1章 堕天使たちの棲む街
2008年1月....
夕方の5時にセットされたアラームで目覚める生活を初めて2年が経過していた。2年前と変わった事と言えばシングルベッドがダブルに変わり、一人だった生活が二人になった事。恭平がスパニッシュ系フィリピン人のジュリアと一緒に暮らす事になったのが丁度1年前、恭平が凌ぎ場所の中国人グループの若い衆と乱闘となり、逃げ込んだラブホテルの玄関でジュリアと鉢合わせした事がきっかけだった。
頭から夥しい血を流す恭平を見て驚いたジュリアは事情を聴き恭平の身を案じ自宅へと誘い応急処置をし、以来二人は同棲を始めた。愛情で結びついた二人ではなかったが恭平はフィリピン女性独特の女性らしさや情熱的な魅力に惹かれ、ジュリアは日本人らしくないストレートな生きざまで時に寡黙な恭平を好んだ。
男女の関係の方も二人の相性はお互い満足出来るものだった。
恭平が起きて食卓に目をやるとジュリアが忙しい出掛けに恭平のために毎日用意するサンドイッチと恭平が好きなブラックコーヒーが入ったポットが置かれ、そこには必ずメモが添えられている。I LOVE YOU HONEY TAKE CARE PLEASE 恭平は辛子バターの効いたベーコンハムのサンドイッチを頬ばりながら毎日そのメモを手に取り、毎日同じ事を考える。
“俺はジュリアの事を愛しているんだろうか?”
恭平は毎日結論が出ないまま仕事の準備を整え部屋を出る。
恭平の仕事場ではジュリアも働いている。正確には同じ街で働いている。東京有数の歓楽街。ジュリアは相変わらず夜の女を続けていた。恭平は例の夜にラブホテルでで出くわすまではジュリアの事は知らなかった。ジュリアは何度か恭平の事を見かけた事があり、恭平の評判も耳にしていた。ジュリアは密かに恭平に好意を持っていた。
例の夜にジュリアが驚いたのは血のせいだけではなかったがその事を恭平に話そうとはしなかった。
地下鉄を降りて地上に上がる寸前に恭平はイヤフォンを付け音楽を鳴らす。音量は人の声が聞こえる程度に調整している。恭平は1958年生まれの父貞雄の影響で80年代アメリカンAORやポップミュージックを好んだ。フィルコリンズ、エルトンジョン、エアサプライ、ビリージョエルにデイビッドフォスター、バリーバニロウ、オリビアニュートンジョンなど。世界中がそして日本が最も活気に溢れていた時に登場したアーティスト達ばかりだ。
同じ年代の物でも奇をてらったテクノポップやパンクロックなどを恭平は好まず、シンプルなビートと綺麗なメロディーラインの曲やアーティストがお気に入りだった。
この思考は亡くなった母聖美の影響で、聖美は物事の普遍性や本質を追求する事の大切さを生前恭平に様々な形で教示した。
その事を真に恭平が理解したのは聖美が他界した後だった。恭平の人間形成、思考の大半は聖美の影響によるものだった。聖美の真意にもっと早く気が付いていればもっと聖美と有意義な時間が過ごせていたはずなのに。
もう一度母聖美と会って話がしたい、と恭平は幾度も思った。
大切な母は早くに他界し、どうでもいい奴はのうのうと。世の中は不条理に出来ている。恭平が聖美からよく聞かされた言葉だった。
この街で凌ぎを始めて2年。大歓楽街で交錯する人々は恭平の事など知る由もないが現場に入るといつもの知った面々に出くわす。風俗店の社長、ロシアンパブのキャッチ、キャバクラのフロントにボーイ、居酒屋の女将さんに地元のやくざにぼったくりヘルスのキャッチ、ジュリアの仲間の立ちんぼの女たち。日本人、韓国人、中国人、インド人、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ、ありとあらゆる人種がただ一つの目的のためにだけ巣食う街。
「オウ キョウヘイ、ヨノナカ カネダヨ
カネカネ、カネダヨ カネカネ」
