落陽
日輪はその姿を完全に西の地平に隠してなお赤い残照を絶壁に照らす。
消えゆく光彩陸離は刹那の幻想。喪われるからこそ切なく、美しい。たとえそれが日々繰り返されるものであろうとも。
「いつ見ても日が落ちていく様は趣がありますねえ」
暢気に呟くのは陸遜。中華有数の智謀の士である。
ふわ、とした物腰からその智謀の冴えを読み取ることは難しい。
南部出身としては珍しくその肌は白皙。惜しげもなくその豊満な肉体を晒している。
「いいからさっさと用件を言え。これで忙しいんだ」
溜息をいくつもまとめて吐き出す彼女は周瑜。
陸遜と対照的に、健康的な小麦色の肌をこれまた惜しげもなく晒している。
「えー。久しぶりにお師匠さまとの逢瀬を楽しみたいというのは理由になりませんか?」
「ならんな。ほれ、さっさと用件を告げろ。さもなくば帰らせてもらうぞ。
まったく、こんな場所に呼んでおいてからに」
冷淡に弟子をあしらう。
実際、忙しいのだ。色々と。そう、色々と。
それでも呼び出しに応じたのは、忙しいからこそ、とも言える。
「えー、でもー。用件と言ってもですねえ。
既に果たされていると言ってもいいのですし。
さて、これ以上何を望めばいいのやら。困ってしまいますねえ」
ぞくり。
くすくすと可笑しげに笑う弟子――陸遜――に何か不吉なものを感じて周瑜は言葉を強くする。
「穏!何が言いたい!」
返答はない。くすくす、と心底可笑しげな音だけが響く。
「穏!もういい!」
ちり、と嫌な予感。
踵を返そうとした周瑜に穏やかに声が響く。
「いえね、ここに冥琳様がいらっしゃった時点で目的は達せられているのです。
ええ、既に。
我が策、成れり。という奴ですかね」
にこり、と笑う陸遜は常と変らない。
「……まさか、まさか!」
くすくす、と笑いながらいつしか陸遜の手には紫燕。
彼女の得手とする九節昆である。
ぎり、と歯ぎしりをする間もなく、周瑜は白虎九尾を手にし、振るう。
幾多の戦場を共にした相棒の鞭である。
九節昆。
扱いの難しい武器である。
その軌道は予想することが非常に難しい。時に奏者の意図すら裏切る。
武具のインパクトと対照的に、いや、それ以上に扱いの難しい武器だ。
だが、陸遜はその卓越した智謀と恵まれた体躯を操り、使いこなす。
一見無軌道とも思われるその動きは二手先、三手先まで睨んだ布石。
いや、二手、三手と思わせることすら彼女の掌中か。
「く、はあ!」
それでも周瑜は怯まない。後退しない。
むしろ歩を進めながら襲い来る連撃を捌く。躱す。進む。
「それで、勝ったつもりか!」
裂帛の気合いとともに襲い来る打撃を撃ち落とす。
数手先の動きを読んで襲い来る連撃を周瑜は更に上回って迎撃する。
じり、と詰め寄るのは隔絶した彼女の武威によるもの。
智謀においては互角でも。
「穏、今なら許してやる。貴様では私には勝てんよ!」
周瑜と陸遜。二人の智謀は互角と言っていいほどに拮抗している。
ただ、積み重ねた武技、修練は周瑜が勝っている。
それでも陸遜はくすくすと、笑う。
一手ごとに、一撃ごとに追い詰められていても。
「ええ、武に於いて私は及びませんねえ。
ほんと、及ばないです」
くすり。陸遜は笑う。
それでも、追い詰められる戦況でもうろたえない。
そう、この程度の不利なぞ。
嗚呼、感謝を。共にあった強者に。全力で高め合った貴重な時間に。
文醜と、顔良と、典韋と、趙雲と。そして。
「二郎さんの方がよっぽど、厄介ですし」
彼の変幻自在の武技を想うだけで火照る、昂ぶる。
ああ、師の。周瑜の武技は自分を上回るであろう。
だが、自分はそれ以上の武人と幾度となく立ち会ったのだ。
立ち合わせてもらったのだ。
そう。
武をもって立ち会った時点で自分の勝ちは決まったようなもの。
我が策、成れり。
そして周瑜は違和感を覚える。
何か自分は取り返しのつかない間違いを犯したのではないかという根源的な、本能的な恐怖に身を固くする。
「あらら。これまでですか?
鎧袖一触とまではいかないですけど、他愛ないですねえ」
か、と鼓動が早くなる。追い詰めている。そのはずなのに。
「舐めるなぁ!」
武技においては自分が優越しているのである。
激昂した周瑜は鞭を振り、相手を追い詰めていく。
あと十秒とかからずに、打ち据えるであろう……。
勝ちを確信し、運足をより精妙に、打ちこみをさらに苛烈に。
「ああ、言い忘れましたが、孫策さん。もうこの世にいませんから」
は?
「いや、鈍られましたかね?ずいぶんと安穏とされていたご様子。
暢気に私と致している間に、です。
冥琳様の愛する愛するご主君は旅だってしまいましたよ?」
周瑜は激昂する。激怒する。もはや自重しない。弟子とか、どうでもいい。
あの、我儘な恋人が?悪い冗談だ。きっとこれは自分を激昂させてどうにかしようとする小賢しい策だろう。
ならば最愛の主と同じく食い破ってやる。
「はい、残念」
九節昆の動きがその速度を上げる。周瑜はそれを捕えきれず、各所に痛撃が。
だが、刺せる。乾坤一擲を!
裂帛の気合いを吐き出した口からは紅い塊。
硬直し、震える身体に容赦なく九節昆の連撃が襲う。
こんな時に!と周瑜は思う暇もない。
「……無事是名馬と申しまして」
更に周瑜の身体に鈍い痛みが走る。
「そんな身体で孫家の軍略を担うとかありえないのですよ。
ご老体には、退場してもらいます」
哀惜すら感じさせる口調で陸遜は告げる。
どご!と腹に響く衝撃に周瑜は咳き込む。
息を吸う間もなく再び衝撃が襲う。
次々と。蹴り飛ばされて転がる。
「そろそろ、最後にしましょうか」
のんびりとした口調と裏腹に構えるは渾身。
周瑜は咄嗟に身をよじって。
奈落へと。絶壁へと身を躍らすのであった。
「あらら、事後処理までご自分でやってくださるとは。
ありがたいことです。
まあ、最初からここに落とすつもりでしたし、手間が省けたということにしておきましょう」
陸遜は笑う。そして呟く。
万が一に生きていても、その怨念は自分のみに向かうはずだ。
それでいい。それがいい。
反孫権勢力を糾合すればいいのだ。
叛乱勢力は自分を標的に襲いかかって来るであろう。
それでいい。いいのだ。
この身が盾となることができるならば、これ以上ない結果である。
くすり、と笑う。
「あれで蓮華様はお優しいですし」
実の姉を手にかけたのだ。その死を利用するのだ。きっと泣くだろう。悲しむだろう。自らを責めるだろう。それでも顔を上げ、立ち上がるだろう。前に歩き出すだろう。それこそが彼女の強さ、そして美しさ。
ならば傍らにある者は同じ……とまではいかずとも手を汚さねばならない。
そして共に歩むのだ。
日は落ち、月が昇る。夜風が火照った身体を冷ましていく。
そして陸遜は歩き出すのだ。
振り返ることなく、ただ、前に。




