愚者は踊る
「ふむ、二郎が麹義の跡を継いで軍部の総司令官になったのか。
さらに紀家が序列を上げて筆頭に、か……。
うむ。めでたい!祝いの品でも贈ってやらんといかんな!」
手元の書類に目を通した夏候惇はからからと笑うも、ふと首をかしげる。
「ん?だが二郎は確か袁術殿の派閥なのだろう?そうなるとまたぞろ、袁家内でややこしいことになるんじゃないのか?」
びしり。
ネコミミフードを被った細身の少女が驚愕にその顔を、動きを凍らせる。
ありえない。この脳筋がそんな政治向きのことに気を向けるなど。これは天変地異の前触れかと。
「アンタ……何か悪いものでも食べたんじゃないでしょうね」
「ん?今朝は秋蘭が作ってくれたからな。実に美味であった!」
恐る恐ると言った問いかけに呵呵大笑で応じる夏候惇。二人のやり取りを主である曹操はくすり、と微笑みながら見やる。
だが、思う所はあったようで、ふむ、と僅かに思考にふける。
「春蘭。いいところに気が付いたわね」
「はい!華琳様!」
もし夏候惇に尻尾があればちぎれんばかりに振っていたろう。
その全身で敬愛する主君からの讃辞に喜色を表す。ち、と響く舌打ちなぞ気づくこともない。
「確かに相当ややこしいことになったように見えるわね。桂花、整理してみなさい」
「は。元々袁家は後継について波乱を含んでおりました。袁紹と袁術。二人によって争われるであろうと思われておりました。
が、袁逢の夭逝により幼少である袁術は当主の座を争うこともできませんでした。
故に一旦は袁紹が問題なく当主に収まりました。武をもって袁家に仕える武家のうち、筆頭たる文家が腹心として袁紹派閥としてあるのも大きかったですね。
ですが、反袁紹の筆頭である袁胤が袁術の後ろ盾に名乗りを上げて力関係は微妙になります。
紀家、張家を取り込み、袁家の中でも有数の血統。下手をすると袁紹と家督を争うことすらできる人物の存在は相当に影響がありました。
その袁胤が謀反の咎で排除されました。これは袁紹の権力基盤が固まり、袁術を排除しても問題ないということ。袁家の権力基盤を簡略化し、不穏分子を鎮静、排除するためと思われます。
更に袁術は捨扶持で如南に追放。紀霊、張勲をもって監視するというのが筋書きと思われました」
突然の指名に動じることなくすらすらと所見を述べていく。
こくり、と手元の茶を喫して喉を潤わせる。
「ですが。
紀霊と袁胤の処遇で事態は混迷します。
袁術は捨扶持で如南。影響力を削ぎ落としながらも袁紹の身に何かあった時、または決定的な失策を犯した時の予備の後継としての役割がありました。これは、これまでの袁胤の役割です。
ですが袁胤はその命脈を保ち、依然予備としての価値を保ちます。
一方、袁術は一応の腹心たる紀霊が袁家の武を束ねる立場となったことによりむしろその権勢を強化されています。
例え如南に赴いたとしてもその影響力は依然として大きいでしょう。
一見混迷を極めていますが、ここに袁胤の一手が活きてきます。彼はあの十常侍と繋がっておりました。
袁紹は既に何進と組み、十常侍との対立姿勢を露わにしております。
故に袁胤は十常侍との争いに膝を屈した時に袁家を継ぐための予備ということでしょう。
故に袁家宗家たる袁紹、軍部を握る袁術。そして袁胤の三つに勢力が分かたれました。
本来であれば麹義のように武家四家と無縁の人材が軍部を掌握するのが袁家宗家としては都合がいいのでしょうが、そのような人材はおりません。
武家筆頭が軍部総司令官というのは下手をすると袁家当主に匹敵するほどの権勢を握りかねません。
そのような権限を紀家当主に許すということは、袁家の内部も相当混乱しているのではないでしょうか?」
曹操は満足げに頷く。
「そうね。その通りね。
付け足すならば、麹義は紀家の先代……紀文こそ軍部を束ねるべきと幾度か主張していたそうよ。
紀文が。すなわち、匈奴の汗を討ち取った英雄こそがその座に相応しいと、ね。
だから麹義は紀家の後継たる二郎にその座を譲りたかったというのも大きかったのでしょうね。
さて。桂花も言ったけれども、袁家の内情は混沌、混迷。
此度の仕儀を複雑にしているのは張家の先代が排除されていることね。
血縁たりともあっさり排除してしまう。
それがあるからこそ袁家姉妹の権力争いに凄味が出てくる……」
くすくす、と自らの親友……と一度ならずとも呼んだ袁紹について論評を述べる。
瘴気すら漂うようなその昏い笑みを清冽な声が貫く。切り裂く。
「ですが、華琳様。そんなわけがありません。
袁家にそんなめんどくさそうな権力争いがあるとは思えません。
うん……、ないな。華琳様!やっぱりありません!
