、と双眸に涙がにじむ予感。ああ、自分はどうしたらいいのか。大好きな姉ならどうするか。ここにいたならばどうしていたろうか。
「しゃきっとしなさいな、美羽さん。貴女が縮こまっていては勝てる戦も勝てませんわよ?」
は、と振り向くが勿論声の主はいない。
(ほら、美羽さん、いけませんわよ。袁家直系たるもの、いついかなる時も雄々しく!華麗に!優雅に! ですわよ)
その声に袁術は、き、と前方を睨んでふんぞり返る。傲然と口を開く。
「なんじゃなんじゃ情けないのう。それでもそちらは袁家の譜代かや?うろたえるでないわ」
袁術の声にぴたり、と部下たちは動きを止めて注目してくる。
といって別に袁術に腹案があるわけでもない。さて、どうしたものか。
(とりあえず現状把握ですかね。情報を制する者は戦を制するって二郎様もおっしゃってましたよ?)
いつも、いつだって自分の側にいてくれて、自分の味方であってくれた少女の声が響く。
「で、実際どうなっておるのじゃ。きちんと報告せい」
その声に慌てたように、ようやく現状の報告がもたらされる。
「袁胤殿、謀反!その兵は七千!此方は千にてございます!」
……確か攻め手には三倍の兵力が必要であったか。顔家の当主の言葉を思い出して暗澹たる気持ちになる。そういえば顔家の当主は籠城についても更に言及していたか。無駄に胸部装甲が厚いだけに防御には説得力があったものである。
(まあ、基本的に籠城戦は詰んでますからね。でも、援軍が見込まれたら話は別ですよ?堪えればそれが勝ちに繋がりますから。まずは希望を示して士気向上は初手必須、かなあ?)
「皆の者、恐れるでないぞ。二郎が、七乃が、麗羽姉さまが妾を見捨てるはずがないじゃろ。
時間は妾達にとって味方なのじゃ」
で、どうしたらいいのだろう。自分は何をすべきか、何ができるか。指示を待つ部下たちの視線が突き刺さる。それに対する応えは、あの青年がいつも言っていたこと。
(や、餅は餅屋。部下の最善を引き出すことがお役目。だから言えばいいんですよ)
「うむ、そなたらの職責を果たすがよいぞ。袁家配下たるそなたらを妾は信じておる。うむ、そなたらの職責を果たすがよいぞ。」
ぱ、と部下たちの目に光が灯るのを見て袁術は安堵の息をこっそりと漏らす。
そして思う。自分はけして一人ではないのだと。
いつも、いつだって皆は自分にあれこれと話しかけてくれていた。
だからこんなにも何をすべきかという問いに答えてくれる。教えてくれる。
では、自分はどういう命を下すべきか。
やはり戦となれば彼女の言こそ頼りになるのだ。曇りのない笑顔。空色の髪を無造作に散らした文家当 主。彼女が幾度も言っていたことを袁術は口にする。
(戦となったらやっぱこれしかないっしょ!言ったれえ!)
「腹が減っては戦はできぬ!」
袁胤の乱、或いは如南防衛戦と言われる戦の。幕開けであった。




