碧眼児とその軍師
孫策、そして周瑜が今日南皮に到着するという。孫家の当主とその腹心。
それが根拠地を離れるというのだ。つまり江南はそれくらいに治まっているということなのだろう。
二人と会うのも随分と久しぶりな気がする。夜には着くと聞いているが。
とはいえ、自分のやることに変化はない。精進あるのみ、だ。
陸遜を教師とし、袁家の……いやさ紀霊の足跡を追っている。自分に足りないものを得るために。
なのだが……。
「駄目ね、やってることが多岐に渡り過ぎて……把握しきれないわ」
つい弱音を吐いてしまう。
紀霊がその実績を記載している報告書。それは随分と、思いのほかに。
あっさり閲覧許可が下りたのだ。だが。
分からないことだらけ。
嬉しそうに頬を上気させながら目を通す陸遜がうらやましい。きっと自分なんかでは思いもつかないことを洞察しているのだろう。
「大体……。農政改革、軍制改革、さらに商会を立ち上げたり。一体何がしたいのよ……。
そんなの。何で、できるのよ……」
これだけのことを一人でやっただなんて、信じられないとばかりに嘆息する。
普段暢気に町に出かけたり、黄蓋や陸遜に秋波を送ったり。気ままな暇人、むしろ高等遊民としか見えないのに。
というか、そんなに働いているところを見たことがない気がする。
「ねえ、穏。これらの報告書が本当なら、あの男は……。冥琳や穏より内政でも知見があって、軍事に於いても祭をもしのぐってことにならない?」
いくらなんでもそんなわけがない。そんなわけがないのに、と頭を抱える孫権に陸遜は声をかける。
「そんなにぃ……。お気にされることはないですよ?」
「だって、そんなこと言ったって……」
慰めなんて結構だとばかりに頭を振る孫権。陸遜の声は変わらず優しい。
「二郎さんのお仕事って、何だと思われますか?」
「え……?」
唐突な問いに言葉を失う。
「えっと……。そうね。
一番は紀家軍の運営と管理。それと袁家の農政指導。もちろん袁家と紀家の軍政も大事でしょ。
さらには母流龍九商会の統括。それに漢朝の公職……かしら?」
とりあえずの推察。陸遜は笑みのままに応える。
「そうですね、二郎さんが手がけたことはそのあたりですねぇ」
そう言われて孫権は違和感を覚える。
「どういうことかしら……」
にこり、と笑みをそのままに。陸遜と孫権は視線を交わす。
考えろ、私。
孫権は危機感すら覚えながら思考を研ぎ澄ます。
前述した事業はいずれも膨大な労力を必要とする。だのに紀霊はあちこち出回るし、つい昨日まで南皮を空けていた。
ならば、と思う。
そして。まさか、と思う。ありえない、と思いながら口にする。
「実務は、手がけていない……?」
「近いです。当たらずとも遠からず……ですね」
よくできましたという風に陸遜が答える。
「正確に言いますと、二郎さん……というか紀家の当主。
二郎さんはまだ当主ではないですが、そこは置いておいてください。
その、紀家の当主がしなければならない仕事というのはですね。
これといって、ないんですよ」
「な、なんですって……」
絶句してしまう。
そんな、そんな馬鹿なことがあるはずがない。
腹心である陸遜。その言が分からない。
だから、第三者の言に救われたと思う。思った。思ってしまった。
「やれやれ、雪蓮と別行動でよかった。これは聞かせられんよな」
「おねーちゃん、ひっさしぶりー!」
「め、冥琳にシャオ?ずいぶん早いじゃない」
懐かしさと不可思議さを同時に感じる。周瑜はともかく妹たる孫尚香が来るなど聞いていない。
聞いていないのだが、いつもの気まぐれだろうと察する。
兎角、孫家の血筋は奔放なのだから。
「いや、袁家領内の街道が予想以上に整備されていたので……」
「すっごいんだよー、道が煉瓦で整備されてるの!
馬車がどんどん進むんだよー!」
興奮したように身体全体を使って驚きを主張する孫尚香。
こんなにも家族と触れ合っていなかったのか、と孫権の頬が緩む。
「……じゃなくて!
