地味様の憂鬱:懊悩と決意
「はぁ……」
今日の仕事。目の前の仕事が一段落して、思わず溜息が出てしまう。
そして溜息を自覚し、疲労感が物理的に覆いかぶさってくるような錯覚を抱く。
「つ、疲れた……」
漏れ出るその声には深い疲労が滲んでいるが、周囲の配下も恭しく聞き流すのが日常である。
それに気付かぬほどに公孫賛は鈍感ではなく。……それが労わりなのかそれとも自分が腫物扱いされているのかに内心悩む日々である。
そして、太守になってからの余裕のなさを自覚してはいるのだ。いるのだが。
……これでも書類仕事にはそれなりに自信があったのである。あったのではあるが。頑張ってきたはずなのではあるが。
暫しその疲労感に耽溺していると、視線を感じる。
そして、視線の主は分かっている。分かっているのだ。
でもさあ、と思う。
「なあ、もうちょっとだけ休憩させてくれ、頼む」
顔を上げずに懇願する。自分の方が上司なはずではあるのだが、この際威厳とか色々どうでもいい。
ただただ、目の前の僅かな休息が欲しい。必要だ。必要なのだ。必要なんだったら。
それほどまでに公孫賛は疲弊していた。いや、その疲弊は領地のため、お役目のためと知っている。知っているのだ。やらねばならぬのは知っているのだが。
「……。
認識に齟齬がある。適度な休息は円滑な作業に必要不可欠。
茶を淹れた。四半刻ほどの休息を進言する」
その声。暫しの間が過ぎ、茶のいい香りが鼻腔をくすぐる。
その香りすら認識できていなかった自分が如何に疲弊していたか、それを彼女が考慮していてくれたことに、心胆が芯から暖まるのを感じる。
「あー、ありがとな、韓浩。
おふぅ、甘味が沁みるよぉ……」
だら、と机に寝そべったまま甘味を齧り、齧り、咀嚼し、お代わりを齧る。そして香り高い茶をすする。呑み込む。
非常に行儀が悪いので、何か言われるかなと思うが。……意外とそんなことはなかった。
そして韓浩は静かに茶をすすりながら甘味を胃袋に収めていく。次々と。際限なく。
うん。……うん?
こいつ、自分が食いたいだけだったわけじゃないだろうな。
そんな馬鹿なことを思いながら、沈黙という名のまったりとした空間を楽しむ。
最初は、だ。彼女と二人きりになった時は沈黙が気まずくて、色々話しかけたものだ。
それが今では、この沈黙すら心地いい。
多少は彼女の信頼を受けていると思いあがってもいいんじゃないかなあ、などと思ったりもする。
同時に、彼女のような人材を抱えている紀霊に対する複雑な思いも湧き上がってきたりするのだけれども。
だが、最近はそんな懊悩は減っている。
実務で韓浩と魯粛が手伝ってくれているのと、劉備が来てくれたというのが大きい。
そう。劉備に色々話しているうちに、色んな悩みや迷いがどうでもいいように感じてしまうのだ。
それがいけない。
ぐはあ、とばかりに息を吐く。
卓に突っ伏していた顔は前を、上を向いて。それでも、そこに暗さはない。
前を向いて、立ち上がるのだ。歩き出すのだ。
それでも心が揺れることもある。
「みんなが笑ってくらせる世の中にしたいの!」
これで公孫賛は衝撃を受けたのだ。かなり。
太守となって自分の治める領地の安寧すらおぼつかなく、四苦八苦していたのにそんなことを言うのだ。
なんというか、彼女らしいな、と思ったものだ。どこか敗北感すらあったかもしれない。
それは、今でも。今でも。それでも。
「はぁ……」
知らず、漏れるため息。
いけないな、と思う。ただでさえ自分の思考が後ろ向きにある傾向であるのは分かっているのだ。
それは自覚しているし、韓浩や魯粛に指摘を受けたのも一度や二度ではない。
だからきっと。彼女らはこんな自分に呆れているに違いない。だからこそ漏れるのだ、溜息というものは。
そして驚く。その言葉に、声に。
