幼女同盟:そのいち 手習いことはじめ
「はあ、疲れたのじゃ……」
ぐったり。
そんな表現が似合う様子で袁術は卓に突っ伏す。
ぐしゃりと崩れる。
今日も今日とて勉学漬けである。彼女はそれほど勤勉という訳ではないのだが。
「うむ、今日はこれまでにするとしますかな」
好々爺然とした笑みを浮かべる講師を前にしては気を緩められるはずもなく。
どさり、と置かれた宿題に整った顔を大いにしかめる。
その地位を沮授に譲り、半ば隠居している田豊が主体となって組まれた教育課程はこの時代最高峰と言ってもいいものである。……その負荷も含めて。
どれだけ負荷があるかと言うと、かつて彼女の姉とその親友たちは幾度も逃亡を試みたほどである。成否については語られることもない些事であるが。
「うう、大概田豊も意地悪なのじゃ……」
ぶつくさとぼやく姿すら愛らしく感じられるのは彼女の天性の愛嬌というものであろう。
だがまあ、あれこれ言いながらもしっかりと出された宿題をこなす姿勢は綺羅星のような講師陣にも好意を持って受け止められている。
……それ故に指導に一層熱がこもるという結果をもたらしているのではあるが。
「はいはーい、お疲れ様ですねー」
ひょっこりと張勲が姿を現し、やや乱れた髪を梳かしながら蜂蜜水を準備する。
それを無言でこく、こくと飲み込み、大げさにため息をつく。
「ちょっと休憩してくるのじゃ……」
「はいはーい。今日はもうこの後のご予定はお夕食だけですから、ゆっくりしちゃってくださいねー」
「うむ。分かったのじゃ」
ぴょこん、と椅子から飛び降りて室を後にする。
心身共に疲労した彼女が向かうのはいつも同じ。
いや、疲れていなくとも一日に一度は訪れる。そんな彼女の秘密の癒し空間それは。
今現在絶賛放浪中の紀霊その人の部屋である。
とてとてと袁術は目的地に向かう。
勉学に疲れた後の午睡を彼の部屋で。……厳密に言えば彼の寝台でとるのが彼女の日課となっていた。
紀霊の寝具に包まれると、あたかも彼の腕に包まれているような安心感を得られるのである。
一日頑張った自分へのご褒美。自然と足取りは軽く、鼻歌すら口ずさむ。
ここは彼女にとってとても大切な、大切な場所。だから。
「なんじゃそちは」
で、あるから無粋な先客に対しての言葉が尖ってしまうのは致し方ないことであった。
「へ?あ、あれ?袁術様?」
戸惑う声の主はあたふたとしている。
椅子に腰かけ、卓に向かい何やらしていたらしいその人影の名を典韋と言う。
この人物を元々袁術は快く思っていない。自然、声も更にも尖ろうというものである。
「二郎の部屋で何をしておるのじゃ」
すわ、金目の物でも漁っていたのかこの泥棒猫!とでも言わんばかりの剣幕である。
「あ、はい。今日は午後にお休みを頂けたので、お勉強をしようと思ってですね」
「ふむ?」
見れば卓の上には硯と筆、それに何やら書きつけられた紙片が並んでいる。
「なんじゃ、手習いをしとったのか」
「はい。私には筆も硯もありませんし、その、陳蘭さまにはご許可頂いてるんですけど」
おずおずとした典韋に一旦矛を収める。
典韋の手元を覗き込むと、書きつけられた紙片は黒く染まっている。
「なんじゃ。これでは何を書いているか分からんぞ?」
「あ、これはいらない書類を頂いたんです。そこに練習してるんです」
こういう風に、と、比較的白い部分に文字を書き連ねる。
「何じゃこれは。まるで意味が分からんどころか読めんのう」
「あ、私の名前を書いてるんです。典韋と、流琉って」
「ほう?」
はにかみながら言う典韋の言葉に袁術は呆れる。
「全然書けておらんではないか」
「え?えええ?」
「ふん、全く書けておらんな。話にならんわ。ふむ、こう、こうかの。これでどうじゃ」
言って懐紙にさらり、と筆を走らせる。
「自分の名前くらいきちんと書けんと、二郎が恥をかくぞ?」
「あ、そうです!これです!教えてもらった私の名前です。
うわぁ、すごい……」
流麗な筆跡に感嘆の声を漏らす。
その賞賛の声に袁術は気を良くする。
「いいかえ?紀霊はこう、二郎はこう。雷薄はこう書くのじゃ」
「うわあ、すごいです!流石です!二郎様が誉めてらっしゃったとおりだ……」
ふと漏らした声に袁術が反応する。
「な、なんじゃ。二郎が妾のことを何か言っておったのか?」
「はい!すっごくお利口さんで、真面目で、頑張ってるって!私にも見習えって!」
にこにこと語る典韋の言葉に袁術は気を良くする。
「ほ、ほう!二郎め、よく分かっておるではないか。
ほ、他には?他に何ぞ妾のことを言っておらんかったか?」
周囲を秀才、異才に囲まれている袁術である。自らの至らなさは幼い身でも痛感している。
であるからこそ、最も身近である紀霊の言葉は例え伝聞であっても無視できるものではない。
それが自らを褒めてくれているとするならばなおさらである。
「はい!いつも袁術様のことはお褒めになってます!
えっと。お歌も上手だし、できないことはないんじゃないかって」
「じ、二郎め、中々殊勝じゃのう」
「でもお会いして私も本当にそう思います!
こんなに綺麗な字、見たことないですし、お言葉だってとっても優雅です!」
「そ、そうかえ?もっと、もっと誉めてたも?」
「はい!」
本心から自己を肯定されるということに彼女は飢えていた。
田豊も、張勲も彼女を誉めはする。だが前者は完全に制御された言動であり、後者は何だかいまいち真意がよく分からない。
いや、双方ともに愛情は感じてはいるのだが。
なまじ周囲に優れた人材がいるからこそ、彼女は自分に自信を持つことができていなかった。
「袁術様はすごいです!私なんてまだ読み書きもろくにできないし……。
せめて二郎さまが送ってくれたお手紙くらいは読めるようになりたいし、お返事だって書いてみたいんですが……」
苦笑を漏らす典韋に袁術は笑う。
「なんじゃ情けないのう。よいぞ、妾が読み書きくらいは教えてやらんこともない」
「え、ほんとですか?!」
「うむ。任せてたも」
「袁術様、ありがとうございます!」
輝かんばかりの笑顔に袁術の口も緩む。が。
「なんじゃ、よそよそしいのう。妾のことは美羽と呼ぶことを許すぞ?」
「え?私なんかによろしいのですか?」
「うむ。そちは二郎の配下なのであろう?二郎の配下は我が配下も同然じゃ!」
「はい!美羽さま!わたしのことは流琉ってお呼びください!」
「うむ!流琉よ、早速妾が教えてしんぜよう。墨を擦るがよい」
「はい!」
「どうせ二郎からの手紙も読めないのであろう?妾が読み聞かせて進ぜよう」
「わあ!ありがとうございます!」
きゃいきゃいと。
年相応に姦しい、そしてどこかずれたような会話。だがそれは双方にとっても掛け替えのないものになる。
片や利害関係などない同世代の友人などないに等しく。片や唯一の親友と生き別れており。
彼女らの絆は歴史の奔流の中でも決して切れることはなかったのである。