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涼州にて:支える人たち

「呆れたわね……」


 賈駆が執務室に所狭しと積まれた書類を見た感想である。そりゃあ、申請した書類の裁可が下りるのに半年かかるわけである。

 いや、むしろ半年でよくも裁可が下りたと思うべきであろうか。


「正直、ひどい状況よね」

「そ、そんな言い方ないだろう」


 抗弁する馬超の声にも常の力強さはない。彼女とてこの惨状は理解してはいるのである。処理はできないのだが。

 その様子を見て賈駆ははあ、とため息を一つ。特大のものを漏らす。やれやれ、とばかりに。


「ま、いいわ。そのためにボクが来たんだもの。

 翠が内勤ダメダメだなんて分かりきっていたことだものね」

「な、なんだとう!」


 負け惜しみよね、とばかりに馬超の鼻面をぴしり、と一つ。

 漏らす笑みはいっそ慈愛。


「こんだけ政務を滞らせておいて、よく言うわよ」

「ぐ!」


 これには馬超も言葉を失う。それを責めずにさらりと言の葉を紡ぐ。


「ま、いいわ。それだけ元気があれば十分。

 馬車馬の如く働いてもらうからね」


 ニヤリ、とした視線。馬超は背筋を凍らせる。その視線の後に来るものを知っているから。かつて味わったから。


「ままま、任せてくれ。あたしにできることならなんだってする」

「お姉さまうろたえすぎ。軽々しくなんだってとか言わない方がいいと思うなー」


 これまで無言で控えていた馬岱が嘆息する。身振りも大袈裟に空気を変えようとするその言動。賈駆はそれ視野に収め、いったん矛を収める。


「はいはい、そんなに怯えるほど当てにはしてないわよ。

 ただまあ、とりあえず州牧の印綬をボクに預けなさいな」

「はあ?できるわけないだろそんなの! 

 それはあたしが父上から預かったんだ。どうしてそれを!」


 一気に激昂する馬超。彼女からしてみれば当然の反応である。敬愛する父から預けられたのだ。彼女を認めたからこそ預けてくれたのだ。

 それをどうして他人の手に委ねることができようか。


 だがそのような反応は賈駆にとって想定内だったのだろう。

 特に慌てることもなく、淡々と――不気味なほど――言の葉を紡ぐ。


「そうね。馬騰様から翠が預かった。であればそれから先は翠の判断よ。

 さて、馬騰様は翠が印綬に執着することを望んでいたのかしらね?

 印綬を預ける、託す。その意味をもう少しきちんと考えた方がいいんじゃないのかしら?」

「な、なんだよ!どういう意味だよ!」


 内心賈駆は苦笑する。問いかけに対してのっけから正答をそのまま相手に求めるとは。

 いや、と思う。

 かつての自分ならばこの応対に激昂していたろう。不思議と心に余裕がある。

 これがあの男の影響だとは思いたくない。ないったらない。


「少しは自分で考えなさいよ……。

 ま、いいわ。

 涼州は翠に預けられたのよ?

 で、あれば涼州のためにその権限を使うべきでしょ?」

「な、なにを言っている!」

「あー……。うん。そっか。そうよね。

 つまりね……。だからね。翠が涼州について最高権力者でしょ?

 だったら涼州のためになるならその権限の委譲もアリってことよ」


 一瞬くじけそうになりながらも賈駆は説得を持続する。

 この程度の難航さは想定の範囲内であるからして。


「で、でも流石に印綬を預けるってのはまずくないか?」

「まずいかどうかというのは誰が判断するのかしら」

「そ、そりゃあ父上だろう……」


 馬超の言にフフン、と賈駆は笑みを漏らす。


「それが駄目だっていうのよ。いい?翠は馬騰様に叱られることを恐れて最善手を打っていない。

 涼州の現状をなんとかするためにはボクに印綬を預けるのが一番いい。ここまではいい?」

「う、うん」

「だったらね。権限の委譲も含めて翠は全権を握っているのよ」

「うん?」


 なんと思いを伝えることの難しさよ。そしてここからが本番。賈駆の本気である。腕の見せ所である。


「涼州の全権を握っているというのよ、翠は」

「う、そうだけど」

「それはね。涼州に何かあったらその責を担うということよね」

「もちろんだ!」

「じゃあね。何も起こらずに涼州はこのままでいい、と思うの?」


 いっそ賈駆の眼差しは優しくて、それは馬超の心を何故だか苛む。


「う、それは。それは……わからない」

「そうね。翠は分からないでしょう。

 だからね。ボクが預かるわ」

「でも!だってそれは!」

「そうね。でもね、翠には州牧の政務を担うには足りないでしょ?」


 何が、とはあえて言わない。


「う、うるさい!あたしが父上と比べて足りないってのは分かってるんだ!

