私と上司様の関係図
あっさり、時間が経ちました。
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―――――― それは私が正し屋での仕事に慣れ始めた時のこと。
かすかに聞こえてくる蝉の鳴き声と透明感ある涼しげな風鈴の音色に私は口元を緩めた。
時折頬を撫でる夏の匂いを纏った風がすごく気持ちいい。
その心地よさに、思わずふぃーっと疲れ切ったお父さんの様な溜め息を付いてごろりとソファの上で仰向けになる。
くわぁと口元を隠すことなく欠伸をしたところで、仕事や暑さの所為ぐっすり眠れてなかったことをぼんやり思い出した。
「久しぶりの忙殺仕事量だったなー…オヤツ食べる時間もなかったし。食べたけど」
多量の仕事のお蔭である種の限界を超え、新しい世界の扉を開けそうになったのも記憶に新しかった。
ちらっと自分の仕事机をみやると、書類の山は後一つ。
実は「結構頑張ったじゃないか!」と区切りという名の見切りをつけ、只今お昼寝の真っ最中。
つまり開き直りだ。
試験前とかテスト前に良く見られるい潔い現実逃避。
本当はちょこ~っとだけ休憩をとるつもりだったんだけど気がついたら、うとうとお昼寝を満喫していたのだ。
開け放たれた窓から入ってくる涼やかな風も心地がよくて肌触りのいいソファに擦り寄る。
高いだけあって寝心地も文句なしの一級品だ。
肩の力を抜いてまどろみから再び深い眠りに入ろうとした時、声がした。
「優君、口が開いていますよ」
優しく穏やかで物腰の柔らかいその声には、例えようのない色気が含まれて凄く居た堪れない。
気にしたら終わりだ、これは幻聴なんだと自分に言い聞かせて目を閉じる。
うう、こういう時こそ自己暗示!!
声が予想以上に近くから聞こえてきたとかそういう細かいこともこの際無視する。
「(ん?でも確か…まだ外出してるよね?戻ってくるのもまだ一時間はある筈だし)」
ほんの数秒で様々な葛藤を繰り返した私は『泥棒だったら困る』という結論を出して、うっすら目を見開いた。正し屋に現金は殆どないから盗まれるとしたら目のつくところにある高い物品たちと高級菓子。
すこし霞んだ視界に広がる見目美しい青年の、キラキラしい満面の笑顔。
ザッと血の気が引いて、脂汗が吹き出してきて反射的に口元が引きつっていくのがわかる。
頭の中では非常ベルがガンガン鳴り響いて、眠気は一瞬にして吹き飛んだ。
ちなみに、さっきまで煩いほどに鳴いていた蝉の声も聞こえなくなって代わりに物凄く早い自分の心臓の音だけが聞こえてくる。
「随分と気持ちよさそうに眠っていましたね」
縁なしの眼鏡を中指で持ち上げ、位置を正してから彼は改めてにこりと微笑んだ。
鉄紺色の着流しと藍色に白の縞柄が入った上品な角帯は、彼自身に馴染んで違和感なく服として成立している。
間違いなく一般庶民が気軽に見に付けられるような値段ではないであろう着物を現実逃避気味に眺めていた私は、ふと違和感を覚えた。
その違和感の原因は、彼の手に不釣合いな緑色の物体が入ったチューブが握られていること。
その内容量は新品とは思えないほど少ない。
(え、何でわさび?)
疑問を持った瞬間、私は物凄い衝撃に見舞われた。
鼻から脳天に抜けるような独特かつ強烈な香りと刺激…
「―――――――――――……っ!…ッ、……ッッ!」
悲鳴を上げることすらできなかった。
鼻から頭のてっぺんに突き抜けていくどーしよーもない強すぎる刺激に鼻と口を抑えてソファの上でのたうち回る。
未知すぎる強烈な刺激をに、体中からいろんな液体が吹き出てきた。
……いや、あの汚いとか言わないでね。
わかってる、わかってるけど、不可抗力なんだってば!
ぼやける視界と薄れることのない痛みに悶絶している私に襲いかかった衝撃。
苦しみでのた打ち回った結果、勢い余って床に落ちたんです。
でも…その痛みすら口腔内や鼻で感じる強烈な刺激には敵わず、気休めにもならなかった。
どれだけ強いんだわさびぃいいぃぃいいぃぃいいい!!!
