地味様の憂鬱:主従善哉
「白蓮ちゃーん、これ読んだー?」
「なんだ桃香、そんなに慌てて。
って阿蘇阿蘇じゃないか。もう最新号が出たのか」
政務の手を止め、親友の持ってきた雑誌を手に取る。
「あー、二郎め……」
やれやれ、と言った風に呟く。
「白蓮ちゃんこの紀霊さんとお友達なんでしょ?すごいなー!
すごいよね!単身で賊の根拠地に潜入してやっつけるんだもん!」
「いや、桃香、あのな?」
はしゃぐ劉備になんと応えたものかと公孫賛は逡巡する。
その間にも劉備は言葉を連ねていく。
「私も頑張らなくちゃ、って思うの。
もちろん白蓮ちゃんのお仕事のお手伝いってすごい大事なことだと思うんだよ?
でもこの紀霊さんって、とっても偉い立場なのにわざわざ地位を投げ捨ててるでしょ?
すごいなあ、って思うんだ」
畳み掛ける劉備に、公孫賛は苦笑する。
彼女は紀霊の為人を知っており、更には紀家軍の幹部であった韓浩が傍にいる。
であるから、紀霊の目論見とか、動機などは割と正確に理解しているのだ。
少なくとも公孫賛はそう思っているし、それは韓浩により肯定されている。
そして、紀霊はけして民草の為に、持っている地位を手放すような人物ではない。彼が流離うならば、それにはもっと根源的な理由があるはずなのだ。
ちらり、と隣で書類を処理する韓浩と魯粛に視線を向ける。
韓浩は相変わらずの無表情、魯粛もいつもながらの思わせぶりな視線で応える。
「ま、私らは自分にできることを頑張るしかないよな」
軽くため息をつき、劉備に苦笑と共に答える。
「そう。そうだよね。でも、やっぱり今以上に何かしたくなるよね。
そんな、わくわくする気持ちを貰えるってすごいことだと思うんだ!
この、紀霊って人はそういう、元気みたいなものをみんなに配ってると思うんだ。
私も、いつかはこんなふうにみんなに元気をおすそ分けできるようになりたいなあ」
劉備の言葉に公孫賛は苦笑する。そして親友の思いに感嘆する。だってそんなふうに考えたことはなかったのだから。
それを青い叫びと切り捨てることは容易だろう。
だが、自分はそこに至っているだろうか。などと思考の沼に嵌ろうとしていたのだが。
「お話し中失礼する。
こちらの書類に不備がある。改めてほしい」
常ならばそれで済む会話。済んでいた会話であり、やり取りである。
だが、暫しの逡巡。珍しく韓浩が言葉を連ねる。
「……遠く理想を見据えるのもいい。
だが、今は足元をしっかり固めるべき。
貴方の一挙手一投足で路頭に迷う民がいるというのは自覚すべき」
感情の動きなどない、淡々とした声が公孫賛の思考を遮る。
「あ、ああ。済まないな」
「いい」
簡素な、いつも通りの受け答えが公孫賛の胸に染み渡る。
そして至るのだ。分かるのだ。その一言の重さに、尊さに。これまではそんな、助言めいたことなんて一言もなかったのに。
そして苦笑する。真名を預けてもその名を呼んでくれないことに。でも、それは彼女らしいなと納得する。
「ありがとうな、韓浩」
無言で一礼するのみ。ある意味無礼でもあるのだが、それを受けた公孫賛は笑みを深める。
だって。彼女は知っているのだ。地味と言われようが、目立たない、日常を支える政務こそが民草の生活を支えるのだということ。
為政者が目立つということは、それだけ現状に問題があるということである。太守としての責務を、政務をこなしてきたからこそ、そう言える。
目前の親友と対峙して焦りがないとは言えない。
だが、きっちりと目の前の地味で、目立たなくて、誉められることなどない。そんな、苦役と言ってもいいものを積み重ねることが、きっと正道なのだ。
これが州牧になればなおさらであろう。民と接点などなく、失点のみで語られる。
そんな修羅の道。
「上等じゃないか」
公孫賛はそれでも苦難の道に踏み込むのだ。だって、友人の袁紹は既にその身をそんな苦界に沈めている。
曹操はこれから挑むのだろう。
……劉備はまだその困難すら知らず。
「いやあ、太守でこれなんだ。州牧ってのはもっと大変なんだろうなあ……」
誰に向けての言葉か。本人すら分かっていなかったろう。
彼女はそんな人生をその手で選んだのである。
そして、困難、波乱と向かい合うことになるのだ。彼女らしく、地味に、誠実に。それを普通のこととして。
◆◆◆
「すまんね、桃香ちゃん」
「ううん、いいの!
またなんかあったら言ってほしいな!」
紀霊が阿蘇阿蘇のような媒体を使い、言わば空中戦で声望を高めているとすれば、対照的なのは劉備であったろう。
「あ、おじさん、ごめんねー、この間言ってた橋なんだけど、すぐには無理みたい」
「いいよ、桃香ちゃんのせいじゃない。謝ることなんてないさ」
民の話を聞きまわり、要望を太守たる公孫賛に伝える。
「大徳」
礼金も受け取らず、無給で尽くす彼女を表する言葉である。
その声望は今や襄平のみならず幽州全域に広がろうとしていた。
そんな、日ごろは太陽のように暖かな笑顔である劉備は珍しく顔を曇らせていた。
「むー、どうしたらいいのかなあ」
「どうしたい桃香ちゃん、珍しく考え事かい?」
「おじさん、ひどいなあ。私だって色々考えたりするよー」
「はは、そりゃすまんね。で、どうしたんだい?」
「うん、私ね、白蓮ちゃんにお世話になってるでしょ?
