その頃の南皮:放浪編
「うん、これで全部かな。よく覚えたね」
「はい!李豊さん!」
柔らかな言葉に典韋は元気よく返事をする。
彼女は輜重隊の一員として、先達である李豊から献立と調理法を学んでいたのだ。
「いや、流石にこんなに短期間で全部制覇するとは思ってなかったよ。
うちの献立は他所と比べて段違いに多いからね」
「はい!同じ具材からこんなに色々作れるんだなって、勉強になりました!」
「先代の隊長さんが輜重出身でね……。手ずから料理されることもよくあったんだよ」
「へー、そうなんですか」
典韋は目を丸くして驚く。
隊長なんてとってもえらい人だ。そんな人が料理とかするなんて、と。
「俺もその方に教わったんだ。とっても、そう。とてもさ……。
そう、面倒見のいい方でね」
李豊が紀家軍に入隊したのは実は紀霊とほとんど同時期であったりするが、経歴はまるで異なる。
両親とは死別し、路頭に困った彼は幼馴染の伝手で輜重部隊の、それも雑用として潜り込んだのだから。
「はは、でも流石きちんと基礎を積んでるだけあって言うことないよ。
逆に色々教えてもらったくらいさ」
「いえ、私も、こんなにたくさんの人向けのお料理はしたことなかったですから」
どちらも事実である。
きちんとした料亭で下積みをし、幼くして――屋台とはいえ――一国一城の主として店を回していた典韋の腕前は既に一流といってよかった。
また、李豊の大量の――下手をすると、数千、いや万に及ぶ!――人員に料理を供するためのいろは――特に人の使い方――は典韋をして瞠目させるものであった。
実際、人に使われることはあっても使うことなどなかった典韋である。それは値千金と言えるほど貴重なもの。
おっかなびっくりにしろ、それなりに人を使って水準以上の料理を提供できるようになったのは李豊の教え方よりも、典韋の努力と才能によるところが大きいであろう。
無論、新顔の典韋が輜重、特に料理の総指揮を執るに至ったのには理由がある。
まず、紀家軍の当主を継いだ紀霊の後見があること。
そして何より、料理の腕では紀家軍随一であったということがあるだろう。個人に供する料理の質では流石に李豊も、典韋には一歩も二歩も及ばない。
実際、彼女の指示により供された食事は紀家軍では好評であった。けして、幼女――見目も麗しくその為人も素晴らしい――にこき使われるのを輜重隊の面々が喜んだというわけではない、のである。多分。
「ま、これで安心して辞められるな」
「あの、ほんとに辞めちゃうんですか?」
何くれとなく面倒をみてくれていた李豊が軍を辞すると聞いたのは結構前のことになる。
それから時間が許す限り紀家軍輜重隊に伝わる秘伝の手順書の数々を典韋に伝授していたのだ。
「そうだね。流石に脚がボロボロでさ。
行軍にまともについてけやしない、からね」
先だっての出撃の際、輜重隊を狙い撃ちにする敵襲があった。
その際に李豊は膝に矢を受けてしまい、日常生活には支障がないものの従軍は困難とされていたのだ。
ちなみにその際の敵襲は典韋と李豊の奮闘により撃退されている。特に李豊は負傷しながらも大将首を取るという手柄を上げていた。
「ま、一応手柄も上げたしさ。小さくても店を持つってのは、さ。やっぱり夢だったしね」
「はい……」
典韋にはそれが痛いほどに分かってしまう。
だから、寂しくとも止められようもない。
それに。
「そういえば、ご結婚されるんですよね?」
「あ、ああ。ようやくお許しも出たしね」
何でも紀家軍の幹部の娘さんを娶るらしく、結構紆余曲折があったらしい。
だが、結局は手柄を立てたこと、その褒賞金で店を出す目処がついたこと。それで義父から許しをもらえたらしい。
「ま、恋女房を養うくらいならなんとかなるさ。
これでも、そんじょそこらの店には負けない自信があるしね」
実際、料理人としての李豊の腕は中々のものだ。新妻を養うくらいは大丈夫だろうと典韋は思う。
「でも、わざわざ如南に行かなくても……」
「なーに、南皮よりは如南の方が競争相手もいなくて繁盛間違いなしってものさ!」
明るく笑う李豊。
南皮……袁家は今や文化の発信地であり、それはもちろん食の分野にも及ぶ。それを引っ提げて如南に店を構えるというのが李豊の目論見だ。
無論、最初は赤字覚悟である。が、その日を食べていければいい。それくらいの稼ぎならばなんとかなると思うのだ。
それに。
「ま、袁胤様たちが赴かれてるからね。
南皮の味が恋しい人には事欠かないと思うよ?