「オハヨウ ゴザマス キョウヘイサン キノウ ヒイタ?ナンボン ヒイタ?イクラナッタ?ワタシ サンボン ヒイタ、ミナピン カネニナラナイ」
「キノウ キャバクラ ドウナッタ? オウナッタ?ウチダメ ゼンゼンダメ キョウヘイイイナ オレ ヤチン ハロテル アナタ カネ ハイテクルダケ」
「キョウヘイサン オハヨウゴザイマス キノウ フタリツカマッタ キヲツケテネ フィリピンイタラ ヨロシク オカクサン スクナイ カネデテクバッカシ」
「キョウヘイ キノ アナタ モウカッタ? ウソ アナタ モウカッタ カオ シテル」
この街の人間は金の話が大好きだ。
恭平は軽く頭を下げ笑みを浮かべてはただ通り過ぎる。
恭平たちの仕事は、街を歩く人々に声を掛けて飲み屋や風俗店に連れて行き、店からバックマージンを頂く。ただそれだけの事だが東京都迷惑防止条例に違反する客引き行為にあたるので現行犯逮捕されれば10日から2週間拘留され罰金初回は30万、2回目からは50万が科せられる。罰金は所属しているグループの積立金から支払われる。恭平はまだ一度も捕まった事はないが、この2年で3人の仲間がパクられ大きな出費になった。
この2年間で20人の人間がこの“事業”に参加したが現在残っているのが8人。街の他の同様なグループと比較しても規模は決しては大きくはなく小さな方だ。
どんな繁華街であっても主要駅を基点とした導線を意識した街作りになっている。人々は駅を降りて買い物やデート、普通の食事をしたりお茶を飲んだり居酒屋に行ったりする。それで満足した人は駅へ戻って帰宅する。それでも満足しない人が女の飲み屋や風俗店に行ったりカップルならラブホテルへ行く。駅から見るとデパートやレストラン、カフェは近くにあり、飲み屋や風俗店はその奥に配置されている。当然人の流れの方向や経路が決まり分岐点が出来る。ここから先へ向かう人々は女の飲み屋や風俗を求めている可能性が高いという事がはっきりわかる分岐点であり淫らな街への入り口でもある。
恭平たちはこの分岐点に島を持っていて他の人間、グループは一切立つ事が許されない。恭平たちが引っ張る客数は街全体の客数と比較すると僅かな数だが、恭平たちがより有利で確実な場所に島を構えている事は街の誰から見ても明らかで、店にとって恭平たちのグループをまったく無視する訳には行かなかった。
この島を巧みな戦略で押さえたのが恭平たちが本部長と呼んでいる木島洋三だった。木島洋三は関西の武闘派暴力団出身で列記とした極道だったが組織の跡目争いやお家騒動に嫌気が差し、知人を頼って7年前に東京に流れた。180を超える大柄で眼光も鋭いがアコギを嫌い面倒な人付き合いも好まない、堅気には優しい無頼派のやくざだった。
もともとは木島のパートナーの堅気の人間が現場の恭平たちを仕切っていたのだが、なんやかやと事が起こり、一人二人と消えてしまい現在は恭平が現場の責任者になって活動している。恭平は木島から事情説明を受けてはいたが本当のところはよくわからない。1年前のトラブルも関係改善しており、以降やっかいな事は何もない。現場の責任者といっても特に恭平にとって大きな負担はなかったので木島の意向を受け入れた。
木島がどういう経緯でこの“事業”に取り組むようになったのか?は恭平は知らないし聞こうと思った事もない。恭平が参加した時から木島は本部長と呼ばれていた。恭平は木島を一目見て堅気ではないと察知したがその事を意識して接する事はなかった。他のグループは何らかの形で店に帰属していてその店にケツ持ちがついている。
恭平のグループは唯一帰属する店を持たないグループで木島がケツ持ちだ。ケツ持ち直営のグループで常に裏の人間の顔が見え隠れする恭平のグループは他のグループから見て厄介な存在だった。
恭平の仕事は木島のいる事務所に顔を出し木島から昨日分の全員の報酬を受け取る事から始まる。金を受け取っては現場の全員(昨日稼ぎがある者)に金を配り自身の仕事に取り掛かる。
