第一話
「どうしていつもこの部屋に居るの?」
そう聞くと、彼は悲しそうに苦笑して、アイネの頭に手を置いた。
そうして、少し時間を稼ぐように、くしゃくしゃとアイネを撫でた後、彼は言う。
「出られないんだよ。僕は、ここに居なきゃいけないんだ」
幼心に、気付いていた。
出られないのではなく、出たくないのだと。
十六歳の誕生日を迎え、貴族であるアイネ=レオリックは父の仕事──政治に、一層興味を持った。
今内政を取り仕切っているのは、十四代目の当主であり彼女の父である、ジーク=レオリック。
彼が健在の今、自分の仕事は限りなく少なかったりする。
彼が十六の頃には、戦場で指揮を執ることだってあったのにだ……いやまあ、その頃彼女は生まれていなかったので、どんな風だったのかは、知る由もないのだが。
幼い頃から語られてきた武勇伝は、アイネに次期当主としての自覚を持たせていった。
自分だって、何か人々のためにしたいのに──と。
アイネは日々、無力感にさいなまれている。
まあ有体に言って、
「私だって国のために何かしたいです! お父様の手助けしたいんですっ!」
アイネは、そんな父親想いの「良い子」だった。
「十六歳おめでとう」
「ありがとうございます」
何もない部屋だった。
厳密に言えば、素朴な照明と窓、素朴な造りのベッド。それに当然だが、出入り口は存在するが。
生活のための必要最低限……も、微妙に満たしているか満たしていないか。
そんな、豪勢な屋敷には似つかわしくない部屋に、二人は居た。
一人は、アイネ=レオリック。
いつにも増してめかし込んだ彼女は、本来ならば彼女に似つかわしい屋敷の中で、とても浮いていた。
そんな彼女も、今日で十六歳。
「ここにはもう来ないように言ったろう」
二言目にはそんなことを言う彼に、アイネはため息を吐く。
「そんなつれないことを言わないでください。私だって寂しいんです」
「だからと言ってむくれない。十六になったんだろ?」
「……むくれてません」
そう言ってそっぽを向く彼女を見て、男はくつくつと笑った。
顔は明後日の方向をむけたまま、アイネは横目に男を見る。
伸ばし放題の、この辺りでは珍しい黒髪に、黒い瞳。
麻で出来た黒染めの簡素な服装に、装飾品の類は一切着いていない。模様だってない、全くの無地だ。
他にも気になる点はいくつかあるが。
謎の多い──と言うよりは、存在が謎。
この男と知り合ったのは、アイネが十三歳の時。
彼女が自分の部屋を与えられることになって、使用人に荷物を運ばせていた時である。
その最中に、この部屋を見つけた。
何の変哲もない、部屋に続く扉。
その中の一つに、彼女は関心を持った。
何故かは分からない。まあ、恐らくは自分で荷物を運ぶのが嫌で、どこでもいいから、少しの間身を隠したかったのだろうと思う。
新しい自分の部屋は、元の部屋からかなり離れていた。
そんな疲れること、屋敷の人間にでもやらせておけばいい、ということである。
そんな考えは彼の父であり、当主であるところのジークが却下したのだが。
何せ広い。
もはやちょっとした引っ越しだ。
ともあれ、彼女は引っ越しが終わるまでの間、その部屋に身を隠すことにした。
入ってみると、驚いた。
何せ物がほとんど何もない。
性格上ものをあまり置きたがらない父の部屋にだって、美しい絵画の一枚や二枚は飾られているのに。
アイネは驚愕し──そしてまた、関心を持った。
この部屋の主に。
ベッドに腰掛けながら、驚いた顔でこちらを見る、少年に。
その日から、暇があればその部屋を訪ねた。
彼の部屋も数回『引っ越し』をしていたので、ある日突然居なくなってしまったかのように思ったこともあったが。
その都度探した。
彼女は気になったことはとことん追求するタイプの人間である。
現在、アイネ=レオリックは十六歳。