いずれは紀家軍のみんなも来てくれるだろうし」
そんな成算もあるのだ。
「そ、それなら紀家軍が行ってからだって遅くはないんじゃ!」
「いやいや、まずは真っ当に勝負してみたいんだよね。この腕ひとつで、さ。」
保険つきだけどね、と笑う李豊。典韋はそれに黙らざるをえない。かつての自分はもっと無謀に世間の荒波に挑んだのだからして。
「ま。如南に来たら一度はおいでよ。歓迎するよ」
「はい!皆で押しかけて食材を食べつくしてあげますね!」
「はは、それは怖いな。せっかくなんだから、事前に連絡くれよ?」
「はい!必ず!
あ、いけない!行軍訓練が始まっちゃう!いってきます!」
笑顔で典韋を見送る。
視界から彼女が消えると、それまで浮かべていた柔和な笑顔。それが、す、と李豊の顔から消え去る。
典韋に語ったことに嘘はない。が、全てではない。
「ま、そうそう楽にはなれないよな」
「そうですね?」
「うあ!」
突如としてかけられた声に飛び上がってしまう。
「おやおやー?本当に気づいてなかったみたいですねー。
ま、いいでしょう、貴方の兵士としての実力には何も期待してませんし」
「そうかい。これでも自分の身くらい守れると思うんだけどね」
「ご家族は?」
「それはアンタの仕事なんだろ」
くすり、と声をかけた美女……張勲は笑う。
「奥様の安全は保障しますよ?」
「それでいい」
吐き捨てる李豊に張勲は笑いかける。
「俺の腕で新天地で勝負したいのはほんとだ。紀家軍がいずれ来るだろうからそんなに分の悪い賭けじゃないというのもほんとだ。
それに、本当に信頼できる情報を集めろという貴女を信じるかはともかく、情報の必要性だって理解している」
「それだけですか?」
「ああ、違うよ、違うともさ!言ったよな!
俺が影働きして、若殿が討ってくれる相手は……。
梁剛隊長の仇だって!」
艶然とした笑みで張勲は応える。是、と。
「もちろん俺はさ。わが身と家族が一番に可愛いさ。でもな!譲れないもんってのはあるんだよ!」
「安心してくださいね。貴方に危害が及ぶことはありませんよ。いえ、貴方ごときに、と言った方がいいですかね?」
「どうだっていいよ。だが、踏みにじられた虫にも牙がある。恩義に応えるくらいの気概はあるんだ」
にこり、と満足げに笑い、張勲は姿を消す。
そこに残されたのは日常と怨讐との狭間で揺れる男だけである。
だが、それでも。一寸の虫にも五分の魂。
だから前を向いて歩きだすのだ。歯を食いしばって。
……あの人のように。
◆◆◆
「急がないと!」
典韋は駆け出してからすぐにギアをトップスピードに合わせる。道行く人にぶつからないのは流石の運動神経である。
袁家で、全速力で駆ける典韋に追いつけるとしたら文醜か、それこそ三尖刀の助力を得た紀霊くらいであったろう。
暫し全力で駆け、急停止する。
「ごめんなさい!遅れました」
「はいはい、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!」
とある商家で品物を受け取り、再びギアをトップに合わせる。障害物でしかない往来を避け、建物の屋根を駆ける彼女を見たら紀霊あたりは。
「親方!空からくのいちが!
