その頃の涼州:詠ちゃん奮闘記
「うわあ、まだあるのか……」
戦場では怖いものなしの馬超がぐったりとする。
それは彼女の知らなかった戦場。知りたくなかった戦場。
求められるのは膂力などではない。
「そりゃあ、あるわよ。
涼州全部の決済書類だもの。
並べたらば、その上で練兵でもできるんじゃないかしら?」
うへえ、という馬超の声に目もくれずに目の前の書類を仕分けている賈駆は手元の湯呑み――どっかの凡人から贈られたものである――を手に取り、冷め切った茶――これもどっかの凡人から贈られたものだ――を口にする。
「いや、そりゃそうか。そうだよなあ。
凄いな、父上はこんなに大変なことをされてたのか……」
「そうよ。それが州牧の務めだもの。
というかね、邪魔しにきたのか手伝いにきたのかはっきりしてほしいんだけども」
その声の尖り。さしもの馬超もたじろぐほどである。
「まあ、興味を持つだけでも大きな進歩じゃないかなってたんぽぽ思うのー」
「それを進歩と言ってしまうところも問題だとボクは思うけどね、ほんと」
助け船を出したのは馬岱である。彼女はちょくちょく顔を出して賈駆の手伝いをしていたので、軽口をたたいても許される。許された。
「うう、だって邪魔だって言ったのは詠じゃないか」
「だって邪魔だもの。本当に邪魔だもの。
翠がボクの手助けになるとすればね、今すぐにここから立ち去ることくらいよ」
「そりゃないだろう!
何か手伝えることがないかって思ったのに!」
「あれば言ってるわよ。
というかね、翠のできることを考える時間だって惜しいのよ。分かる?
分からない?分かってくれたら助かるんだけど」
「な、なんだとう!
それじゃ私が役立たずみたいじゃないか!」
そう言ってるんだけどな、と開いた賈駆の口に押し込まれる饅頭。
「む、ぐ!」
抗議の声を馬岱が遮る。
「はいはい、ちょっと一休みだね。ほら、お姉様もこれ食べて?
間食としてどうかなって」
差し出された饅頭を馬超も手に取る。
「ほう、甘い。美味いな」
「でしょ?結構日持ちもするんだって。
書類仕事に疲れた時にはいいかなって」
殺伐とした空気を散らして馬岱は伸びをひとつ。
彼女も別に書類仕事が好きというわけではないのだ。
「にしてもお姉様、詠姉様に任せたって言ってたのにどうしたの?」
「い、いや、あのだな。
流石に任せっきりはよくないかなーとか思ったり」
「ああ、叔父様に実務のことを聞かれてもぜーんぜん分からないもんねー。
別にいいと思うけどなー。
苦手だから詠姉様に任せっきりだって……痛い!」
ごちん、と鈍い音が響き賈駆が柳眉をひそめる。
「ちょっと、翠!
視察にしても手伝うにしても、本格的に邪魔になってきているわよ?」
「あ、いや。
そんなつもりはなかったんだ。
すまない」
その言葉にやれやれ、とばかりに賈駆はため息を一つ。
「謝る相手も内容も違うと思うけどね。
いいから遠乗りでも行ってきなさいな。
馬騰殿には翠が内勤にも興味を持ったとでも報告しとくから」
しっしとばかりに手を振る賈駆に馬超は頷く。
「う、うん。わかった。
ちょうど黒毛の若駒がいい具合でさ。ちょっといってくる!」
いい笑顔で去った馬超に賈駆は苦笑する。
「詠姉様、ごめんなさいね?」
「たんぽぽが謝ることじゃない……こともないか。
大変ねえ、ほんと」
「んー、そうでもないよ?」
笑う馬岱に賈駆はやれやれ、と首を振る。
「いいけどね。翠に向いてないのは確かだし、ボクが取り仕切っているのもほんとだしね」
涼州の利権から董家に便宜を図っているのは確かであるし、それを隠そうともしていない。
もっとも、それを認識しているのは目の前の馬岱だけであろうが。
「まあ、詠姉様が助けてくれて本当によかったよー。
ほーんと、お姉様だけじゃこの涼州は立ち行かなかったもの」
「へえ、それが分かるなら……」
「あー、たんぽぽには無理ですー。分かるのとできるのとは違いまーす」
「へえ?」
ニヤリ、と捕食者の笑みを浮かべた賈駆に馬岱は満面の笑みで応える。
「やりたいこと、できること。やらなきゃならないことって全然違うしー。
たんぽぽはできることを精一杯頑張るだけでーす」
「へえ。言うじゃない」
「まあ、これ二郎様の受け売りなんだけどね?」
「へ?」
にしし、と馬岱はほくそ笑む。
「二郎様がね、言ってたの。
愛しの、二郎様がねー」
「だ、誰が愛しのか!」
「えー?たんぽぽが一方的に懸想してるだけなんだけどなー。
なんで詠姉様が怒るのかなー不思議だなー」
「ああもう!
そんなとこまで、あいつに似なくていいのにもう!」
「あー、顔、赤いんだー。
それってば、惚れた弱みってやつなのかなー?」
「どういうことよ、もう」
にひひ、と笑う馬岱につられて賈駆も苦笑する。
「ま、あいつはどうしようもないからね、おすすめはしないわよ?」
「えー?そうかなー?
たんぽぽわかんなーい」
「いや、だからね、あいつはね……」
彼のことを語るときに緩む口元。
それを自覚してないのだなあ、と馬岱は思う。
微笑ましくあるのだが、ちくりと胸が痛むのは実に不可思議なことである。
まあいいや、と馬岱は曖昧な笑みを浮かべるのであった。