地味様の憂鬱と大徳
「ふう」
公孫賛はため息を吐く。
しかしそれはかつてのように憂鬱さを吐き出したものではない。充実した疲労感を発散させるためのものだ。
襄平の太守となってから慣れない政務、豪族との付き合い、商家とのやり取り、中央への報告とやることは多岐に渡っていた。
だが、それでもかつての学友たちの助けである程度状況はましになっていた。
もちろん、分かっている。
韓浩が冷徹に刻み込んだ言葉。
「太守になってから来た者を重用するのはやめた方がいい」
とはいえ、見知らぬ官吏よりは既知の友人の方を信用したくなる。
それについても韓浩は淡々と述べたものだ。
「実務に練達した官吏より自分の身内を重用したくなるのは理解できないこともない。
だがそれでは派閥を作って相争うだけ。
公私、情実は分けるべき」
そうすると政務に練達していない旧友たちは極めて評価が低くなる。
かなり下の地位からのスタートになってしまう。
「それでいい。いきなり上位者になってもそれに付随する業務、またそれを下支える存在を知らないと組織は回らない。
考えてみてほしい。
貴女をいきなり州牧に任命することだってできた。
それは果たしていいことなのだろうか」
そう言われると公孫賛は黙るしかない。太守となった今でさえ、政務に追われているのだ。
それも、猶予期間をたっぷりもらったのに、だ。
これが州牧ともなればどうなっていたか。周囲にいいように操られる傀儡となっていたであろう。
「そう、いじめないでくれ」
公孫賛は降参、とばかりに両手を挙げて苦笑する。官僚との不具合だって時間が解決してくれるだろう。
そう自信を持つに至るだけの実務を積み重ねているのだ。
「分かっているのならばいい」
淡々とした韓浩の物言いにも慣れた。
いや、素っ気ない言葉に含まれた真意、そのまごころを読み取ることができるほどには打ち解けたのではないかと思う。
それに。
「白蓮ちゃーん!」
かけがえのない親友が来てくれたのだから。
「どうしたんだ桃香、そんなに慌てて」
「あのね、あのね、すごいんだよ!」
息を荒くしたまま言葉を紡ぐ桃香――劉備――に公孫賛は苦笑する。
話に割って入られた態の韓浩はびき、と表情を凍らせる。
が、それは僅かな表情の変化であり、常人が気づくものではない。
そして本来は気づき、きっとそのフォローに一生懸命になったであろう人物は。
「はは、桃香は相変わらずだな」
「えー、ひどいなー。
これでも昔よりは頑張ってるんだよ!」
和気藹々とじゃれる二人に一瞥をくれ、韓浩はその場から去る。公孫賛はそれに気づきつつも親友の言に耳を傾ける。
それは市井の生の情報。太守となった今となっては中々得ることのできない生きた情報だ。足元の都市のことだから、これはこれで大切なことだと自らを納得させる。
来てくれてよかった。
公孫賛にあるの感謝の気持ちである。
かつて学んだ私塾において公孫賛は常に主席であった。孤高と言ってもよかった。茫洋とした学友と慣れ合う気はなかった。
自らは今すぐにでも兵を率い、匈奴の脅威に備えなければならない存在であったのだ。それを思い、と寸暇を惜しんで勉学に、武芸に努めた。
そんな公孫賛に近づいてきたのが劉備である。孤立しがちであった彼女が学友達と交友を続けられたのは彼女の人徳あってのものだろう。
「そんなことないよー。白蓮ちゃんはもともと人気者だったもの」
そんなことを言うのだ。
たとえ、私塾での成績が最底辺であったとしても。彼女はもっと評価されるべきなのだ。彼女の真価はそこにはないと思うのだ。
輝かんばかりの彼女の笑顔を見て、公孫賛は切に思う。彼女はもっと大きな舞台に立つべきだ、と。
くす、と公孫賛は笑みを浮かべる。そしてこの友人が駆けつけてくれた時の会話を思い出す。
「ごめんね、白蓮ちゃん!
お母さんの具合悪かったから離れることができなかったの!」
いいのに。彼女が母親思いなのはよく知っている。
「でもでも、すごいね!太守になるなんて!
流石白蓮ちゃんだね!
お母さんも許してくれたし、私も白蓮ちゃんのお手伝いするね!」
「お給料なんていらないよ?
その日のご飯と寝る場所さえあればそれでいいの!
少しでも節約しないとね!」
「役職だっていらないよ?
それに、ね。白蓮ちゃんとは上司とか部下じゃなく、お友達としていたいんだ。
一番の親友なんだから!」
結局、地位も、俸給も受け取ってはくれなかった。でも、地位とか役職とかに縛られずに自分を助けてくれるのだ。
世間はひょっとしたら「食客」くらいにしか思っていないのかもしれない。でも、彼女に、とてもとても助けられているのだ。何よりも、その笑顔とその真心に。
そして、その理想に。
今日もまた笑顔と共に励ましてくれるのだ。
「頑張ろうね!皆が笑って暮らせるように!」
公孫賛にはそれがひどく難しいことだということは分かっている。
でも、その、甘いと切り捨てられそうなそんな儚い理想。
それを口に出し、それに向かって進む。そんな彼女がまぶしい。
「ああ、そうだな」
「うん!白蓮ちゃん、大好き!」
そう言って抱きついてくる。ふくよかな胸の感触にいささかの嫉妬を覚えてしまう自分に苦笑する。
なんとも呑気この上ない。
なるほど、自分にも余裕というものがでてきたのであろうか。
そう言えばこの感触に一家言あったあの男は今頃どこで何をしているのだろうか。
ふと、そんなことを思った。