ああ、窓に!窓に!」
そんな戯言くらいは口にしそうな勢いではあった。
と、目的地にほど近い木陰。息一つ乱さずにそのまま木を駆けのぼり、頂上にほど近い枝に腰掛ける。そして懐の荷物を取り出し、広げる。
集合にはまだ半刻はある。それに、皆が集まりだしたらここからならば、適当な時期に合流できるだろう。
……彼女が取り出したのは、書物。
表紙にはこう記されている。
「阿蘇阿蘇」と。
「えへへ」
嬉しそうな声を漏らしながら頁をめくる。
お目当ては。
「あった!二郎さま、かっこいいなあ」
にへら、とした声で呟く。
そこには紀霊の絵姿が描かれていた。本人が見たら頭を抱えてしまいそうに美化された虚像ではあるのだが。
「あ、これ、誰だろ。でも二郎様が一等かっこいいよね」
ぺらぺらと頁をめくる。
「うん、やっぱ二郎さまだ」
うっとりと絵姿を目に焼き付ける。これからの行軍も苦にもならないだろう。
……彼女の素質をもってすればもともとどうということはないのではあるが。
「あ、やっぱり今回は当たりだ!」
嬉しそうに次の絵姿を見つめる。手にした阿蘇阿蘇の表紙には「怨将軍大特集!」などと書かれている。
どうやら、今回は紀霊の特集であるらしい。
ぱたり、と閉じて満足げにため息をつく。
「はやく、ちゃんと読めるようになりたいな……」
どうやら、阿蘇阿蘇の記事を飛ばしていた理由はそこにあるようである。
……文字が読めないということは、半ば流民のようであった彼女にとっては当たり前のことではあるのだが。
「よし!頑張る!」
気合いを入れて集合地点に向け、全力で飛び出す。
まだ、気の早い者が二、三人集まっているだけではあるが彼女には関係ないようだ。
「雷薄さん!今日もよろしくお願いします!」
「おう!今日も早いな。ま、寛いで待っておけや」
「いえ、簡単に仕込みを始めます!」
どことなくいつもより覇気のない雷薄に挨拶し、自らの戦場に向かう。
目の前の仕事をきっちりこなすこと。
それが自分を拾ってくれた、助けてくれた、何より、大好きな男からの命令である。
「よし!」
元気よく目の前の膨大な食材に挑みかかる。
まずは自分一人で。
少しずつ人員が増え、やがて指揮に移る。
典韋は、その充実の価値を噛みしめる。
輝かんばかりの笑顔は、既に紀家軍になくてはならないものであった。
◆◆◆
「ほう、ほう。
梨園の誓い、か。中々に感動的じゃあないか」
ククク、と赤毛を無造作に束ねて背に垂らした麗人がほくそ笑む。
「なんでそんなもん持ってるんだよ」
相対する人物は顔をしかめて応える。見え透いた内心の焦りに、笑みが深まる。
「いや、中々の売れ行きで久々に増刷も決まったそうだぞ?」
「なんだかなあ……」
内心で頭を抱えるのは張紘。母流龍九商会を采配する実力者である。
手元の阿蘇阿蘇をぺらり、とめくりながら赤毛の麗人――赤楽――はニヤニヤと笑う。
「あー、こりゃ、二郎を笑えないなあ……」
がっくり、という態で卓に突っ伏す。
「はは、他人事の時にはあんなに笑っていたのにな」
「それを言うなよ……」
突っ伏したまま張紘が愚痴る。
「そりゃあん時はほかにも花見客がいたしさ、見られてはいたと思うぞ?
でもわざわざ絵物語に、なあ」
「はは、南皮でも評判のようだぞ?
面会希望の婦女子も結構来たんだって?」
「あー、勘弁してくれよな……」
ぐったりとした張紘を見ながら、更に頁をめくる。
「ふむ、野盗退治に汚職官吏の排除か。中々に……好き勝手やっているみたいだな」
「いや、それ半分以上創作だぞ?」
即座に言う張紘の言葉は事実である。
だが。半分以下程度は真実の出来事でもあるという含み。赤楽はくすり、と笑みを漏らす。
「ま、読者はそれが真実かどうかなんぞどうでもいいだろう?
要は、面白いかどうかだろ、この手の読み物は」
「まあなあ。しかし、秦松にこの手の才能があるとはなあ」
秦松は張紘の旧友で、母流龍九商会の古参である。
彼女はそれなりに優秀ではあったのだが、ここにきて真価を無駄に発揮している。
彼女が手がけた紀霊の絵物語はもはや阿蘇阿蘇の主力コンテンツと言ってもいい。
「二郎と色々打ち合わせしてたのは知ってたんだけどなあ」
「ここまで、とは思ってなかったのか?」
紀霊が仕掛けた情報戦略。
それを斜め上の方向で結実させつつある彼女の連載。その表題を決めたのが紀霊か秦松なのかは定かではない。
その表題。
「暴れん坊怨将軍」
という。