「悩みがあるならば口に出した方がいい」
「はい?」
その声を発したのは韓浩なのだ。無表情で無感動で鉄面皮たる彼女であるのだ。
「うじうじと、自力で解決できない命題に悩むのであればその命題は共有、拡散することを推奨する。
答えが出る類のものではないと推察する。
で、あるならば吐き出して心身に与える負担を軽減すべき」
韓浩のそれは淡々とした口調のものではあるのだが。
例えばこれが魯粛ならばもうちょっと、こう、気遣うような口調なのであろう。
だが、今は韓浩の淡々とした物言いが嬉しい。
だから、甘える。
「うん、じゃあさ、ちょっと聞いてもらってもいいかな?」
その言葉に、韓浩は逡巡せずに頷く。ちくり、と胸が痛む。
彼女が、本当に私の部下だったらよかったのになあ、と。
◆◆◆
「正直、格の違いというか、器の違いというか。そんなものを感じてしまったんだよなあ。
私が太守の仕事についてあれこれ四苦八苦しているというのにさ。
桃香はその規模が違ったんだ。『みんなが笑って暮らせる世の中に』だ。
正直、私では思い至らない境地だと思うんだ」
これは愚痴。それは甘え。分かっている。それでもあふれ出る言の葉は止まらない。
そして帰するところは自虐。
「所詮私なんかがさあ……」
果たして自分はこれを肯定してほしいのか、否定してほしいのか。
どちらにしたって納得なんてしないのに。
そんな鬱屈した思いが韓浩の言葉に遮られる。
「幸せ、というのが私にはよく分からない」
そして苛むでもなく、慰めるでもなく。
常通りの淡々とした言。
「だが、不幸、という状態、或いは感情に関してはいささか含蓄があると思う」
そう。いつもと変わらない淡々とした声に表情。
だが、いつになく雄弁なそれ。そこにはこれまで窺い知れなかった彼女の真情が感じられる。
「ひもじい、寒い、もう死にたい。不幸はこの順番で来るという。
幸せ。笑う。私にはどのようなものか分からない。
でも、不幸はきっと共通していると思う」
韓浩は相変わらず淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
不幸になる要因を排除するのが為政者の務めではないだろうか、と。
熱く、こみ上げてくるものがある。
「済まない、いや。ありがとう。
私は、大事なことを見失うところだったかもしれない」
韓浩の応えは素っ気ないもの。
「いい。所見を言ったまで。忘れてくれてかまわない。
だが、民の安寧について真剣に懊悩する姿勢には好感を覚える」
だが、僅かに――ほんの僅かにではあるが――韓浩の頬が上気している。そう思う。
「ありがとうな」
そのつぶやきには、万感の思いが込められていた。
立場の違い、考えの違い、色々あるだろう。
でも、それでも。
本当に目の前の少女は、自分を助けてくれている。
それを、それがわからないほど蒙昧ではないと思う。
だから、それは自然なことだった。
それは決意なぞ必要しないことであった。
「白蓮と、私の真名を預ける」
驚愕したのだろうか。韓浩の双眸が見開かれる。
その表情に軽い笑みを浮かべながら、重ねて言う。
「どう呼んでくれても構わない。韓浩にも立場があるだろうから。
でも、私は韓浩が私を支えてくれたということにどう報いたらいいか分からない。
私には富も、名誉もない。
私にあるのはこの身だけだ。
だから、な?」
呆然とする韓浩というのは非情に貴重だ。
この瞬間はきっとかけがえのないものだ。
無言で、こくり、と頷く韓浩に頬を緩ませる。そしてその頬を熱いものがつたうのを感じる。
「頼りに、してる……」
韓浩はそれをまっすぐに見据え、いつも通りの口調で返す。
「任された。期待には、応える」
それは、韓浩なりの決意表明であった。