色々と教えてもらっているし、どうやったら恩を返せるのかな、って」
どうしたらいいのかな、と人に問うことができるというのは彼女の器と言っていいだろう。
そんな彼女に答えをもたらしたのは、一人の兵士の呟きだった。
「そういや、太守様、自分が地味だって気にしてたよ?
ほら、剣なんかも普通だし」
逡巡は一瞬である。
◆◆◆
「白蓮ちゃん、これ、役立ててほしいの」
差し出したのは靖王伝家。
劉備が中山靖王こと劉勝の血統であるという証の品である。
「いやいやいや、これは桃香にとっても特別大事なものだろう。受け取れないよ」
「いいの。私よりも白蓮ちゃんの方が役立ててくれると思うの。ね?」
押し問答の末、公孫賛は剣を受け取ることになる。
劉備は満足そうに頷くとその場を去る。
残された公孫賛は、どことなく嬉しそうにつぶやく。
「まったく、桃香め。
ほんとに、ほんとにお人よしなんだから」
嗚呼、親友には感謝を。これは紛れもなく宝剣。
それを惜しげもなく自分の権威付けのために譲ってくれるなんて。
「私は、いい友人を持った」
彼女が傍らにいれば、地位と共に得る孤独からも無縁ではないだろうか。
そんなことを思いながら公孫賛は手にした剣を抜き、曇り、欠けを点検する。
いざとなればこの剣一振りのみで匈奴と向かい合うかもしれないのだから
◆◆◆
「というわけで伝家の宝剣をくれたんだ。
な、桃香は韓浩が思うような奴じゃないだろ?」
嬉しげに語る公孫賛。対する韓浩はあくまで平淡な声で応える。
「再度確認する。貴女はそれを帯剣するのか」
「そりゃ、そうだろ。私だって軍の威儀とか気にしてるんだぞ」
「即刻処分することを進言する」
その言葉、流石に公孫賛は激怒する。
「お前は何を言っているんだ!
これは、この剣は、畏れ多くも中山靖王劉勝様が遺された宝剣だぞ!
それを処分とかどういうことだ!」
公孫賛の怒気。その剣幕に韓浩は小揺るぎもせず、淡々と言の葉を紡ぐ。
「剣とは権威。それを他者から委ねられるというのが問題。
特に劉備は貴女の食客以下でしかない。
そんな、取るに足らない存在から貰ったものを権威の象徴とするべきではない。
貴女の権威を担保するのが、劉備であるとするようなもの」
韓浩の言葉に公孫賛は言葉を失う。
「太守たる貴女の権威を担保するのであれば今上帝が相応しい。
謙虚と卑屈は全く違う。
貴女は既に権威を発信する立場」
韓浩の言葉は淡々としており、公孫賛は一時の激情を収めるしかない。だが。
「で、でも!桃香はとても大事なものを私の為にくれたんだ!」
それでも、彼女の思いを無下にしたくないと思うのだ。
その思いを込めた言に韓浩は応える。あくまで淡々と。
「剣自体の価値を否定するつもりはない」
「へ?」
「使い様、ということ。無論これは私の私案。
貴女にはそれを却下、除外する権限がある」
「つまり、どういうことだ?」
問う公孫賛に、韓浩は応じる。彼女にとっても正念場ではある。
下手をすれば首と胴が舞うだろうからして。そしてそれは公孫と袁家の決別すら意味するのだ。
それでも、否。だからこそ最善を尽くす。
だから、見過ごせないのだ。見過ごさないのだ。
「貰う剣の価値はいい。
だが、貴女が優先しようとするのは誰だろうか」
韓浩の言葉は淡々としており、それが故に公孫賛の胸に響く。
「恩と言うのであればそちらを優先すべき。
貴女の存在は既に中華の行く末にも影響がある」
数瞬の忘我。そして公孫賛は笑みを浮かべる。だって、これまで彼女がここまで主張することはなかったのだから。
「はは、私なんかに過ぎたる評価だな。
でも、ありがたく思うよ」
その言葉に韓浩が異を唱える。
「齟齬がある。そう思う。認識の差、それはやがて致命的になる。
今のうちにそれを是正したい」
韓浩の言。公孫賛に否やはないのだが。
「そうか?
お前の言う事だったら大丈夫だと思うんだけどなあ」
韓浩の眉間の皺が深まる。
「そういう態度がよくない。貴女には袁家のような譜代の家臣はいない。
寄ってくるのは栄達を願う有象無象。それを遣えるようにするのは無理難題と言っていい。
それでも、貴女は信頼されている」
その重要さを思ってほしいと言外に語る。
「そうか。そうなのか。
でもな、私が有り難いと思うのはさ、韓浩の言葉さ。
韓浩がそこまで言葉を連ねることはなかったもの。
だからこそ、その言は重要なのだと思うよ。思うさ」
鉄面皮、と言われる韓浩の頬が染まる、朱色に。かすかに。
それを。その思いを大事にしよう。したい。
でも、相変わらずだな、と公孫賛は思った。