穏、さっきのはどういうことなの?」
「ふむ、私も興味があるな」
視線を受けて、陸遜はにこりと。
「ええ、ご説明いたしますね。
かの名高い……北方における、匈奴と袁家の大戦に遡ります」
袁家旗下、武家四家。その三家の当主までもが討死するという激戦。
「四家のうち、紀家のみ当主が生き残りました。それどころか匈奴の首魁たる汗を討ち取るという武勲を挙げています。
その武勲は無論筆頭。なおかつ他家の当主がいない以上、袁家を背負うと目されていました。
ですが、ここで紀家当主たる紀文は身を退きます。そして軍事は麹義、政務は田豊が執るという二頭体制を整えました。
それを先代袁家当主たる袁逢がまとめ、袁家は実に……見事に治まることになります」
そう。唯一当主が無事な紀家は領内の慰撫に努めることに徹し、権力争いは発せず。
後知恵だとしても、孫権は実に見事な身の処し方だと思ったものだ。
「ですがそれは一面の真実でしかありません」
「どういうことだ?」
周瑜の応え。
「実は……。当時のことですが。物理的に紀家当主は動くことができなかったみたいですねぇ」
「なに?」
え、という思いは口に出ていただろうか。それすら分からないほどに孫権は衝撃を受けていた。
「匈奴との大戦。乾坤一擲の一撃を持って戦局を勝利に導いた紀文。彼はその戦いにおいて深刻な損傷をその身に受けました。
具体的には半年以上も寝台から身を起こすことすらできないほどに。
ええ、廃人同然だったみたいですよ?」
知らない。そんな話は知らない。
「ですから、紀家にとって当主がいなくても回る仕組みを構築するのは必然。
それを……昇華し完成させたのが二郎さんですね。
あの方が何もしなくても、紀家の運営に問題は起こらないのです」
よくわからない。一体何を言っているのだ。孫権は内心頭を抱える。傍らを見ると。
周瑜は柳眉をひそめ、孫尚香は……どうでもよさそうだ。
「極端な話をしますと、二郎さんがしていること、それは彼がしたいこと、なのです。
そしてしなくてはならないこと、というのではないのです。
実際、実務は雷薄と韓浩。この二人で問題なく処理されています」
「……つまり紀霊が手がけた事業というのは、極端な話。
……道楽みたいなものということなのか?」
周瑜の問い。それが意味することの深刻さがいかほどのものか。
問いを投げかけた周瑜の表情も硬く、顔色も優れない。
「暇つぶしと言うと、多少語弊はありますねぇ。
ただ、手がけた事業を自分の手柄とすることは稀です。
軌道に乗ると他の人員に委譲されてますねえ」
対照的に朗らかな陸遜。うきうき、と言ったその様に孫権は違和感を覚える。
「ふむ、手柄と利権をあっさりと手放すとは。
傲慢なのかな。それとも既に袁家の内部での地位が安泰ということなのか」
このあたり、新興勢力の孫家である。その無欲さに当惑するのもやむなきこと。とは言え内部事情を察する周瑜は流石というところであろう。
「そのあたりはなんとも言えませんけどぉ。
ただ、自分の功績や名誉みたいなものには興味は薄いみたいですねぇ」
くすくすとおかしそうに笑う陸遜。孫権は思う。
これは本当に陸遜なのだろうか。
だってこんな彼女は知らない。知らない。
「ふむ。興味深い、な。だが報告書によればそんな紀霊が袁家の舵を左右しているのだろう?」
「なっ!」
思わず声を発してしまう。
あの男が袁家の舵を握っている?そんな馬鹿な。未だ紀家の当主にすらなっていないのだ。そんなわけない。
そんなわけがない。孫権はそう言おうとするが。
「その通りです。現在、大陸を盤面とする打ち手。即ち十常侍、何進、袁家。そして袁家の打ち筋。察するに……打ち手は二郎さんですねぇ。
ふふ、麹義か田豊。大穴で沮授と思ってる人がほとんどでしょうねぇ」
くすり、と笑みを浮かべる陸遜の肌は上気していて。
孫権はその言が、陸遜の辿り着いた真実なのだと理解する。
「ふむ、流石だな。紀霊の打ち筋も読めてきたのか?」
「いえ、そこまでは。ですが、おおまかには掴めてきたかと」
嗚呼、自分は一体なんなのだろうか。そして周瑜に一度も問いかけられていないということに今更ながら気づくのだ。
自分はなんだ。次代の孫家を率いる?お笑い種だ。とんだ、道化だ。
「しかし、よくそこまで踏み込めたな」
「祭様のおっしゃる通りですねぇ。やはり、理解を深めるのには肌を重ねるのが一番です」
「ふむ、一理ある、か」
これまでの葛藤。それが嘘のように孫権の思考は凍り付く。
腹心たる陸遜のその言、行い。
冷め、冴え、覚める。
「ふふーん、それでも紀霊って孫家に重きをなしてないんでしょー?
