哭く虎は地を。笑う虎は天へと駆ける
日輪はその姿を西の空に落とし、薄闇が庭園に漂う。
逢魔が刻。彼岸と此岸が交わる時。
政務を終えた――とっくに周瑜に全て押し付けた――孫策は東屋でぐび、と盃を呷る。
冷えた酒精が身体の昂ぶりを冷やし、やがて更に昂ぶらせる。
「ありゃ、もうないか」
酒壺から酒器に注ごうとして、既に飲み乾していたことに気づき、苦笑する。
どうしようか。まだまだ飲み足りない。でも新たな酒壺を持ってくるのもめんどくさい。
それに、愛しい愛しい恋人。周瑜からも飲み過ぎだと注意されていた、か。
「えい」
可愛らしい声と裏腹に、投げられた酒器は豪快な放物線を描き、飛んでいく。
「ここではない、どこかへ、ね」
けらけらと一人笑う。
そこに響くのは。しゃり、と下草を踏みしめる足音。
「……何をされてるのですか」
呆れたような声色は彼女の大事な大事な妹。孫家の次代を担う孫権その人である。
長らく袁家に人質として差し出されていたが、現在一時帰省をしている。
「やあね、冥琳みたいな顔して。ちょっと呑み過ぎたかなーと思って禁酒を志したのよ。
でも、禁酒は明日からにするとするわ。どうせ呑んでたし、可愛い妹のお酌で呑めるなんて、姉冥利だもの」
孫権が持つのは酒壺と酒杯を二つ。
「いいですけど、ほどほどにしないと。
……まさか日が落ちる前から呑んでるとは思わないです、と言わないといけないくらい。
本当に、よくないですよ。
どっかの誰かとは違うでしょうに」
昼間に酒精と親しむ、それは実にあの朴念仁と通じるところがありそうだ。と益体もないことをふと思い、かき消すように酒器に酒を注ぐ。
「あら、美味しい。うん、美味しいわねこれ」
ぐび、と一気に飲み干す孫策。
「母流龍九商会から分けてもらいました。何でも、新しい製法で作った酒精だそうです。
火酒、って言うのだそうです」
「へーそうなんだ。蓮華。
おかわり!」
はいはい、と酒器に注いでいく。
「うん、この一杯のために生きてるわねー」
「もう、姉さまは呑み過ぎです」
呆れた妹の声に孫策はけらけらと笑う。
「でもね、ほんと。蓮華とこうやって盃を交わすなんて、思ってもみなかったわよ。
……まあ、お酒どころじゃなかったしね。昔は」
実際、困窮していたのだ。食うや食わずであったのだ。
なんとか、妹たちには満足な食事を充てられていたけれども。
母で主君たる孫堅が身罷ってから、いや、その前から。江南の地は困窮にあえいでいたのだ。
文字通り、骨肉相食む地獄絵図すら珍しくなく。
頭を振り、孫策は雑念を追いやる。
全ては過ぎたことだ。
そして、静かに、問う。
「で、私に何か用?」
手元の盃に入った酒精を見つめて孫権は応える。
「……どうしてそう思われるのです?」
「んー。
勘、かな?」
にこり、と笑う姉に孫権は涙ぐむ。
全く根拠のない、「勘」というそれこそが孫家の強み。孫家の不確定要素。
孫家の戦略方針に優越するほどに権威がある。
……根拠がないのに的確であるからタチが悪いのだ。
「では、単刀直入にいきます。
袁家とことを構えるのを止めてほしいのです」
孫権は渾身の力でもって姉に訴える。気迫は以前の彼女とは比べ物にならない。
そして孫策は、応える。
「んー。ごめん、それ、無理かな」
けらけらと笑い、手をひらひらさせて応える。
孫権の言を容れるつもりは全くないのだ、と示す。
「なぜですか!袁家と争っても益はないでしょう!」
「んー、益とかじゃないのよねえ。言ってみれば、私の在り方、かな?
性に合わないのよね、下風に立ってるままって。
それじゃいつまでたっても袁家の使い走りじゃない?」
可愛く小首を傾げる孫策。
孫権は激昂する。
「だからと言って!なぜ平地に波乱を起こすようなことをするのです!」
「やーねー、蓮華。乱なら起きてるじゃない。それも中華全土に。
だったら乗るしかないじゃない、この大きな流れに!」
満面の笑みで孫策は訴える。
勝算だって十分あるのだ。あるのだ。
覇気すら纏う孫策。孫権は双眸からこぼれるものすら自覚せず、尚も言い募る。
「母上の願いは、江南の平穏だったではないですか!それを!なんで!」
孫策は苦笑する。以前から思ってはいたが、つくづく姉妹でその気性は対照的だと。
「母様の願いはそのままに。孫家の威光は高める。
ほら、なにもおかしくないわ」
「それは詭弁でしょう。詭弁以下でしょう!
だって。だって江南の平穏は袁家の援助によるものでしょう!
忘恩の徒たる孫家に誰が信を置きましょうか!」
「やあねえ。借りなんて踏み倒したもの勝ちよ?それにもともと孫家に信なんてないもの。
ほら、失うものなんてなにもないわよ?」
けらけらと笑う姉が孫権には理解できない。
「いいじゃないですか。江南で平和に、みんな仲よく暮らしましょうよ……」
嗚咽を押さえて絞り出す孫権に孫策は明るく応える。
「さっきも言ったけど、それは無理な相談ね。
うん。私はもう止まらない。止まれない。だから、ね?」
これでいいのよ。
にこり、と笑う孫策。
こぽ、とその口唇からは紅い液体が溢れる。
「今なら!今なら間に合います!ですから!考え直してください!」
悲痛な孫権の叫びを受けてなお孫策は泰然として。
「無理ね。もう私はこの胸の高まりを抑えられない。抑えるつもりだってないもの。
だから、よかったと思うわ。私を止めてくれたのが、蓮華だってことにね」
「姉さま。姉さま……!まだ!間に合います!」
くすくす、と可笑しげに、苦しげに孫策は笑う。
「もう、いつまでたっても甘えんぼさんなんだから。ね、蓮華。貴女がいるからこそ私は好き勝手できたのよ?
私の旅路はここでおしまい。
心残りがないわけじゃないわ。でも、私なりに遣り切ったわ。
だからね、後は任せた、わ」
ごぶ、と紅い塊を吐き出しながらも笑う。その笑みは慈母のように。
その表情を見て孫権はぎり、と食いしばる。覚悟はとうに決めていたはずなのに、と心を奮い立たせる。
ぎゅ、と姉の身体を抱きしめ、振り絞るその声は悲鳴に等しい。
「誰かある!姉さまが!誰かある!早く!誰か!薬師を!医師を!」
そう。姉と同じく、自分も行く道を定めたのだ。
でも、今くらいは、泣いてもいいかな?
ねえ、と問いかける相手は、まぶたに浮かぶ紀家当主であった。