碧眼児と刎頸の交わり
「穏、これは本当なのね」
碧眼児と呼ばれ、孫家の中でも将来を嘱望されている二の姫――孫権――はその美貌を歪ませながら腹心たる陸遜に問う。
「はい。尚香様の護衛ということで周泰ちゃんを呼べたのは僥倖でしたね。
彼女、どうやら穏行ではかの張家すら出し抜けるようですから。抜き取った情報は確かかと思いますよ?」
くすり、と応えるは白皙の美女――陸遜――である。
南部では珍しく白い肌を惜しげもなく晒すその衣装はいっそ扇情的と言っていいものであろう。
しかし、ややもするとぽわわんとした表情に覆い隠されてしまうが、その眼には確かな知性の煌きが散華している。
「姉さまにも困ったものね、袁家と。よりにもよって袁家と、ことを構えようだなんて。
本気云々の前に正気を疑うわ」
信じがたい、と孫権は天を仰ぐ。
手元には陸遜のまとめた報告書があり、それらが示すものはつまり。
「元々袁家の援助に頼ることすらよしとしなかった豪族も多いですしねえ。
まあ、利権をことごとく召し上げられてしまいましたから無理はないかと」
「にしたってここまで賛同者が集まるなんて……」
時勢が見えてないのか?と孫権は暗澹たる気持ちになる。
よりにもよって使嗾してくるのは、手を組むのは。
「十常侍と組むとかね。本当に正気を疑うわよ」
吐き捨ててため息を大きく、一つ。
「遠交近攻とはよく言いますが袁家は身近に感じる分、目の上の瘤と思う方が多いみたいですね。
虞翻さんの潔癖すぎる態度もそれを助長しているようです。
対して十常侍は……、洛陽は遠きにあり。悪評があるものの、袁家を除いた後は意向を無視すればいいというのが主流ですね。
こちらに対して、直接振るう武力も持ち合わせていませんし」
「それじゃ、結局孫家は賊上がりの成り上がりじゃない。いつまでたっても。
恩を仇で返して、いざ孫家の窮地に誰が手を差し伸べてくれるというの。誰が信義を通じてくれるというの」
いや、孫権とて分かってはいるのだ。
食うか食われるかという状況が身近であった江南の地においてはそれはきっと正しい。今日を生き延びるためにはきっとそれは正しいのだ。
だが、南皮に在りて。中華の秩序、何より袁家の凄味を知った身としては看過できない。
そのような煩悶を知ってであろう。あくまで陸遜はにこやかに孫権を見守る。言葉を促す。
「江南に戻るわ」
きっぱりとした声。何かを振り切ったような、決意した声に陸遜はその表情を綻ばせる。
「二郎は、如南へ赴くのでしょう?」
その言葉に込められた思いは、いかほどのものか。
「ええ。二郎さんは如南へ。
あの方はああ見えて、きちんとやるべきことからは逃げません。果たすべき責務は果たされます」
くすり、と漏らした笑みは妖艶ですらある。
その言に孫権は暫し瞑目する。
「ならば。私も逃げない。孫家の次代を担う者として責務を果たすわ。
穏、地獄の底まで付き合ってくれる?」
陸遜は恭しく一礼を。
「ええ、喜んでお供いたしますとも」
ですが、と言葉を続ける。
「二郎さん曰く、地獄の沙汰も金次第。
だ、そうですよ?」
その声に孫権は、ぷ、と吹き出す。
「もう、茶化さないでよ。でも、二郎らしいわね」
「はい。あの方らしいですね」
二人は軽やかに笑い合う。
盟友で、親友で、主従で共犯。
きっとその絆は、刎頸でも断たれることはない。
◆◆◆
実家に帰らせていただきます。
この言葉を放たれて平静でいられる男はいないであろう。
それほどの破壊力を持った言葉が浴びせかけられたから当然俺はエラーコード連発で固まるしかない。
「えっと、二郎?ちょっと?」
「……うい。二郎ですがなにか」
「もう、話を聞いていたの?」
ぷんすか。
全身で不機嫌になっちゃったわよ今の瞬間に、と主張するのは江南を治める孫家のご息女たる蓮華だ。
褐色の肌を惜しげもなく晒すその恰好には、いつもながら目のやり場に困るわー。マジ困るわー。
だって仕方ないから穏の、ねえ。暴力的な胸部に注目せざるをえないやん?