インターフォンを鳴らすと無言でガラスのドアが開いた、木島が不在の時は恭平が合鍵で部屋に入り木島が来るのを待つ事になっているが、そういう時は先に木島が連絡をくれるので恭平が待ちぼうけを食らった事はこれまで一度もなかった。
「おう、おはよう恭平さん、昨日はぼちぼちやったな。」
木島のいつもの挨拶だった。
「まあ、正月明けですから皆さん金ないんちゃいますかね?」
木島と話す時の恭平はいつも自然と関西弁になる。木島から受け取った金を各人の分配にして封筒に入れ込む。1日が終わると恭平が店からのバックを回収集計し各人の取り分と上納金を計算してパソコンでそれらを一覧表にしたものとバックの全額を木島に渡している。木島は一覧表を確認して上納金を抜いて翌日恭平に金を返金するといった段取りだ。
「ところで最近こうじはよう休んでるな?昨日は顔見た~?」
恭平のために入れているコーヒーのドリップを見つめながら木島がどことなく不満そうに漏らした。
こうじは元ガソリンスタンドの店員で3か月前にこの街にやって来てた。字を読むのが苦手で店の看板も読めず恭平も当初手を焼いたが持前の童顔と愛嬌で作年末前から頭角を現し、今やグループの稼ぎ頭なっていた。
「昨日は見なかったですね。まあ、稼ぎ過ぎて遊んでるのとちゃいますか?会ったら言うときますわ。」
恭平は再度封筒の数と名前を一覧表と照らし合わせて腰ポシェットに仕舞い込みソファに深く腰を掛けて木島が来るのを待った。
「さあ、飲んでや。」
木島がテーブルの上右手でお盆に乗せたままのコーヒーの入った恭平用のカップを置き、自らのカップは左手に持って恭平の向かえに座りながら一口含んでは、ふ~っと、ため息をついた。木島が恭平に唯一不満なのはグループのメンバーにあまりに寛容過ぎるとこで恭平もその辺りは察知していたが木島からその事で叱責される事はなかった。
恭平たちが稼ぐ金の一部が上納金として木島の収入になっている。一部といっても結構な額だ。昨今の情勢で新たな凌ぎを見つける事は木島にとってもそう容易な事ではないようだ。木島には以前からの堅い凌ぎが他に2~3あって、金に困っている様子などは微塵もなかった。
恭平はじっと無表情で恭平の手元を見つめる木島の眉間の辺りを見つめていた。ケツ持ちで首領の木島にコーヒーを入れてもらう事に当初恭平は抵抗を感じたが、木島は大のコーヒー好きで、恭平もそうである事を知っており、基本的にお店以外では自分で入れた物しか飲まないとの事で恭平は遠慮なく頂く事にしている。
恭平は最後の一口を飲み干し、
「じゃあ行ってきます、ごちそう様でした。」
と言っては木島に軽くお辞儀をしてはお盆に乗せたカップをキッチンの流しまで運び洗って水切りに乗せふきんでお盆を拭いては棚に仕舞い込んだ。
「恭平さん!」
玄関でブーツの紐を結んでいる時に木島の声がした。
「はいっ」
恭平は手を止めて続く木島の声に耳を傾けた。
「あの~1年前揉めた中国人とは最近どうもないか?一時しつこくあんたの事言うとったけど。」
その件なら木島も立ち会いでキレイにけりは付けたはずと、恭平は木島の質問を訝しげながら答えた。
「別にどうもないですよ、最近顔差すことも少ないですし、会っても軽く挨拶するくらいですから、まだなんか言うてるんですか?」
恭平が応接の方に顔を振り向けると深々とソファに座った木島が血の気のない眼光で恭平の方を見つめていた。
「うん、そうやなくてな、俺が世話になった親分とこの凌ぎをあいつらが手伝うことになったんや、まあ、なんともないんやけどうまい事やってくれたら助かるわって話やから。」
「へえ~、何されるんですかね?」
恭平はさほど興味はなかったが聞いてみた。
