不穏の影
結局目ぼしい手掛かりを得ることもできず、俺たちは南皮に帰還した。
失意を友に、と言ってもいい。
麗羽様に経緯を説明し、文家と顔家に出動を命じる。
「……しかしこんなに反対もなく動くとはなあ」
驚くことに……文家も顔家も俺の命に反駁もなく従ったのだ。
「何を言うのですか」
呆れたような口調で嘆息するのは稟ちゃん。袁家内での地位については相当地歩を固めつつある。凄い勢いで。
「や、だってさ、十年単位で袁家の軍権を掌握しようとしてたんだぜ?
それがこんなに容易いとなるとだな。逆に違和感があるのよ」
いや、そりゃ猪々子や斗詩は俺の言うこと聞いてくれるとは思うよ?
つか、袁家の派閥争い的なものを乗り越えて俺が軍権を掌握するには人脈に頼るしかないからして。
「では、お手にされたものの大きさを実感するいい機会ですね。
文家、顔家共に二郎殿の指示に従う旨連判状がここにあります。
両家の主だった士官が名を連ねております。
どこぞの策謀家気取りの軟弱な輩とは一線を画すようですね。
流石は袁家。尚武の気風は確かかと」
む。肩が重いぞ?
「足を引っ張られるよりは肩が重い方がよかろう?主よ」
玲瓏たる声をかけてくるのは俺には過ぎたる家臣の一人、星である。
「まあ、そうだな。前向きに考えるか。予想以上に俺の指示が行き渡ってるみたいだしな。
星にも働いてもらうぞ?」
「無論。御身に捧げたこの身なれば。如何様にもお使い下され。
……勿論、臥所での働きでも否やはございませんぞ?」
艶然と微笑む星の言葉に数瞬絶句する。
さて、何と返したものかと思う間もなく。
「いいいい、いけませんよ星。我らはその才をもってお仕えするというのにその、夜のお相手など不謹慎です。そのようなことを命じられては非力なわが身は抗うこと能わず。その純潔を散らしてしまうのですね。いえ、嫌という訳ではないのです。が、この身を捧げるにはやはりそれなりに状況が整っていないといけないと思うのです。ええ、私はやはりそれは不本意と言いましょう。ですが。ですが二郎殿が情熱的に迫ってきたら私は拒むことが出来るのでしょうか。いえ、拒むべきですね。拒むでしょう。ですが二郎殿の激情は私の防壁を容易く貫き、この身を穿つでしょう。嗚呼、やはりこの身は、純潔は儚く散る運命というのでしょうか。いけません、いけません。いけませんとも。
そもそも軍師とはあらゆる利害関係と無縁な状況に身を置いてから……」
ぷぴ、と吹き出す鼻血はマグマの如く赤く、熱く吹き上がる。人体の神秘ここに極まれり。などと思っていたら。
「むむむ。これはしたり。二郎殿、介抱は任せた」
あ、こいつめんどくさいこと押し付けて逃げる気満々だな。
そう考えると風はあれで面倒見いいのかな。
ぐったりとした稟ちゃんをとんとんしながらそんなことを思う俺であった。
◆◆◆
「とまあ、そういう訳でさあ、俺としちゃ予想外だったのよね。
文と顔があっさり俺の指揮に従うなんてさ」
わけわかめ、いみとろろなのが本音の二郎です。いや、よかったんだけどね。十年単位で丹念に指揮権を確立していくつもりだったからさ。
「そりゃ従うだろうさ。おいらにゃ二郎が何でそんなに不思議そうにしてるのかがわかんねえけどな」
干菓子を摘まみながら張紘がそんなことを言う。むう。どうせ俺は頭悪いよ。
「あのなあ、二郎。本当に本気で分かってなさそうだから言うけどな、お前本気で文家と顔家が従わないとか思ってたのか?」
「だって俺ってば凡人じゃん。武では猪々子や斗詩には敵わんし、お前らみたいに頭だってよくない。
精々積み上げた虚名と金、後は血筋か。そんくらいじゃねえ?」
実際袁家は割と実力主義なのである。田豊師匠とか麹義のねーちゃんとかが権力と権益を掌握していたのもその実力故のこと。匈奴の危機が今でもそこにあるからね、仕方ないね。
