その勅は中華を駆ける
兵を発するべし。黄巾誅すべし。
洛陽から出されたその命は中華を駆け巡ることとなった。
発せられた勅に諸侯は動く。動き出すだろう。
「随分思い切った手を打つね?
まさか、越境さえも許可するとは。
治める州の治安のみならず、黄巾根絶まで諸侯を動かすのかい?」
苦笑交じりに声をかけるのは皇甫嵩。禁軍、諸侯軍を指揮する――と何進に任じられた――総司令官である。
高潔な人格者としても有名であり、能力についても疑う者はいない。
故に、何進の出した布告についても意図を読み込んでくる。
「そりゃ、兵を蓄えている諸侯の実力を測るにはいいと思うよ?
でも、彼らを調子に乗せるのもどうかと思うけどね」
何進は一顧だにせずに、素っ気なく。
「フン、大事の前の小事だ」
吐き捨てるがごとく。
「軍閥ができても知らないよ?」
「今更、だな」
袁家、馬家は匈奴を防ぐ上でどうせ必要。
後は劉表、劉焉の皇族。そして新興たる曹操、孫策、加えて公孫賛。
それら全て、統べて。
「抑えきってみせるとも、さ……」
徹頭徹尾孤立無援。
潜在的な政敵の増加などに怯む何進ではない。
「貴様こそ、きっちり平定するんだな」
「はは、笑えるね、その冗談」
皇甫嵩は笑う。
何進は大げさなのだ。流民が起こした乱など禁軍のみでも十二分であるというのに。
いくら広範囲で乱が起こっているとはいえ。
……いや、逆だな、と推察する。この自分が武勲を立てすぎるのを嫌っての諸侯の動員なのであろう、と。
なるほどなるほど。思ったよりも数段小賢しい。肉屋の倅ごときと侮らせてはくれないようだ。相変わらず。
「ま、見ているがいいよ。乱の一つや二つ、平らげて見せよう」
身をひるがえし、室を辞する。
すれ違う武人に苦笑する。
全く、あのがちがちに漢王朝への忠誠篤い馬騰と何進が親友どころか義兄弟であるなど、何の冗談だ、と。
◆◆◆
覇気も露わに馬騰は洛陽を辞することを何進に伝える。
「涼州に、か?」
「うむ、兵を発する」
簡潔な会話に多くのものを込めて馬騰は笑う。
「なに、ここ洛陽にいるよりも、だ。戦働きの方が私には向いている。
武勲引っ提げて再び馳せ参じようとも」
ほとばしる気炎、気迫を背負った笑み。爛々と光る眼光に何進も苦笑せざるをえない。
嗚呼、この、実直たる盟友は兵を率いてこそ輝くのであろうと。
「存分に暴れるがいいさ。……頼りにしてるぜ?」
「うむ、任せてもらおうとも」
呵呵大笑。漲る気迫は英傑そのものを体現している。
「なに、黄巾賊と言ったか。
それ全て涼州兵が食ってしまっても構わんのだろう?」
「クハ、頼りにしてるさ。頼りにしてるとも」
再度呵呵大笑。
何進は思う。この男との縁こそ、異なもの味なものだ、と。
◆◆◆
「父上が帰ってくるのか!」
馬超は喜色を隠しもせずに賈駆に確認する。
「ええ、そうよ。黄巾討伐は馬騰殿指揮下に於いてなされるわね」
「うん、うん!それでこそだ!馬家の武威、響き渡るさ!」
賈駆は内心苦笑する。
馬家を率いる自覚ができたかと思えばこれだ。
結局彼女は父の影から逃れることはできないのではないか、なんて思ってしまう。
「馬騰殿が帰ってきたらボクも月のとこに帰るからね」
「ん?そか。董家も兵を発するのか」
「ええ。世が乱れるのを月は座視しないわよ」
残念だな、と馬超は思う。賈駆の能力であればどれほどに涼州の騎兵を操ったであろうかと。
彼女の知略あればどれほどに馬家軍は羽ばたいたであろうかと。
「ま、戦場でまみえることもあるでしょう。その時は、よろしくね?」
「ああ、こちらこそ、よろしく」
賈駆とて不本意である。
馬家は馬騰、馬超、馬岱と総動員して乱に当たるであろう。
なれば、涼州を守護するのは韓遂となろう。
手を尽くして弱体化させたというのに、という無念。
無力化までは考えていなかったが、流石にこの事態は想定外。
「でも、涼州よ。いずれボクは帰ってくるわよ?