「まあ、俺もそこまで詳しい事は知らんねんな、まあ、日本人にはでけへん事するんちゃうか?あいつら国帰ったらそれで終わりやもんな。」
「そうですか。」
恭平は答え立ち上がり木島の方に向き直り
「ようわかりました。じゃあ行ってきます。」
と深々と頭を下げて事務所を後にした。
現場に出ると既に戦闘は始まっており、恭平の携帯はSMSを3本受信していた。グループのメンバーは客に声を掛け引いて店に無事案内する度に恭平の携帯にSMSを送る事になっている恭平は午前1時を過ぎたあたりで一度中間集計をまとめリストを作成して最後の1本まで拾って店からの回収の電話を待って回収作業に入る。全ての回収が終わるのが平日で午前5時、週末で午前7時あたりだ。
事務所を出た直後ににこうじに電話を1本入れた時には繋がらなかったが仲間に金を配り終わったあたりでこうじの方からSMSが届いた。
“10時には出勤します こうじ ”
恭平は“了解 ”と返信をして自らも獲物を狙って人の流れに逆流して歩き出した。
この日は平日で厳しい状況が予想されたがなんとか10時までに全体で10本上がっていた。恭平自身は9時27分に会社員3名をキャバクラへ、9時58分におやじ5名をフィリピンパブへ、そして10時55分に若いお兄ちゃん2名を風俗へ案内した。恭平は毎日12時までに3組10名を目安にしているので今日は運良く達成した。いくらの稼ぎになるかは回収するまでわからないが、今までの経験で大凡検討は付く。
恭平が一息入れるため歓楽街の奥深くへ入っていくと、この道何十年の古参の客引きたちが溜まり場でこの日も皆カップ酒片手に歓談していた。恭平の顔を見てどてらのひろさんが声を掛けてきた。客引きどうしで話す内容は決まっていて、その日の状況、成果についてだが、ひろさんは下らない冗談や昔話ばかりで、仕事中は常に緊張している恭平の神経を和らげ癒してくれる。
飲み屋風俗の客引きの仕事自体はさほど難しいものではない。導入の単価もたかだか知れている。慣れは必要でも真面目にさえやれば誰にでも出来る仕事だった。しかしどの客引きも常にその人なりの緊張感の中にいる。
いつパクられるか?わからない。
その日いくら稼げるか?わからない。
いつどんなトラブルに巻き込まれるか?わからない。
この3つのわからないが要因でどの客引きも常に躁鬱のトランス状態にある。引いては喜び、ミスっては落ち込む。自身の心理や感情をうまくコントロール出来ない人間には不向きな仕事だ。
ひろさんの様に長きに渡って客引きをしてきた人間にとって恭平たちの様な新参者は本来邪魔な存在。客引きは本来人目を忍んでこっそり目立たずやるものだった。それがバブル崩壊で経済状況が一変し店前や、路地裏でやってた呼び込み、客引き行為がどんどん前へ出て行ってお客の争奪戦が激しくなり更にに客引き専門の集団が登場した。
昔は客引き自体が少なかったのでそれでも結構稼ぐことが出来ていたのだが格差社会や不況のあおりで行き場を失った若い世代がこの“客引き市場 ”に参入をして年寄はどんどん隅に追いやられているのが現状だった。
「ところで恭平さんとこの人は結構カジノで派手にやってるらしいじゃないですか?」
唐突にひろさんが切り出した。
「へえ~誰ですかね?俺は知らないなぁ~」
「あっ、これは言うてはいかん事を言いましたかな?」
と苦笑いを浮かべてひろさんは顔を背けた。すかさず恭平は
「いや、そんな事はありませんよ~、だって稼いだ金で何をするかはそいつの勝手でしょ?ただ派手にやってるんだったら一つ冷やかしてやらんと、そうでしょ?誰ですか?それは」
「こうじくんと、あの人誰でしたっけ?おたくの斉藤さんとよく行ってるらしいですよ。」
「こうじと斉藤かぁ~、ひろさん見たんですか?」
ひろさんは先ほどとは打って変り落ち着いてタバコに火を付け一服大きく吸い込み吐出しては胸を張り恭平を見つめ言い放った
