曙光に照らされて
一陣の風が俺の体を撫でていく。涼風が俺の体温を奪っていく。
飲み干す酒精が内側から熱を放つ。だから、常ならば肌寒いであろう風が心地いい。
払暁すら未だ訪れぬ深い闇の中。上弦の月と星が照らす町並みを無言で見下ろす。
南皮の街を守る城壁。いつの間にやら高く、分厚くなったそこから街を見下ろす。
風に乗って喧噪の欠片が運ばれてくる。南皮の歓楽街は不夜城。そのエリアだけが明るく照らされており、その賑わいを思わせる。
豊かになればいい、と思った。飢餓がなくなれば乱なんて起こらないって思っていた。なんとかなるって思ってた。
それでも、この世は悪意に満ちていて。
乱だって結局起きてしまって。
安穏と暮らしたいと思っていた。自分が楽しければそれでいいと思っていた。
いや、今でもそうだけど、気付いた。自覚した。
大事な人はどんどん増えていたのだ。そして、だ。
俺はとんでもなく強欲になっていたのだと自覚する。
「あら、二郎さん。奇遇ですわね」
鈴を鳴らしたような声。
ぼんやりと酒精で濁った俺の意識を覚醒させる。
「え?あ、麗羽様……。どしたんですか」
「それはわたくしの台詞ですわね。それに、それよりも、ですわ。
何を辛気臭い顔をしてらっしゃるの?」
ずい、と俺の顔を覗き込む。やべえ、朝っぱら……というか世も明けてないのに呑んでるのばれちゃう!
しかも今日出征するのに!
「や、その、これはですね。そう、眠れなくて、ですね」
「ふふ。
それもまた、奇遇ですわね」
にこり、と笑う麗羽様は光輝を纏っているかのごとく眩しい。
「それにしても、思ったより冷えますわね」
そう言って俺に寄り添う。
「あら、わたくしもいただきますわ」
ぼんやりとしていた俺の手から盃を奪い、こくり、と中身を飲み干す。
ふぅ、と漏らすため息がどこか艶っぽい。
空になった盃に酒精を注がれる。
今度はちび、ちびと味わうように飲む。
喧騒を肴にこのひと時を楽しむ。
穏やかな沈黙が心地いい。
こて、と麗羽様が俺の肩に頭をもたれさせてくる。軽やかな重みに口元が緩んでしまう。
「今日、発たれますのね」
「ええ、行ってきます。やっつけてきます。兵は精強、率いるのは勇将、知将。傍には神算鬼謀。
袁家の声望、中華に轟かせてきますよ」
「あら、頼もしいですこと」
「いや、俺らしくないかもしれないですけどね。
それでも、やるときゃやりますよ。やってやりますよ」
言い募る俺である。
いつもはやる気がないと公然と言っているが今回ばかりはその限りではない。
それを伝えようと目を閉じ、気合いを入れる。魂魄を燃やそうとする。
ちゅ、と唇に柔らかいものが押し付けられる。
「れ、麗羽様?」
「頼りにしてますわ。信じておりますわ。
いつだって二郎さんは約束を違えず、果たしてくださいましたもの。
いつだって帰ってきてくださいましたもの。
ですから麗羽は、二郎さんをお待ちしておりますわ」
どこかで一番鶏がその存在を主張し、地平の果てから日輪がその姿を現す。
その光を背に受けて微笑む麗羽様はいっそ神々しいくらいに眩しかった。
「お任せあれ、ですよ。ええ、任せてください。
黄巾なんてちょちょいのちょいと平らげて、帰ってきますとも」
ぎゅ、と抱きしめる。
華奢な身体を抱きしめ。
ちゅ、と口付ける。
くすり、と笑う麗羽様が耳元で囁く。
「二郎さんから口付けてくれたの、嬉しいですわ」
と。
次々と鶏の声が朝の訪れを告げる。
眠りから覚める。
南皮という街そのものが目覚めていく。
「憶えていますわ。幼い日にも、幾度もこうして日の出を見たことを」
「ええ、おつきの女官らには相当嫌われましたけどね」
くすくす、と当時のことを思い出したのか麗羽様が身を震わせて笑う。
「ええ、そりゃあ色々二郎さんの悪口を吹き込まれましたわ。すごかったんですのよ?」
「そりゃまあ、そうでしょうね」
次期当主たる麗羽様を連れてあちこちふらふらと出歩いていたのだ。側近とかお付きの人にとったらたまったもんじゃあないだろうて。
「でも、わたくしは楽しかったし、嬉しかったですのよ」
「……そりゃ、よかったです」
まあ、あれこれ考えて眠れない日々もあったのだよ。がっちりホールドされてたから自然と連れ回した感じになっていた、かな?
まあ、一緒にいたってのは本当だ。
「いつもこうして、ぼんやりと街を見られてましたわね」
「ええ、まあ」
お気に入りのスポットではあるのであるのだ。昔も、今も。
「最近、わたくしもここはお気に入りなのですわ」
「そりゃ、また」
くすくす、と笑いながらきゅ、としがみついてくる麗羽様を軽く抱きしめる。柔らかな感触、鼻腔をくすぐる芳香にくらり、としてしまう。
「だって、ほら」
指さす南皮の街からはいくつも煙が立ち上る。
民の竃に立つ煙。
それはにぎわい。
「静かですけど、にぎわいが、ありますわ。
日々、あの煙は数を増しています。それは、わたくしたちが頑張ったからでしょう?
……流石に民の顔、一つ一つなんて見えませんわ。でも、ここから見る、ここから始まる日常。
それって、とっても尊いものですわよ、ね」
麗羽様の笑顔が、尊く、嬉しい。
その笑顔が尊いのだと、俺は理解している。
「ですからね。ようやく、ですわ。
あの時二郎さんが見ていたのと同じものを見れるようになったのかな、と思いますの。
それが、嬉しく。そして誇らしいのですわ」
俺から離れ、南皮に向かい大きく手を広げ、ぎゅ、と抱きしめる。大切そうに。
くるり、と振り返り。声を上げ、笑う。光輝を背負い、放つ言葉はまさに神託のように響く。
「おーっほっほ!
わたくしは、欲しいものは全て手に入れないと気がすみませんの。
袁家も、漢朝も。二郎さん、貴方もね。
袁家当主たるこの、わ・た・く・し・が!命じますわ。
黄巾賊などという卑賤の輩などさっさと平定しておいでなさい!
雄々しく!華麗に!優雅に!
よろしくって?」
それでこそ麗羽様、だ。
先刻まで欠けていた、抜けていた気力が満ちていく。気合いが入る。麗羽様なりの激励に気力は満ちていく。満ちた。
「承りました。承りましたとも!
袁家の武威!漢朝の威光!中華に轟かせましょう!
麗羽様には吉報しか届きませんよ。届かせませんとも」
俺は誓う。誓いを新たにする。
そして挑む。挑もう。
黄巾、なにするものぞ、と。