彼は十七歳だという。
それ以外は、名前くらいしか分からなかった。
歳と名前。見た目から分かる容姿。話すと分かる温和で、少し意地悪な性格。
それくらいが、彼女の知っている、彼の情報。
「お茶が飲みたいです」
「この部屋にそんな洒落た物はない」
彼がすかさず返事を寄越す。
「言っとくけど、外に出ようってのも駄目だからな。何度も言ってるように」
心を読まれたように言われる。
自分のことをよくも「つれない」などと言えたものだ、とアイネは思った。
「どうしてですか?」
「自分で考えてみよう」
そう言いながら彼は、窓際に歩いていく。
「そう言われましても……」
分からない物は分からない。偶になら外で見かけることもあったし。
こうして外を見る表情をうかがっても、決して外が嫌いな引きこもりという訳でもないのだろう。
「……まさか」
ふと、一つの可能性に思い至る。
それは思い付いてみれば、どうして今まで気付かなかったのか、と思うほどに説得力があり。
「まさか」と言ったが、不意に心中に浮かんできた推測は、その三文字で片付けるには、あまりに確信めいたものを伴っていた。
「どうした? 何か分かったのか?」
何も言わないアイネに、彼は振り返って。
それを見て彼女は、思い切りをつけた。
「私のこと、嫌いですか?」
「なんでそうなる」
彼は溜め息を吐くと彼女の額に人差し指を突き立て──。
「あうっ」
「そんな目をしないでくれよ。俺が泣かせたと思われるだろ。そしたら君の父上にお叱りを受ける」
言いながら、ぐりぐりと指を回す
「あ、あう……」
自分でも気付かない内に、かなり切羽詰まった表情をしていたらしい。
急なスキンシップに目を白黒させながら、彼女はとりあえずその事実に気付き、後ろを向いてハンカチを目に当てた。
「嫌いじゃない――まあ、どっちかと言うと好きな方だから、そんなことはもう言うな」
そう言って彼は、アイネの頭を撫でる。
「は、はい」
恥ずかしいことを言われた気がするが。
いや、なんでもないことなのだろう。友愛。親愛。その類義語が彼女の脳裏を駆け抜けた。
「そろそろ本当に戻りな。誕生日に本人が居ないんじゃ、パーティも興醒めだろ?」
「……」
どうして誕生パーティを抜け出してきたことがバレているのだろう。
その疑問を「まあこの男なら」という一文で片付け、彼女は頷いた。
「また来ます」
「もう来るなって」
そんないつも通りのやり取りを最後に、彼女は部屋を出た。
「子供扱いです」
たった今出てきた扉に寄りかかり、ぼそっと、柄にもなく独り言。
十六になって、彼の見る目も少しは変わるかと思ったが、そんなことはなかったらしい。
これまで通り、子供扱いである。
どういう風に見てほしい、という願望が、彼女にあった訳ではないが。
ああ、そうだ。
この感情。
自分が彼に抱いている感情は、多分、対等でありたいという気持ちだ。
今だって、この屋敷全体で見れば、自分と彼は対等な関係を気付けているように思うが。
彼は自分のことを沢山知っているのに、自分は彼のことを何も知らない。
それが、アイネ=レオリックを苛立たせていた。
そこまで考えて、彼女は慌てて化粧室に飛び込んだ。
そして、鏡を見る。
「……やはり」
そこに映るのは、白い肌に栗色の長い髪を結いあげた、少女の顔。
客観的に見て美しいと言っていいと、自分でも思う容姿。
その目が、少しだけ、充血していた。
「いけませんね」
今日は大事な日だ。
自分の誕生パーティには、多くの来客がある。
それに応対するときは、やはり、最も美しい自分でなければならないと思うから。
「しっかりなさい」
こんなことでは、あの男にも、自分のことを話してもらえるはずもない、と。
あの男 サクラ・シロサキと仲良くなりたいと思うが故に。
鏡の中の少女は潤んだ瞳で、自らを叱咤した。