二郎がそんなめんどくさいことするわけありません!」
きっぱり。
夏候惇はごく自然にその言葉を口にする。
自らの主君の述べた言葉を全否定するそれを。
「アンタ、何言ってんの?話聞いてたの?
馬鹿なの?死ぬの?」
鋭い言葉に夏候惇は小揺るぎもしない。
「大体だな。肉親で争うとかならば私と秋蘭が華琳様の寵を争って対立するとかいうのと同じだろうが。
夏候の家の都合で争うと言うのと一緒だろうが。
貴様は袁家で何を見てきたのだ?袁家姉妹の不和などありえん。
それに乗じて二郎が権力を握るとか、貴様が華琳様を裏切るくらいありえんだろうよ」
くすり。
曹操は満足げに笑う。
これだ。これこそが彼女の真の価値。その薫風は暴風にも似て、澱んだ霧を吹き飛ばすのだ。そう。彼女はけして武だけに特化しているわけではない。理ではなく利でもなく、最適解を導き出すのだ。
「そうね。桂花。田豊と麹義が隠居したわ。
麗羽は誰の言葉に一番耳を傾けるでしょうかしらね」
「そ、それは……」
「二郎に決まっているだろうが」
呆れたように夏候惇が言う。
「袁家当主だけではない。麹義、田豊がいなくなったら二郎の言うことに誰が逆らう?
そんな奴はおらんよ」
「序列は?権力構造はどうするのよ!」
「そこらへんは知らん!」
「アンタねえ……」
二人のやり取りに曹操は笑いながら。
「桂花。貴女が激昂する必要はないわ。
貴女もそう、分析していたのでしょう?」
「で、ですが華琳様!あまりにも根拠が!」
ちゅ、と曹操は腹心たる軍師を抱き寄せ、その口をふさぐ。あ、と響く小さい嬌声。
「今回の袁家の一手に桂花が巻き込まれてはいけないわ。
だって、これはね。忠信考悌を知らない蒙昧こそが混迷する類いの詐術だもの」
え、と呟く口唇をひとしきり蹂躙し、曹操は言葉を繋ぐ。ちろり、と桜の舌が淫らに蠢く。
「これはね。そう、十常侍に対する牽制なのよ。
まだ、武家最大勢力たる袁家と組む余地があると思わせる。
その実、これまで曖昧であった二郎の権力を集約する。
いえ、違うわね。隠然とあった二郎の地位をきちんと確立したのね。
だから、逆なのね」
紀霊の権力を強化したのではない、もともとあった紀霊のその地位、影響力を裏付けたにすぎないか、と呟く。
「そ、それでは……。袁家の勢力争いは、闘争は茶番であったと……?」
「すべてとは言わないわ。末端ほど派閥争いに汲々とするわね。そして袁胤も本気で動いたでしょう。
でもね。袁家の老獪なのはね。ほっといても発生するそういった軋轢を抑止する駒をきちんと仕立てたのよね。
そう、袁家の後継と武家の後継。その要は……」
分かるわね?と艶然と微笑む。
「麹義と田豊に託されたのでしょうね、二郎は。きっとね。
ならば私の誘いに応えられないのも致し方ない、か」
それを無下に出奔するような人材などむしろ願い下げだ。
かけられた期待を察せないような蒙昧など死ぬべきだ。
だが、それでも自分を選んでほしかったという背反した思いもある。
「つまり、袁家に元々そう言った権力争いはなかったのですね?
そして、二郎がその中心ということですか!」
「単純化するとそういうことね。
でも、見る人が見れば袁家はどうしようもない権力闘争の真っただ中よ……」
そこにきっと付け込もうとする勢力があるだろう。
漢朝に寄生する塵芥、寄生虫はそこに群がろうと、つけこもうとするだろう。
曹操は理解する。把握する。
あの凡庸として、この曹操を高く評価しつつもなびかないあの男の援護射撃なのだ。
ありもしない袁家の瑕瑾を、亀裂を探っている間に掌握しろということなのだ。
いいだろう。この身を気遣おうとするその気宇やよし。
……その思い上がりや、よし。
「だからこそ、欲しくなるわね……」
浮かべた笑みは獰猛な肉食獣のもの。その覇気。覇王と呼ばれるほどのそれが彼女の真価。
彼女こそ、凡人が最も恐れる存在である。