 でも!

 これでも頑張ってるんだ!」

「そうよね。翠は頑張っていると思う」


 その声に馬超は、ほ、と表情を緩めるが。


「でもね。このままじゃ涼州は駄目になるわよ?

 翠も分かってるでしょ?」


 うう、と唸りながらも馬超は抗弁しない。


「だからね、翠の力をボクも借りたいの。

 翠の力はキミが思うよりももっとすごいんだからね」

「……きゅ、急にそんなこと言われても……」


 誉められることに慣れていない馬超の逡巡に賈駆は笑みを深める。優しく、慈母のように。それを馬超が求めていることを知って。


「ボクが何とかする。涼州をの惨状を何とかする。

 だから、ボクを信じて?

 あの何進大将軍と、一緒に向かい合った時のボクを信じて?」


 賈駆は切り札を切る。かの反乱においてもくつわを並べたという切り札を。


「う、うん……。

 詠は、詠や月、恋はあの時も味方だったもんな。見捨てなかったもんな。一緒だったもんな。

 ……うん!分かった!」


 何か吹っ切れた笑顔で肌身離さずにいた印綬を賈駆に手渡す。


「よし、任せなさい。後悔はさせないわ」

「うん!頼んだ!」


◆◆◆


「しかしあれだよねー。

 たんぽぽもびっくりしちゃった」


 ずず、と茶を啜りながら馬岱は執務室を見る。

 賈駆が君臨して数日しか経っていないにも関わらず、未決済書類は大幅にその版図を狭めていた。


「まあね。ボクが本気になったらこんなもんよ」


 その声はいっそ淡々としていて、自らを誇る色はない。


 馬岱は改めて思う。変われば変わるものだと。かつて轡を並べた時の彼女はもっと狷介であったのだ。その神算鬼謀は馬騰や韓遂をして唸るものであり、かつての涼州軍の快進撃の一因となっていた。

 だが、その狷介さにおいても比類なく、よく揉め事を起こしていたものだ。

 そのことにおいてはあの馬騰ですら苦虫を噛み潰したような顔をしていたものだ。


「うわー、自分でそれ言っちゃうんだー。

 でもまあ反論できないなあ。

 正直たんぽぽお手上げだったもんね」

「まあ、予想通りとはいえ、ちょっとひどかったわ」


 苦笑する賈駆。

 ここまで圧倒的な速さで未決裁書類が減ったのは、やはり州牧の印綬を確保したことが大きい。彼女の一存であらゆることが即断即決できる。まさに虎が翼を得たようなものだ。

 初手にて印綬を馬超の手から奪えたのは大きかったな、と賈駆は思いを馳せる。まあ、実際彼女がやったのは詐欺に近い。口先のみで馬超から印綬を巻き上げたのだから。

 しかし賈駆はそれに対して一切後悔もしなければ、後ろめたい思いも抱いていない。彼女が紀霊に本気を出すと言ったのは嘘偽りではない。涼州を掌で転がすというのも、成算と覚悟あってのこと。


「だからね。ボクがいる限り韓遂の好きにはさせないわ」


 韓遂と決別し、背後の十常侍すら相手取りその智謀の限りを尽くす賈駆。

 それは涼州の機能回復を越えて。韓遂、あるいは洛陽の十常侍にまでその手を伸ばしつつある。


「そうね、あと三月もあれば、韓遂に頭を下げさせられるわよ?」

「え!ほんとに?」


 ニヤリ、と微笑む賈駆。

 涼州の運営をする中、様々な方策で韓遂の統治に妨害を加える。些細な書類の不備、誤字、脱字、ありとあらゆる難癖をつける。

 嫌がらせのレベルを越えはしないが、賈駆の圧倒的な処理能力、州牧の権限をもってそれを徹底すればもやはそれは弾圧に等しい。そしてそれは通常業務に余裕が出れば出るほど加速するのだ。


