はわわとあわわ:楽進チャレンジ
「もうすぐ、南皮だぜ!」
どことなく浮き浮きとした声で男は道連れたる幼女に声をかける。
応じる声は、ない。
「はわわ……」
「あわわ……」
にやり、と男は笑う。
初めて南皮の門扉を潜る人は揃って驚愕するのだ。
「あわ……、朱里ちゃん。なに、あれ……」
「雛里ちゃん……、あれは、あれはいけない。いけないよ……」
二人が驚くのも無理からぬこと。
南皮は三重の空堀に囲まれ、その門扉は鋼鉄で巨大。
何よりも。
「雛里ちゃん……。死角がないよ……。
どこから攻めてもあの投石機に、弩に殲滅されちゃうよ……。
そもそもあの門扉は文字通りの鉄壁……」
絶望。
諦観。
かの伏竜鳳雛をして、心が砕かれるような要塞がそこにはあった。
「はは、すげーだろ!すげーよな?」
陽気に男が声を上げる。
「何回見てもすげー!っは!っか!
かっけー!これでこそ、これが南皮だ!」
そのような戯言など意識の外で。
「何、あれ。何なの?」
諸葛亮の呟きにつられたように、鳳統も言葉を失う。
金城鉄壁という概念を具現化したようなそれ。
伏竜、鳳雛という英傑をして絶望すら抱かせる威容を南皮の城壁は誇っている。
彼女らは目の前の景色を盤面に変換し、幾度も攻めかかる。結論は無情。
「はわわ……力押しは、無理だね……」
「あわわ……きっと外部と連絡する手段があるから、そこを突くしかないよ……」
いささか物騒な会話は浮かれた男には察知されない。
それは幸か不幸か。
そして至る。
「ねえ、一体どうしてこんな、こんな要害を造ったのかな……」
「あわわ……。朱里ちゃん、それ以上はいけない。いけないよ……」
「ううん、違うよ、雛里ちゃん。私たちはこういうのをありのままにその眼にしたくて旅に出たんじゃない」
「あわ……。でも、私たちでこれをどうにかできるのかな……?」
「やるしかないんだよ……。こんなの絶対おかしいよ。
どう考えても……。官軍を撃滅するためじゃない……」
彼女らの認識はある意味正しい。匈奴は騎馬にて奪い、ただ去るもの。それが常。
その認識を覆す大英雄――世界史に名を刻むほどの――が世に出るまでには千年の時を有する。
そして彼女らは知らないのだ。いや、それは当り前のことであろう。
東夷北狄を防ぐ武家の筆頭、袁家。
それがかつて匈奴に根拠地たる南皮まで侵入を許したなど。
若き当主が「魔弾の射手」と謳われるまでに至ったのは、その手に弓を手にするほどに追い詰められていたからなのだと。
「不敗」と謳われた軍師が徒手空拳で匈奴を血祭りに上げたのは本陣までその脅威が至ったからなど。
「星を砕く」とすら謳われた文家史上最強の当主が南皮の防衛戦で堕ちたなど。
それは知られてはいけない歴史である。秘された真実である。
英雄とは、負け戦でこそ生まれるものである。勝ち戦に英雄なぞ必要ないのだから。
「はわ……すごい……」
「あわ……」
雑踏の中佇む二人の幼女。彼女らは間違いなく圧倒されていた。それは初めての経験。
彼女らの知る大都市、その最大は襄陽である。そしてその襄陽も大都市であった。あったのだが、これほどの賑わいなどなかった。
もはや活気などと言うレベルを超えている。すわ、今日は祭でもあるのだろうかと思うくらいである。
そして理性は理解している。けしてそうではなく、日常がこれなのであることを。
「と、とにかくご飯、ご飯たべよう!」
「う、うん。そうしよう、朱里ちゃん」
とてとてと歩みを進める。きょろきょろ、と視線をあちらこちらに散らす姿はいかにもお上りさんそのものである。
見る人が見れば鴨が葱を背負って歩いているようにしか見えないだろう。
おどおど、と挙動不審なその様子はだからこそ余りにも無防備で。
「お嬢ちゃんたち!その様子じゃ南皮は初めてかい?宿の手配はまだだろ?こっちおいで!」
このような者を招きよせてしまうのは必然。
「あ、あわわ……」