実際、麗羽様みたいに圧倒的なカリスマはないし、武勇とか智謀とか、話にならない。
これが時代劇なら精々悪代官か越後屋が役回りとしては妥当だろうて。それはそれで楽しそうだけんども。
「二郎、お前な……。あまり自分を過小評価するなよ?悲しくなっちまうぞ。
いいか、二郎、お前は大した奴だ。このおいらがそう断言する。足りないならそこで他人事みたいにな、にこにこしてる沮授だって追加してもいい。
重ねて言うぞ、お前は大した奴なんだ。すごい奴なんだ」
そんなん言われてもなあ。沮授よ、お前まで珍しく真面目な顔してどしたのさ。
「いえ、僕も張紘君に同意しますね。いやはや。
謙遜かと思った時もありましたが、本当に本気で自己評価が低いですよね。
やれやれ、困ったものです」
いや、実際、お前らみたいな英傑と凡人を一緒にすんなって。
ここで対等に話せてるのって生まれのアドバンテージと前世知識のおかげでしかないぞ。
マジで。
「あのな、そんな不思議そうな顔してるなよ。
いいか、二郎がいなきゃあさ。おいらなんてまだきっと流民として彷徨ってたろうさ。
あの日な、あの時にあの場所でな。二郎に声をかけられなかったら、きっとそうだったさ」
や、張紘ほどの能力があったらどこ行っても、ねえ。と思うんだが。
「ああもう!まだ納得してねえな。こっからは二郎のことだ。
いいか、この袁家で、麹義様、田豊様という文武の重鎮に等しく教えを受けているってことがどういうことかは分かるな?
袁紹様、袁術様の信頼厚く、他の武家当主とも親密だ。これは、すごいことなんだぞ?」
「加えて、近年の武勲はほぼ二郎君が独占してますね。それが望んだものかどうかは置いておきましょう。
更には、じきに州牧となる公孫賛、孫家とも個人的に友誼がある。いやはや、千金、いや、万金を積んでもその半分も果たせないでしょうね」
「あー、そりゃね。ねーちゃんと師匠からそういう期待はかけられてたと思うけどね……。
いや、期待をかけられるというのはありがたいことだわな」
重みを背負っていた肩がさらにずっしりとくるぜい。うへへ。
「だからだな、二郎よ」
「ん?」
「お前が双肩に袁家を背負っているというのはおいらだってな、その、なんだ。分かるとも。
だから、だな。
いや、むしろ、か。
おいらたちにその重みを分けてくれよ」
「そうですよ。僕らはね。
他でもない義兄弟なのですから。水臭い。
もっと頼ってくれていいんですよ?いえ、違いますね、頼ってください。
僕達はね、二郎君が大好きなんですから」
そ、そんなこと言われたら、泣いてまうやろー!つか、やべえ。ほんま、泣いちゃう。
だが、その言葉が嬉しい。気遣ってくれているということが、本当に嬉しい。
だって、張紘と沮授が、だぜ?
「お、おうよ。なんか、楽になったわ。ほんと、ありがとな。
そ、そうだな。まあ、取りあえずは謎の賊対策だ。厄介極まりない」
そんな俺たちに声がかけられる。
「二郎様、『飛燕』様がおいでとのことです」
陳蘭の遠慮がちな声に昂揚していた頭が冷え切る。
さて、期待の梟雄のおいでだ。
「二郎君?如南はどうします?」
「雷薄と張郃、それに沙和を派遣する。雷薄なら問題なく軍を把握できるし、裏は張郃だな。
沙和もそろそろ管理職として経験を積んでおいてほしいとこだしな」
一記者としては結構評判も高まっているけど、もっと大きなステージで活躍してもらわんとね。
「よし、手配しとく。二郎達が赴くまでにきっちり仕込みは済まさせておくように、な」
「頼むわ」
「しかし雷薄将軍ですか、如南への赴任は望むところでしょうね」
娘さんが如南にいるからね。これは如南に行く時の楽しみが増えたね。
うっし、とりあえずは張燕だ。あいつがこの乱の首謀者とは思わんが、きっちりと締め上げてやろう。