だいじょーぶだよー?
シャオが紀霊をろーらくしてやるんだから!
ふふ、祭にも穏にも無理でもシャオならできるよ?だから安心してね!
孫家にはんえーをもたらすのはシャオなんだから!」
その言葉にわが身を三省する。幼い妹ですらその身をもって孫家のことを考えているというのに!
そしてこれまでの紀霊への言動を振り返り内心頭を抱える。
「済まない、気分がすぐれない」
消えてしまいたい。その思い。忸怩たる思い。
そして、それが如何に恥ずべきことか理解して、それでも。
それでも孫権はその場にいることに耐えられなかったのである。
◆◆◆
「おねーちゃん、どーしたのかな?」
室を辞した孫権を孫尚香は気遣い。動く。
「ちょっとシャオ、行ってくるね」
軽やかに駆け出す。
それを温かい視線で見送った周瑜が陸遜に目を向ける。
「随分と蓮華様には厳しい……いや、優しいのだな」
その言葉を受けて陸遜は破顔する。
「ええ、いいえ。蓮華様には二郎さんと同じ階梯に行ってもらわないと困りますから」
くすくす、と実に嬉しそうな陸遜に周瑜は違和感を覚える。
訝しげな周瑜を気にせず陸遜は言葉を紡ぐ。
「今、中華には新たな打ち手が誕生しようとしています」
「曹操、か」
未だ泡沫勢力である曹操を評価しているのは周瑜の先見の明というよりは眼前の弟子の分析及び賞賛によるものであるのだが。
「はい。放っておいてもそうなったでしょう。ですがそれを助長する存在がいます」
「ふむ、話に聞くとだ。彼奴は傀儡になどならんだろう。餌を与える腕もろとも引きちぎられそうだが」
「はい。アレは一種の化け物。ですから……」
くすくすと陸遜が笑う。本当に愉快そうに。
「化け物をもって化け物を制す、だそうですよ?」
「な……!」
流石の周瑜が言葉を失う。その周瑜の様子。くすりと陸遜は笑う。
あくまで可憐に。
「それが何進なのか十常侍なのかまでは教えていただけませんでしたが。
多分ですが、後者じゃないですかねえ?」
あくまで朗らかに笑う陸遜に周瑜は戦慄を覚える。
「ふむ、宦官勢力を曹操に吸収させるのはいい。十常侍が消滅すればめでたいだろうよ。
だが、そんなに、だ。曹操をそこまで恐れるのか?
確かに厄介だろうが、何進と袁家が組めば排除は容易いと思うのだけれどもな」
なにせ大将軍と歴代三公を排出した名家である。袁家の威光一つで、と思うのも無理なからぬもの。
そして覚える危機感。
「一体袁家は……いやさ、紀霊はどこに向かおうとしているのだ?