ここは南皮。生き馬の目を抜く街。自然、こういった手合いも多くなる。
ぐい、と手を引かれて鳳統はたたらを踏む。
「ひ、雛里ちゃん……!」
咄嗟に親友の手を掴むが、悲しいかな膂力において勝てるはずもなく共に引きずられることになる。
このくらいの強引な客引きは常であるのか、周囲も特に気にする様子はない。
「ひ……」
既に二人とも涙目。激変する状況に混乱はいや増すばかり。そのまま連れ去られるかと思われた時。
「待てい!」
救いの神は降臨したのである。
「どこからどう見ても誘拐の現場にしか見えんぞ?」
はあ、とため息一つ。
場を緩ませながら目線一つで男を貫く。
貫く目線の持ち主、それは。
「げえ!楽進の姉御!い、いや、あっしはそんないかがわしいことはしていやせんぜ」
楽進。怨将軍たる紀霊に取り立てられた人物である。そしてその職務は治安維持。
その職務を果たす姿はまさに法治の化身。言い訳なぞ彼女の前では砂上の楼閣である。
そして彼女は裂帛の気合で問うのだ。その問いは圧倒的であり、卑小な偽証を散らし、消し去る。
「じゃあ、お前は一体何をしているのだ?」
「いや、宿も決めてなさそうだったので二名様ご案内しようかと」
「ほう。
そこのお嬢さん方、この男に宿の手配を頼んだのかな?」
楽進は涙目で震える幼女たちに声をかける。
二人はぷるぷると震えながら首を横に振り。
「ふむ。仕事熱心なのはいいがな、お前はどうも暴走するきらいがあると何度も言ったろう。
少しは周りからどう見られるかとか考えろ。
ひとまず、大人しく立ち去れ。悪いようにはせん」
「そ、そんな!今日まだお客さん引っ張ってけてないのに!勘弁してくださいよー!」
横暴だ!とわめく男にぎろり、と鋭い視線を向ける。
「ほう。威勢がいいのはいいことだ。だから聞こう。私が、私の判断で介入した。私の権限でな。文句があるなら聞こうか」
「や、やだなあ。文句なんてあるわけないじゃないっすか。
失礼しやしたー!」
脱兎。
男の姿が見えなくなったのを確認し、ふう、とため息を一つ。周囲は一時の静けさから再び喧噪に立ち戻っている。
恐らくは何と言うこともない日常。きっと夕食時に上る話のタネになる程度のことであろう。
ただまあ、当事者にとってはたまったものではなかったろう。
「大丈夫かな?二人とも」
「は、はわわ……。ありがとうございました……」
「あ、あわわ……。たすかりました……」
二人の謝辞に楽進は笑って応える。
「や、私の職責だからな。どうということもない。
市中見廻り組三番隊組長の楽進と言う。いや、災難だったな」
あいつも悪い奴じゃないんだがな、と楽進は苦笑する。
ただ傍目には、やってることは人さらいそのものだ、と。
まさかあれが本当に宿の客引きであろうとは初見では分かるはずもない。
そんな楽進を、どうして隊の長なのに組長なのだろうかと思いながら諸葛亮が口を開く。
いささかの疑念も持ちながら。
機をはかったように助けが入る……余りにも都合がよすぎる。これは、あるいは二重の罠なのではないかと。
「はわ、そ、それではこれで……」
「まあ、ちょっと落ち着こう」
その声にびくり、と身を震わせる。やはり罠か、ここに拘束して自分たちを粛清、或いは籠絡するのかと。
「その様子じゃ南皮は初めてなんだろう?お昼もこれからだろうし、よければ色々と教えてやろう。
なに、私の職責は道案内と苦情処理がほとんどだ。これも仕事のうちだ。遠慮することはない」
にこり、とした表情に諸葛亮は迷う。疑念はある。
が、周囲の様子を窺うにこの人物は信用してもよいようだ。
もちろん周囲全てが共犯という可能性もあるだろうが、無名の自分たちに用意した陥穽とすれば手が込み過ぎている。
故に、瞬間の判断においては自分をすら凌ぐこともある親友を頼る。
「雛里ちゃん……」
「うん、朱里ちゃん。お言葉に甘えよう」
そうして二人は大人しく楽進に先導されることになったのである。




