汚泥
洛陽。
400年にわたりその命脈を保っている漢王朝の首都である。
その中心の禁裏こそはこの中華の中心であり、魑魅魍魎が闊歩する伏魔殿である。
現在その主たる皇帝は病篤く、実権は大将軍たる何進が握っている。
「肉屋の倅」と蔑まれているがその手腕は確かであり、現在漢王朝を実質的に支えているのは彼とその一派である。
彼を敵視する十常侍すら手出しできないだけの権勢。そしてそれは時が進むにつれ確固たるものとなっていく。
そして今上帝の皇后は何進の妹であり、その嫡子は次期皇帝の最右翼である。
もっとも、その嫡子である劉弁の評判は必ずしも芳しくはない。
惰弱、優柔不断、怠惰。
対して対立候補である劉協の明敏さは知れ渡っている。
董皇太后が自ら教鞭を振るったとも言われており、心ある士大夫は劉協を支持している。
厄介なことに十常侍も劉協を支持しており、後継争いは混迷している。
で、あるから清流派とも呼ばれる士大夫の一派はどちらに与することもせず静観している。
何進の勝ちは見えてはいても、庶人と侮った男におもねることは彼らの自尊心が邪魔をし、むしろ劉協を支持することを理由に十常侍に与する者も少なくなかったのである。
それが一変したのはやはり袁家の影響力であろう。
四世三公という名門の血統、抱える武力、名声。
その名門が何進と組んだのである。
元々目端の利く士大夫は何進の有利は予見していた。が、自尊心が邪魔をして勝ち馬に乗ることができなかったのである。
それが、あの名門の袁家が膝をついたのだ。
雪崩をうつように膨れ上がる勢力に何進は笑いが止まらない。
だが、と華雄は思うのだ。
「何か言いたげだな?」
それを見透かしたように何進は問いかけてくる。
自らの抱える疑問を上手く言葉にできるであろうか。そんなことを思いながらも華雄は口を開く。
「は。いささか疑問があります。
今上帝の後継たるは劉弁皇子と劉協皇子。しかるに、その素質を比べると、その……」
流石の華雄も言葉を濁す。
考えてみれば、目の前の男の甥にあたるのだ。
「く、ハ。何を言うかと思えば。くだらん」
ばっさりと切り捨てるその言葉に華雄は首をかしげる。
「劉協が小利口であるというのは知っている。
が、それがどうした。
皇位を継ぐのは我が甥劉弁だ。それはもう決まっている」
にやり、と獰猛な笑みを見せる何進。
「む。だが……」
「劉弁にはろくな噂はないだろうからな。
だが、それでいい」
華雄は流石に言葉を喪う。
「あれが自分の判断すらできん愚物であるのは確かだ。
俺がそう作り上げたから、な」
ニヤリ、と笑う何進の凄味。
華雄は戦慄する。絶句する。
そして、その言葉の意味を理解し、自失。
そして激発。ほとばしる激情。
「な、何とおっしゃるか!漢朝を背負う方を愚物に仕立てたと、そう、おっしゃるか!」
その声に何進はそれでも応えるのだ。
静かに。笑みをたたえて。
「ああ、そうだよ。その通りさ」
何進が漏らした言葉。それに華雄は激昂する。
その様子に何進は笑みを深める。
「だからお前は阿呆なのさ」
ククク、と笑いながら、どこか興に入ったのだろう。声を上げて笑う。
愉快そうに、楽しそうに。
「む、貴方はそうやっていつだって私を馬鹿にして!」
漏れる声には悲痛さすら漂う。
「はは、よくもまあ、恥を晒すな。
だが貴様はそれでいいのさ。それでいいのだよ」
何進のその言。それは彼女を軽んじるものだが、その表情はそうではなかった。
「俺はこの漢朝を立て直す。それは旧態依然な士大夫どもには無理なことなのさ。
当然反発もあるだろう。
だから権力が必要なのさ。
だから俺は劉弁を愚物にしたのさ。
……あれで可愛い甥だ。排除したくはないからな。
そして、あいつはあれで弁えているぞ?
あれを愚物、と言う奴こそ哀れさ。
あれはあれで俺の甥だ。いざとなれば。いや、これは俺の言うべきことじゃあないだろうな」
いつになく上機嫌な何進に、華雄の戸惑いは深まる。
「劉協は確かに傑物かもしらんな。だが、まだ未完の器よ。それに惹かれるのもいいさ。
が、あまりに潔白だ。そしてあまりに露骨だ。
ああ、それはいい。いいんだ」
何進はニヤニヤとしたその笑みを深める。
「ただ、俺を敵としてしまった。これはいかん。いかん。
これは流石に致命的だったな」
肉食獣の笑み。
捕食者の笑み。
「どうせ劉協には未来はない。
どうせなら俺が引導を渡してやるのが慈悲というものさ」
「む?」
「カハ、劉協は有能さ。英傑たる素質もある。
だがな、誰がそれを望む?
万が一に俺を謀殺して権力を手にするとしよう。
ならば次は十常侍と争うだろうさ。
あの坊やは有能すぎるからな。あれはいかん。直に十常侍と食い合うだろうさ」
ククク、と愉快そうに笑う。
「十常侍に勝ったとして誰が付いてくる?
は、誰もいないさ。
いっそ哀れというもの、さ。
あれはきっと、理想に囚われて溺死するだろうな。
漢朝、いやさ。この中華を道連れに、な」
かか、と高らかに笑う。
「だから劉弁は愚鈍でいいんだよ。何事も自分で決められず、右往左往し、俺に裁可の是非を問う。
それでいいんだよ」
例え自分が退場しても、その特異性故に最後まで生き残るであろう。
漢王朝の権威を継承するために。
「クク、俺らしくもねえ。
淀んで、腐って、無能の極み。
時代の流れを分からん士大夫などには世を任せられるかよ。
クハ、笑わせるな……!」
高らかに笑い、気炎を吐く。
「は!は!
もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ俺の思うように世は動くさ。
ようやく、ようやくだ……」
気炎万丈とはこのこと。さしもの華雄も、以降口を挟むことはできなかった。