世に混沌と混乱を生み出すのが望みだとでも言うのか?」
思案気に周瑜は吐き捨てる。これ以上世が乱れるのはかなわん、と。
「あの方の言葉をお借りするとぉ……。
ほどよい緊張は安定を生み出すそうですよ?」
くすり、と答える陸遜。
その言葉に周瑜は柳眉をひそめる。
「穏、お前はいったい何を言っている?」
「ええ、本当に。……本当に袁家に送っていただいたことには感謝しています」
「……体のいい人質。いや、人身御供だというのに。心根からそう思ってくれるならありがたいものだ」
どこか後ろめたさを感じさせる周瑜の声。
陸遜は大輪の花が開くような笑みを向ける。
「いえいえ、孫家存続のためには必要でした。それに、本当に感謝してるんです。
田豊、麹義、沮授、袁紹、曹操、魯粛、張紘、公孫賛。……それに二郎さん。
綺羅星のような方々にお会いできたのは幸運でした。
それもこれも私がここにいるからです」
ぞくり。
周瑜は背筋に冷たいものを感じる。
「ええ。そうですね。
蓮華様には中華という盤を舞台とする打ち手になっていただきます。
私が仕えるお方なのですもの。
いつまでも袁家の意向一つに翻弄されていてもらっては困りますしぃ」
周瑜は陸遜の言葉に柳眉を逆立てる。
「穏、勘違いしてはいけないぞ。先代である孫堅殿の遺言。
それはあくまで江南の安定だ」
「そうですねぇ。ですが、そのためには中華への影響力が大きいにこしたことはないですよねぇ?」
くすくす、と陸遜は笑う。笑みは深まる。
「……場合によっては。
穏よ。お前のご執心な紀霊と争うことにもなるぞ?」
周瑜の言葉に陸遜は身体を震わせる。
「ああ。それは素敵ですねえ。閨を共にするよりも互いを読み合い、蹂躙し合う……。
うふふ、思っただけでぇ。身体が火照っちゃいますねぇ……」
うっとりとした表情で陸遜はその身をくねらせる。
江南出身でありながらの白い身体。それを桃色に染め上げる。
そしてその貌は陶然。
「穏!」
流石に声を荒げ、周瑜が殺気すら纏う視線を陸遜に向ける。
「いいえぇ。もちろん袁家に喧嘩なんて売りませんよ?
二郎さん曰く、勝てない戦をするのは馬鹿のすること、だそうですから。
勝ち易きに勝つ。うふ。
孫子さまの……真髄ですよねぇ」
周瑜は瞠目する。弟子とばかり思っていた陸遜。
この、とろんとした笑みを浮かべる貌。その双眸が見つめる先は遠く、周瑜すら見てはいないのではないか。
そして。
「世の打ち手の打ち筋はほぼ把握しましたし。
江南の、孫家の繁栄はお任せください~」
刹那。浮かべる笑みに含まれる狂気にも似た何か。危惧すら覚える。
「とはいえ、だ。
穏が最も重視する紀霊の打ち筋は見えぬのだろう?」
「ええ、あの方は埒外ですねぇ。
くす、読み切れません。素敵ですぅ……」
うっとりとした陸遜。周瑜は叱責がその役目。苛立たしい。
つまり、それこそが袁家の謀略の一端であるのだろうと断ずる。
が。
「穏!戦に耽溺するか!」
周瑜の言に陸遜の表情はぴくりとも動かない。だが、答える。
「……打ち筋は正直読めません。ですが、その終着点は見えてきた。
と、思いますぅ」
「ほお……?」
周瑜は目を丸くする。なるほど。
目指すところが見えれば、打ち筋がどうあれ乗じることは可能だろう。
「ふむ、興味深いな。袁家を牛耳る男が目指すところ、というものはな」
くすくす。深まる陸遜の笑みに周瑜は僅かに苛立つ。が。
「ふふ、天下泰平、だそうですよ?」
陸遜の言葉に周瑜は絶句する。目を白黒させる。そんな周瑜を陸遜は楽しそうに、愉快そうに。
……いっそ憐れみを込めて見つめる。
「馬鹿なことを。袁家を牛耳り、十常侍と正面切ってぶつかり、何進と結ぶ。
我が孫家と曹操を手駒として扱う。
そんな男が上を目指さないはずがないだろうに。
いいかげんなことを言うな!
ありえん!」
くすり、と陸遜はほくそ笑む。
袁家にて棲んだ自分だから分かるのだ。あの男が。その心根が。そしてその見据える先が。
そして心から面前の師に感謝する。よくぞ自分を袁家の……時代を動かす場に送り出してくれたと。
そして。
次代の孫家。
中華を盤とする打ち手として、孫家は参戦する。
打ち手は孫権。
そして傍らにあるのは自分だ。
気負いなどなく。確定事項として陸遜は逆算する。
嗚呼、主の向上心には喜びを。感謝を。
半ば、陸遜は眼前で美しくも儚い激情を露にする師すら眼中になく。
訪れるであろう戦い。曹操と、何進と、十常侍と、或いは袁家との戦い。そしてその絵図に陶酔していた。
紀霊が孫家で最も恐れる存在。異なる時空に於いて、劉備と張飛という……時代を代表する英傑を殺しきったその鬼才。
後世。
人物評などほとんど残していない紀霊。彼は陸遜について一言だけ言及している。
「戦争の天才」と。