「ええ、誰に喧嘩売ったかを思い知らせてやるわよ」

「わー、頼もしいなあ」


 冷や汗をかきながら馬岱は引きつった笑みを浮かべる。

 そしてこの人を敵に回してはいけないな、と心に刻む。


「フン、本来ね。州牧ってのはそれだけのことができるんだからね。

 翠はちょっと要領が悪すぎなのよ。

 ま、ボクに任せときなさいな」

「よろしくおねがいします……」


 こんなにも頼りになる人材を味方につけてくれた青年に感謝しよう。

 持ち前の前向きさで馬岱は気持ちを切り替えるのだった。


◆◆◆


「そう言えば二郎さま、漢中に向かったんだっけ?」


 ふと、意中の青年に言及する。そう言えば賈駆は途中まで同道していたのだった。


「え?二郎?うん、そうね。そうよ。そのはずよ」


 どことなく慌てた風な賈駆。ん?と馬岱は何かを察知する。してしまう。


「二郎さま、また武威に来てくれたらよかったのになあ」

「ざ、残念だったわね。まあ、二郎もあれで忙しいみたいだったし」

「そうだよねー。だからこそ次いつ会えるかなーって」


 うむ。これは。

 馬岱は内心でほくそ笑む。これはからかい甲斐があるな、と。


「いいじゃない、あんなの。

 ボクもいつ、あいつが月にちょっかいかけるか気が気じゃなかったわよ。

 あの助平、見境ないんだから」


 くすり、と笑いながら馬岱はなぜかちくり、と胸に痛みを覚える。


「うんうん、二郎さまって助平だよねー。

 目線とか露骨だしね」

「そうなのよね。まったく……。

 もうちょっと自重してほしいわよ。

 見境ない助平なんだものね」


 どうやら、口ぶりからして深い関係なのだな、と理解する。


 ちくり。


 再び走る痛みを無視することにする。

 それよりも、いささか不安定な二人の関係をどうにかする方がいいだろう。

 縁の下の力持ちを。彼は、あの人はきちんと評価するはずだ。

 

「そうそう、二郎さまってほんっとに露骨だよね」

「そうなのよね。まったく。

 手が早いにもほどがあるわよ」


 その言葉に馬岱は確信する。なにか、もやもやを感じながらもそれを無視する。無視することにする。


「えー、二郎さま。助平だし、視線がやらしいけどそんなことないよ?」

「え?何を言ってるのよ。あの二郎よ?」

「うん。だってたんぽぽ結構本気で何度も迫ったんだよー?

 でも袖にされちゃったんだよねー。

 自信なくしちゃうなー」

「へ?そ、そうな……の?」


 徐々に頬を染める賈駆。馬岱は追い打ちをかける。


「うん。おじ様もね。後押ししてくれたんだけど、たんぽぽもお姉さまも玉砕って感じ?」


 くすくす、と笑う馬岱に賈駆は混乱する。彼女の目から見ても馬岱は文句なしに美少女である。

 若駒を思わせる快活で明朗な容貌は実に魅力的なものであり、馬超は爽やかな色香すらあるというのに。

 あの男が食指を動かさないわけなどないはずなのだ。


「だからー、ちょーっと羨ましいなあ」


 賈駆は顔を真っ赤にして沈黙してしまう。紀霊とは利害関係のみの関係のはずだ。そのはずだ。そのはずなのだ。

 身体を重ねたのも、まあ、一時の気の迷いはともかく。それ以降は董卓たちに累を及ぼさないようにしただけであって。そこに気持ちなどなかった。そのはずだ。そうであったのだ。

 それだから、紀霊も強引にこの身を蹂躙したのではなかったのか。


 まさか、より利用価値のある馬家の令嬢二人を袖にするなど。それではまるで。

 まるで、本当に、利害関係など関係なく口説いたようではないか。

 思考が深まるほどに自縄自縛。


「いいなあ。たんぽぽも二郎さまのお情けがほしいなあ」


 くす、と馬岱はほくそ笑む。これはこれで内助の功になるであろう。きっと彼への援護になるであろう。

 お気楽に、へらへらと笑うあの青年は単身で涼州に乗り込み、漢中に、五斗米道に向かうほどに背水の陣であるのだろう。

 最初は打算、そしてからかい、冗談。

 だがしかし、本日この瞬間に馬岱は自覚した。


「これが、惚れた弱みって奴かあ

 もう、手遅れだよね。これ」


 その呟きは頬を染めて何やら思索にふける賈駆の耳に届くことはなかった。

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