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3章 理紗という名の友紀子

2008年1月午前3時....


恭平がジュリアの着信を無視して眺め続けた雪が雨に変わった頃、理紗は裸にバスローブを羽織り都心を見下ろす高層ホテルのスイートルームの窓枠に腰を下ろし、ガラスに伝わる水滴を見つめていた。


時計は午前3時25分を指している。


背後のベッドで今夜のパートナーが寝返りを打ったのを合図に、理紗はバスルームへ行きシャワーを浴びて急いで身支度を整えた。理紗がメモを書いている時に男は目を覚まし理紗に声を掛けた。


「ん~理紗、なんだ・・・もう行くのかい?」

理紗は男には気付かれない様に男のコートのポケットにメモを入れ、男が寝るベッドの脇に滑り込んでは男の顔に自身の顔を寄せた。


「昨日はごちそうさま・・・また、待ってるわね」

それだけを言うと理紗は男の額に軽くキスをして男を見つめながら男の髪の毛の寝癖を直してやり、抱きつこうとする男の腕を軽くすり抜けて素早く部屋を後にした。


理紗はホテルのエントランスでタクシーを拾い自宅の恵比寿のマンションに戻ると直ぐに寝室にある浴室のバスタブにお湯を溜めコラーゲンの入ったラベンダー色の入浴剤にバスソルトを入れ体を沈め、疲れた心と体を癒した。


仕事のため顧客とベッドを共にする事は、ホステスとしての理紗にとっては合理的な事だった。誰とでも寝る訳ではない。相性が良く、紳士的で、綺麗に遊んでくれる、妻がいて子供がいる、立派な家庭持ちの男だけと決めていた。


理紗の上客で、理紗の本名や恵比寿のマンションを知っている男は一人もいなかった。


バスルームから出ると理紗は本当の自分に戻ることが出来た。

理紗の本当の名は白河友紀子。


男たちにとっても友紀子との関係は極めて合理的な事で、店の支払い以外に金の無心などする事のない友紀子は付き合い易く、またその事がホステスとしては可愛い女だったので、男たちはその分定期的に店に通っては友紀子のために大金を落として行った。


お客にとっては遊び、友紀子にとっては仕事、その均衡を保ってくれる男だけを友紀子は上客として選んでいた。

友紀子がホステスを始めてから1年半、今度移った店が5軒目。友紀子は店を移籍する都度に上客を増やしてきた。新進の企業家や上場企業の役員、良き家庭人として有名な俳優やタレント、得意の語学力を生かしては駐日外国大使などもそのリストには含まれた。 


バスを出て全身にローションを塗った友紀子は、化粧室の冷蔵庫からミネラルウォーターを1本取りだしては必ず母啓子の寝室へ向かう。


啓子は夫清蔵の自殺によって会社の役員として、また妻として多大な責務を負い、そのための心労過労により清蔵が亡くなってから3週間後に比較的軽度ではあったが脳卒中に倒れ入院、治療により回復した今は友紀子のための家事に専念していた。


啓子は今日も穏やかな顔で静かに眠っていた。夜明け前に母啓子の寝顔を見守る事が友紀子の習慣であり、啓子の寝顔が友紀子にとっては何よりもの心の安定剤だった。友紀子がホステスとして働き生きる決意をしたのも、夫清蔵を失い夫婦で築き上げた全てを失った母啓子を、全ての困難から守り抜くためだった。


啓子と友紀子を襲った夫、父清蔵の自殺という悲劇は、幸福だった白河家から全てを奪い去り、掛けがえのない大切な人を失ったという事を二人がを悲しむ時間さえ与える事はなかった。


父の自殺に母の病魔という不幸に友紀子は一人立ち向かう決意をし、啓子には内緒にして啓子のホステス時代からの友人の伝手を頼って通っていた大学を中退し夜の世界へと飛び込んだ。


啓子にとっては自分の娘がホステスをする事などあってはならない話でその事を深く悲しみ絶望したが、どうにもならない現実の前にその後は友紀子の思いを汲み理解し、また思いもよらず夫清蔵に似て気丈に頑張る娘に感心をし、今は日々友紀子の事を案じながらも静かに見守る事に努めた。


友紀子が夜の世界で働き出した当初は心配の余り啓子が助言をする事もあったが、暫くしてからは啓子から友紀子の仕事に関する話を友紀子にする事はなくなった。


啓子はホステスでの経験はもちろん、夫清蔵と歩んだビジネスでの経験上、社会環境の変化や経済状況によって如何に人の心や世の中が変化するかを理解していた。

啓子が水商売を始めた時期はまさにバブル全盛の時期で多くの人々、また企業なども未来に対する期待感に溢れていて、、社会状況やシステム、世相もそれらを反映していた。


自分たちの夢や理想が叶うであろうと、漠然と多くの人々は考えていた。多くの夢や希望は持てたけれども全ては漠然としていた。


実際はこの先どうなるのだろう?どうなるのかよくわからない、けれども良い事があるに違いない、


大多数の人々はそう思っていたが誰もが実は何の根拠も持ち合わせてはいなかった。


そんな啓子の時とは違って依然世の中は混沌とはしてはいるが、今は何がどうなるかわからない世界ではなく資本主義世界とはこういう事、自らの選択と行動により結果は決まっている。


持てる者と持たざる者、勝者と敗者、合理性と非合理性、生産的と非生産的、成功に失敗、何をどうする事がどんな意味がある、あるいはどれ程無意味なのか?全ては偶然ではなく必然である事、目的を達成するためのやるべき事、必要とされる能力思考行動は決まっている。


自分なりに頑張るだけでは意味がない。やるのか?やらないのか?出来るのか?出来ないのか。やるべき事を理解し、それらを確実に実行し続ける者にこそ達成はやって来るが、出来ない者、やらない者は一生漠然と生きるしかない。


啓子は友紀子の仕事を理解し支える考えはあっても、その事が友紀子には全くもって不幸な事だという考えに変わりはなかったが、水商売や不動産業界、よりシビアな世界を結果として生きて来た啓子から見て、過酷な運命を懸命に生きる娘友紀子の考え、行動については何も言う事はなかった。


メゾネットの自分の寝室に戻った友紀子はドレッサーから小さなロケットを取り出し手にし、セミダブルのベッドに半身で横たわり静かに呼吸を整え瞑想に耽った。自ら課した事とはいえ友紀子にとっても本来なら不本意な日常を唯一忘れる事の出来る、友紀子が本当の自分を取り戻せる、取り戻すための友紀子にとっては儀式だった。


瞑想が終わると足下の壁に掛けてある写真のパネルを眺める。幸せだった時の家族3人の写真、亡き父清蔵、母啓子に友紀子が写っている。友紀子の高校入学の記念に当時の松濤の自宅マンションの広いバルコニーで撮った、つつじのピンクも3人の笑顔も色鮮やかな写真。


そして友紀子は手にしたロケットをそっと開ける。ロケットの中には、写っている本人にしか誰が写っているのか?判別が付かない小さな写真、大仏を背景に若い男女のカップル、友紀子と恭平、初めてのデートをした時の思い出の写真。


入院先の病室のベッドから窓越しに見た去って行く頭に包帯を巻いた恭平の後姿。友紀子が見た最後の恭平の姿だった。


恭平はその日で高校も退学し友紀子だけでなく当時の友人とも一切の連絡を絶ってしまった。退院した友紀子は恭平の自宅を訪れたが恭平はいなかった。


その時に友紀子が確認出来た事は、恭平の母聖美が1週間前に癌で亡くなり、その直後に恭平は転居したという事実だけだった。


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