白い肌。
こんなに露出が多いのに、江南出身なのになんでそんなに白いのかという感じのおっぱいがぷるんと震えて俺を苛む。
うむ。ブラボー。おお、ブラボー……。
「二郎?聞いているのかしら?」
「もちろんだとも」
じと、とした蓮華の視線に極上の笑みで応えてやる。キラッ☆
「じ ろ う ?」
ゴゴゴという効果音が室内を揺らし俺を圧迫している、気がする。背負った圧力は流石に孫家の跡取り。
はい、ごめんなさい。
「で、何で江南に帰りたいの?」
一応、蓮華は孫家に対する人質という意味が大きいからうかつに動かせないのよ。まあ、目の前のご両人は先刻ご承知だろうけどね。その上での言だろうからね。
「あのね、二郎は知ってると思うんだけどね。一応私は孫家の次代の当主と位置付けられてるのよ」
知ってる知ってる。むしろ孫家を繁栄さすよね。知ってるよー。
「なのにね、あまりにも帰ってないな、って。
これじゃいざ孫家を継いでも家臣団や配下の豪族をきちんと御することができるのかな、って。
二郎が言ってたじゃない。段取り、根回しが大切って。
そういう意味でも一度江南に帰った方がいいと思うの」
ふむ。確かになあ。あっこらへんはごたごたしそうな土地柄だしねえ。
とは言え、なあ。安易には同意できない。
「二郎が孫家に信を置けないというのは、そうね。不本意ではあるけど……分かってるわ。
だから、と言うのも。そうね。こんなこと言いたくもないのだけれども。
シャオを私の代わりに置いていくわ」
常ならばそんなことを言わない蓮華の双眸はこの上もなく澄んでいて、どこか悲壮さすら。
「足りない、というなら祭も置いていくわ」
何でそんなに泣きそうな顔をしているんだと俺は言いたい。
きっと、身近な、親しい、大好きな人を道具として、交渉の材料として扱うわが身を呪っているのだろう。
「いいさ、許可しよう」
どうせ俺も、俺たちもそれどころじゃないしね。
いよいよ如南へ赴くのだ。けじめをつけにいくのだ。
そのタイミングで何か仕掛けてきそうな孫家を抑えることができそうだから。それでいいかなって。
……これで蓮華が孫家率いて攻めてきたら泣くけどな。
◆◆◆
「いや、よかったですねえ」
くすくすと笑みを漏らすのは陸遜。その声に呆れたように孫権は答える。
「穏の思い通りでしょ?今更何を言うのよ」
軽く苛立つ主。それに臆することもなく言葉を続ける。
「いえ、二郎様の動きは埒外ですから」
くすり、と笑う。
そして陸遜は思うのだ。袁家の配下である武家四家である紀家当主。その地位を継いだと思ったら中華を放浪する。半ば逐電したようなものである。
であるのに、帰参して何事もなかったかのようにその地位に納まるというのがありえないことだ。
しかも、だ。そんな型破りなことをして彼がその権勢を失ったという声は聞こえてこない。そう、驚くほどに聞こえてこない。
だが、驚くべきことは他にもある。
「それを言えば、二郎さんの動きを考えるだけ無駄とも言えますし、ね?」
「そ、そうね……」
可笑しげな表情を浮かべて見やる陸遜に孫権はたじろぐ。その目の奥の炎に。
「二郎さんの一手。それは本当に私も読み切れません。この中華で私が読み切れないと言わざるを得ないのはあの方くらいです。
ですから。ええ、ですから、蓮華様に二郎様を押さえていただきたいのです」
破格の才覚たる陸遜。その要望に孫権は苦笑する。
「分かったわよ。穏がそこまで言うのならばそうなんでしょう。
安心なさいな。勝ち易きに勝つ。それが孫家。始祖たる孫子の薫陶、そうでしょ?」
にこやかに陸遜は笑顔で応える。
「はい、道なき道を征きましょう。
凱歌を、孫家に。夢と希望と未来を蓮華様に」
覇気。この瞬間だけは、かの曹操をも上回るそれを纏って。
陸遜は、戦争の天才は笑う。
既に勝利は彼女の中では確定していた。
さあ、夢を見よう。
さあ、歌を唄おう。
さあ、楽曲を奏でよう。
さあ、踊ろう。
舞台は間近。
陸遜は笑う、嗤う、哂う。
如何様にも踊ろうと。
きっと舞踏相手はあの青年だ。肌を重ねても、情を交わしても読めないあの青年だ。
漢朝の闇などよりもよほど面白い、怖い。
執着はもはや恋着と等しい。
それを自覚しながら、軽やかに笑う。
「ええ、蓮華様。二郎さんを、あの埒外な方と渡り合えるのは孫家において蓮華様のみです。
ですから、ええ。ですからこそ。今この瞬間のご決断に穏は心服いたします。
ええ、地獄と言わず、因果の地平までお供しますとも」
にこやかに、軽やかに口にする思いを孫権は過不足なく受け取り、顔を引き締める。
思い浮かべるのはあの青年。
締まりのない表情、冴えない顔つき。
だらしのない視線は助平で、どうしようもなく。
でも。
その心胆を。凍てつくほどの心胆、覚悟。それを自分は知っている。
だから、やるべきことをする。
孫家の担い手として相応しいように。
そして、あの青年に笑われない自分であるために。