韓遂め、精々一時の安寧を味わいなさい……」
獰猛な笑みを浮かべて賈駆は誓うのであった。
◆◆◆
兵を発せよ。
その命は中華を駆け巡る。太守、州牧といった諸侯に行き渡る。
ある者は自らの富貴を擦り減らすであろうその命に舌打ちし、領内安堵に努める。
ある者はその使命感により発奮する。
そして、何進が警戒する諸侯の一人である陳留の太守。曹操は笑いが止まらない。
「春蘭、兵を整えなさいな。大至急にね。秋蘭、留守は任せたわ」
迸る覇気。主君の漲る気迫に夏候惇は喜びを露わに、夏侯淵は静かに。その命に従う。
場に残る荀彧は主君に問う。
「よろしいのですか?戦力が磨り減る可能性もありますが」
「構わないわ。こんな千載一遇の機会なんてないもの」
そもそも、漢朝全土に広がる黄巾の乱。本来であれば官軍のみで当たるべきである。
だのに、諸侯に兵を発させるのはなぜか。
……売官の廃止である。
賄賂等で腐りきっている漢朝――何進が政権を担ってからは改善されている――であるが、売官で得られた金銭に関しては国庫に納められるものであった。
それが廃止され、しわ寄せは軍備に、常備軍に向かったのだ。幸か不幸かその当時は天災も少なく税収も安定。故に常備軍を削って帳尻を合わせていたのである。
無論、軍権を握る何進への宦官勢力による妨害工作という点も大きい。
ともかく、禁軍という禁裏を警護する最精鋭を繰り出すことからも漢朝の直接握る軍事力の減退は見て取れる。
……この段階でその決断をする何進に対する評価。それを二段階ほど上げたのではあるが。
ともかく、誰はばかることなく手元の兵を動かせるというのは大きい。
現状、曹操に足りないのは一にも二にも声望。これに尽きる。
それを得る絶好の機会である。陳留以外にも武威を示す機会である。
なにせ、これまで禁じられていた、領外への派兵も認められているのだ。更に兵糧は官から支給される。
洛陽に、禁裏に歩を進める前に絶好の機会が訪れたのだ。笑いが止まらないというものである。
既に禁裏の宦官。その中で十常侍に与しない者の帰順は始まっている。この乱を平定し、声望を手にすれば思ったより早くに宦官勢力の掌握は容易であろう。
陳留を中心とした地盤。精強なる武力。圧倒的な声望。宦官勢力を束ねるだけでは得られないこれらを手にした自分ならば、戦後に大将軍たる何進と伍することもできるであろう。
そして最終的に勝利を手にするのは自分だ。
「桂花、曹家の命運は、興廃は、隆盛はここにこそ、その突端があるわ。頼りにしてるわよ」
「はい!華琳さま!」
艶然と笑い、曹操は昂ぶる。何進が、十常侍が、袁紹がこの乱の後には政敵となるのであろう。
だが、自分ならばそれらを全てを跪かせることも可能であると確信して。
天運、我にあり。
我が天を裏切ろうとも、天が我を裏切るは許さず。
◆◆◆
兵を発せよ。
その命は中華を駆け巡る。ここ襄平にもそれは到達している。
太守たる公孫賛に否やはない。むしろ領外に逃亡した賊に痛撃を食らわすことができるとあり、意気軒昂である。
「白馬義従は伊達じゃない!」
これまでは領外に逃散する賊になすすべもなかったのだ。
だが、これからはそうはいかない。
「見せてやろうじゃないか、公孫の武威というやつを」
実際、彼女が手塩にかけて育てた兵は中華でも屈指の精鋭である。
それを知る韓浩は茶化すことなく、心より武勲を祈念する。
「留守は任せてほしい。万一、賊に蹴散らされても援護くらいはする」
淡々とした言葉に公孫賛は苦笑する。が、留守を預かるのが韓浩ならば心配はない。
韓浩に背中を預けるのであれば、白馬義従はその実力を遺憾なく発揮するだろう。
巧遅よりは拙速。それは用兵の真実。幾多の戦場を駆け、公孫賛はそれを思い知っている。
だから、兵を発する。賊を滅する。
憤りがある。怒りがある。
匈奴の脅威は記憶に新しいはずなのだ。だのに、何故官軍の手を煩わせるのか。
ここで匈奴が南下すればどうするのか。
一見穏やかな笑顔の裏。公孫賛の憤懣は推して知るべし。
「駆けろ!馳せろ!白馬よ!」
これより白馬義従の有名は轟くだろう。