「見るも何もカジノの店主に聞いたから間違いないですわ、わしは30年この街におりますからこの街の事やったらなんでも入って来ます。わしのネタに狂いはねえですよ、恭平さん」
こうじと斉藤がカジノか・・・
斉藤は木島が連れて来た人間で本来は恭平の3か月先輩にあたり、前の責任者の時はサポート役をしていたが自身の成績はまったく芳しくなかった。年齢は恭平より上の33歳。恭平が現場を見る事になった時、木島から斉藤は自分が見るので気にしないでくれ、と頼まれ恭平は了解をした。
体を温めるために街から離れたラーメン屋に入り思案した。
斉藤にはそんな金があるわけがなく、おそらくこうじの金を使って斉藤が引率して出入りをしているのだろう、と。斉藤は北九州の出身で小さな組織に身を置いていたが理由は定かでないが、ケツを割って妻子も放りだして雄琴に流れ、その時の知り合いの紹介で上京し吉原で勤め、木島と知り合った時は新橋のラウンジでボーイとして働いていた。
現在の住まいも木島が段取りをつけて本人の名義で借りてはいるが、稼ぎの額から考えて払えるわけもなく、木島が立て替えている、実質恭平たちが稼ぎ出した金で負担しているようなものだった。木島に報告相談するしかない、恭平はそう考えた。
恭平は、午前1時を過ぎていたので中間の集計をする事にした。
けんじ、やまさん、甲田の3人からは今日は失礼します、のメールが入っていた。基本的に何時に帰っても本人の自由にしていた。本人が満足出来ているかどうかが問題で先の3人は十分な稼ぎを上げている。10時に来たこうじも7組上げていて今日もトップだった。集計をまとめたメモを書き上げた時に恭平の携帯が鳴った。
番号非通知になっていたが恭平は出ることにした。
「恭平元気か?」
聞き覚えのある声だった。高校の同級生で恭平が不動産に従事していた時の取引先のファンドの担当者でもあった手島健吾だった。
2005年の9月、恭平は当時勤務していた大阪市内に本社があった不動産会社の業務命令で新たに東京支店を開設するために転勤上京した。
恭平にとっては6年ぶりの東京だった。
証券化の名のもとに新たに起きた投資スキームは世界中へ拡がり、日本の不動産業界でもファンドを中心として起こったミニバブルは結局のところ東京一極集中型の様相を呈した。恭平の任務は都内一等地の大型物件の売買であり、それをするための営業基盤、要は買い物件の情報網と出口、売り先を可能な限り早急に開拓する事にあった。
会社の作成したファンドリストの中に手島が勤務する新興ファンドの名前があり早速アポイントを取って挨拶のために訪問した時に出てきた仕入担当者が高校時代の同級生であり同じ部活の仲間だった手島健吾だった。
手島は早稲田に進学した後、大手スーパーゼネコンに就職したエリートだったが2005年に新興の日系ファンドに転職した。手島の求めたものはステイタスはもちろんの事だが金だった。何十億、何百億の物件を扱うファンドマネージャーとなれば何千万、場合によっては億の収入も可能だった。
しかし手島の思惑は脆くも崩れた。サブプライム問題に端を発した不動産向け金融の引き締めは実態的に自転車操業であった新興ファンドの経営を破たんさせた。手島の会社も最終的には2009年に会社更生法の適用を受ける事になったが、手島自体は昨年の年末に解雇されていた。
恭平は会計を急いで済まして店の外へ出た。
「おう健吾、久しぶりだな?今何してんだよ?」
手島の声のトーンはどこまでも低かった。
「とりあえず、滅茶苦茶でさぁ、嫁さんも実家に帰っちゃったよ」
不動産売買という色が付いてしまった手島にとって、多くの就活をしても自身が希望する新たな仕事を見つける事は容易ではなかった。
「おまえは良いよな?そんな事でも食っていけるんだから」
「なんだったら、おまえも客引きやるか?今人が少ないんだよ」
「バカ、そんな事やるんだったら首吊って死んだ方が良いよ」