頸木より解き放れたならば、思う存分駆け巡るであろう。
侮るならば相対すればよいのである。
韓浩は思う。自分ならば、白馬義従との激突など勘弁願いたいものだ、と。
彼女の願いが、思いが果たされるかは明らかならず。
ただ、彼女は託された印綬を手に、思いを胸に。時代の荒波に立ち向かうことになる。
ささやかな決意は、やがて時代をも動かす蝶の羽ばたき。その突端になるのだ。
◆◆◆
兵を発せよ。その命が届くまでもなく動く者もいる。
賊の頭を潰し、兵力を吸収して現有戦力を肥大させる。
「いやー、笑いが止まらないわねえ」
「……それはいいがどうやって食わせるつもりなんだ、雪蓮」
こめかみを押さえながら周瑜は孫策に問う。
兵力があるのはいい。が、肥大化したそれを維持するには孫家では色々足りない。
「やだなあ、思春みたいに使える人材を選り抜いて、後は、ね?」
「ね?じゃない。戻りつつある民の対応だけでも手一杯なのだぞ、私達は。
それを余計なものを抱え込んでからに、もう……」
言ってもしょうがないが、言わずにはいられない。周瑜は主君兼恋人である英傑に向き合う。
「えー、でも食い詰め者だから食だけ提供すればいいじゃない。
それに、黄巾討伐を名目にすればいくらでも食糧は引き出せるしー」
何進から発せられた命。黄巾誅せよ。そのために諸侯の軍には各地の官庫から。更には義倉からも食糧が供給される。
願ってもないことである。行動の制限、兵站の限界などを考慮せずともよいのだ。
「だから、ね。例えば、どっかの都市が黄巾と通じていたら私たちが落としても問題ないと思うし」
にまり、と笑むその顔はこの上なく物騒で、官能的で。
周瑜は改めて諌める。
「だから、そうまでする必要がどこにある?十常侍と組み、袁胤と組み。
それはいい。だが、わざわざ如南に攻め入る必要などないだろうが」
「やだなあ、冥琳、分かってるくせにー。
これなくしては袁家の下風からは逃れられないわよ?
孫家は袁家ごときに膝を屈し続けない。首輪は引きちぎり、檻は食い破りましょう。
なに、袁術ちゃんを確保さえすれば、なんとでもなるわよ」
いっそにこやかに、晴れやかに。孫策は笑みを深める。
「確かに、袁術殿の身柄さえ確保さえすれば何とでもなる。それは確かさ。
十常侍との繋がりがあり、袁家内部でも影響力の大きい袁胤殿と組めば袁家も黙らざるを得ないだろうしな。
結局紀霊とて袁胤殿を殺すことはできなかったのだからな」
「そうよ。だからね、ここは勝負所なのよね。孫家が天下に羽ばたくためには、今、なのよ」
周瑜は目線で問いかける。勘か、と。
満面の笑みで孫策は是、と応える。
「全く、厄介なことばかり考えるよ、我が主君は」
「んー、ごめんね?償いは閨でたっぷりと、ね?」
ちろり、と官能的に舌を滑らす孫策に周瑜は素っ気なく答える。
「はいはい。我儘なご主君のせいで眠る暇もないぞ。
虞翻殿に出す帳簿に整合性を付けるのって、かなり大変なんだぞ?」
「あー、物資とか兵力を誤魔化さないといけないもんね」
「分かったら邪魔をしないでくれよ?」
しっし、と虫でも追い払うように退出を促す仕草に、ぶーぶーと文句をまき散らしながらも孫策は大人しく室を後にする。
やれやれ。
周瑜は孫策の気配が感じられなくなったのを確認すると、大きく息を吸い、吐く。吸う、そして。
ごぷ。
濁った音と共に紅い液体が溢れる。漏れる。流れる。
「ぐ、ふ。が、はぁ……。んん、ぐ。っふ。」
呼気を整え、身体を蹂躙する獣をどうにか抑え込む。
水差しから薬湯を杯に注ぎ、飲み干す。
一息。
「まだだ、まだ。暴れるには早いだろうよ……」
全身を駆け巡る苦痛に恨み言ひとつ。そして手元の書類に目を通す。
「これは穏を呼び戻して正解だったかな……」
手元の震えが政務を滞らせる。気が昂ぶるほどに暴れる獣を飼いながら、周瑜はそれでも諦めない。
たとえ命尽きるとも、ともに過ごすこの時。それを大切にしたい。
自分は彼女と思い出に寄り添うことはできないだろう。
せめて、立ち上がり、肩を抱き、明日を唄おう。
命燃え尽きるとも、夢を追い、羽ばたくべし。虎に翼を与えるべし。
 