「そうか、よけいなお世話だ、暇だったら今度飲みに来いよ」
「バカキャバクラ嬢なんて相手出来るか」
手島の言いぐさに多少の腹立を覚えた恭平だったが、こいつは今おそらく人生で初めての挫折の中にいる、若くして既に何度も挫折を経験している恭平は手島と口論する気になれなかった。
「そうだ恭平、友紀子の事知っているか?」
「なんだよ、親父さんの事ならテレビで見たけどな」
「じゃなくて本人の事だよ」
「・・・・・・・・・」
「友紀子、おまえがいる街でホステスしてるはずだぞ、俺見たんだよ」
「付いたのか?」
「そうじゃなくて・・・変な親父と腕組んで歩いてたんだよ。あれは間違いなく友紀子だよ、あんな娘滅多にいないもん」
「俺には関係ねぇ。」
「だけどおまえ友紀子の事今でも・・・・」
「馬鹿言うなって!俺は今外人女と同棲してんだ!」
「そうか、でも友紀子一段といい女に・・」
「うるせえって、なんだよ?おまえ、だから遊びたかったらいつでも電話してくれって!」
「金髪で良い女いるか?」
「おお、死ぬほどいるよっ!なんだ、そんなのが良いのか?」
「金髪の女を無茶苦茶にしてやりたいんだ!」
「なんだおまえ変態じゃねえか・・・・・とにかく良かったら電話くれ、じゃあな。」
なんだあいつ糞変態野郎・・・・・恭平は甚く動揺した。
この十年間、日々の事に夢中になり、懸命に生きて来たのは友紀子と友紀子との過去や思い出を忘れるためだった。しかし恭平には忘れる事など出来なかった。いくら忘れようとしても忘れられない友紀子がホステスをしていて同じ街にいるかもしれないという。
友紀子の父白河清蔵は新興不動産ファンドを経営していて恭平の会社のリストに名前を連ねていたが、その時は迷わずリストから外して訪問済リストへ移動して会社にメールで報告をあげた。
清蔵の会社が経営破たんをして清蔵が渋谷の本社社主室で首吊り自殺をしたという報道は、ジュリアに介抱された夜にジュリアの部屋のテレビで見た。ジュリアにとってその時の恭平の様子はとても印象的だった。
頭に裂傷を負った状態だった恭平は処置をしてくれたジュリアに感謝をし、極めて陽気に振る舞っていたのだが、そのテレビ報道を見た途端極めて深刻で痛切な表情に変わりただじっと画面に引きつけられて行った。夜の世界の恭平がまったく関係のないと思われる不動産会社の社長の自殺の報道になぜそんなに心を動かされるのか?もちろんジュリアは不思議に思って恭平に尋ねたが、恭平はただ黙って見ているだけだった。
恭平の胸中には友紀子の家庭を襲った悲劇、友紀子の父清蔵に対する哀悼の感情はもちろんの事だが、今直ぐにでも友紀子のそばに駆け付けたい、そして自分の出来るあらゆる事で友紀子を助けたいという思いと、自分にはそんな資格があるわけがない、忘れなきゃいけないという葛藤が渦巻いていた。
恭平はその翌日の朝、、ジュリアに、一緒に住まないか?と尋ね、ジュリアは受け入れ二人の同棲生活は始まった。
瞼に冷たいものを感じた恭平が空を見上げると小さな白い雪が、ゆっくりと、どこまでもゆっくりと遥か空の彼方から落ちて来ていた。遠くを見やると離れた淫らな歓楽街の明かりがその雪たちを照らしていて恭平にとってはとても綺麗に感じられた。
大都会の歓楽街とはいえいずれは友紀子と再会する時が来るのだろうか?友紀子は今恭平の事をどう思っているのだろうか?会ってしまったらどうすればいいのだろうか?そんな思いと同時に、初めて友紀子と出会った時から約10年前に離別した時までに二人の間に起こった出来事がフラッシュバッックの様に恭平の頭を駆け巡った。
時計は午前2時を回った、その時ジュリアからの着信が入ったが恭平は一瞥しただけで出る事を躊躇い一人雪を眺め続けた。
恭平と友紀子、二人の出会いは恭平が高校3年生の十八、友紀子は女子高1年生の十五の春のことだった。