怒りを込めておもいっきり須川さんを睨みつけて声にならない声で講義する。
「すみません、何を言っているのかさっぱり分からないんですが」
悶絶している私に向けられるのは、無駄に煌めいた笑み。
心の底から楽しそうに微笑みながらチューブわさびを袖元に仕舞い、私がいるソファとは反対側のそれに腰を下ろす。
床に這いつくばり、のた打ち回る私をそれはそれは楽しげに観察している彼に水を差し出すとかそういう当然の配慮は一切ない。
「(み、水を!ウォーター…をッ!)」
ボロボロ泣きながら(わさび恐るべし。元々ダメなのに更にダメになったのはこれが原因だと思う)私は、今までに類を見ないほどの俊敏さを発揮して給湯室に猛進した。
ものすごい形相(想像だけど間違いなく凄い顔だったと思うんだ)で給湯室に飛び込んで、近くにあった丼を引っつかむ。
「(みず水みず水みずミズみずミズみず水ぅぅぅううううう!!!)」
蛇口を思いっきり開いて丼に注ぎ、迷うことなく一気に煽った。
勢いがつきすぎてちょっと顔や服が濡れたり、軽く咽たのはご愛嬌。
それにしても丼から水を飲む……実に間抜けで品のない絵面なんだろ。
この時はそんなこと気にもしてられなかったんだけどさー。
少しわさびが流れた私は、冷蔵庫から冷えた緑茶を取り出し再び丼に注いだ。
ワサビ独特の刺激が洗い流されていく感覚は多分暫く忘れないだろう。
あの清々しさはちょっとした快感だ。
「おんのぉれぇ、ワサビめ……ッ!」
ちくしょう、と八つ当たり気味に緑茶を飲み干したところでこの惨状をもたらした張本人からお茶の要請がかかった。
できるなら無視したい。
寧ろ積極的に聞こえなかった振りをしてやろうかとも思った。
思ったけど、仮にも上司で雇い主だ。
私は涙を呑み、渋々ガラスの急須に冷えた緑茶を注ぐ。
お茶を飲む為のグラスも添えてお盆に載せた。
丼でなんか出しませんよ……ホントは凄く出したいけど。
お盆を手にやりきれない怒りを必死に押さえ込んで、彼の目の前にお盆を置いた。
「……ど・う・ぞっ!」
目の前にセッティングしてやらないんだから!自分でやればいいんだ!
やや乱暴な動作で彼の前にお盆を置いた私は顔を見ないようにしながら、自分が座っていたソファにどかりと腰を下ろす。
「ありがとうございます……ご機嫌斜めのようですね。どうしました?」
「(アンタの所為でしょーが!)どこかの誰かさんが気持ちよく眠っていた私の口にワサビをしこたま突っ込んでくれた所為です……っ!」
密かな私の嫌がらせもなんのそので、「ああ、大変でしたね。瞳が潤んでますよ」なんてケロッと私に言うものだから、キッと彼を睨みつけた。
それでも、目の前にいる眼鏡をかけた和服美人は飄々と
「それにしても、そんな酷いことをするのは何処の何方でしょうかねぇ」
お茶を優雅に飲みながら他人事のようにおっしゃった。
「(こ、この鬼上司ぃっ!)」
何か言ってやろうと口を開いた瞬間、今度は固形物が押し込まれる。
目を白黒させていると、人の悪い笑みを浮かべた上司が
「帰りに買ってきた"福丸亭"のイチゴ大福です。ここ一週間頑張ってましたからご褒美に――――…美味しいですか?」
「(く、悔しい!ぬうぅうう、すっごく、悔しい!で、でも)……おいひい、れふ」
私の馬鹿ぁぁぁあ!と内心でのた打ち回りながら、口の中に広がる果物と餡子の素敵コラボレーションに完敗。
柔らかくモッチリとした舌触りの求肥はほんのりと上品な甘さで、中の餡子は舌触りのいいこし餡。
大粒で甘味の強い苺を引き立てるように調節された甘味は流石としか言いようがない。
普通のいちご大福は餡子の甘さ加減を間違うと、中の苺の良さが半減してしまうんだけど……本当に絶妙な甘さ加減だ。
もぎゅ、もぎゅっと幸せな気分でかみ締めながら味わっていると、今度は笹の葉に包まれた包みが目の前に差し出された。
「それはよかった…私の分もどうぞ」
「!い、いいんですか?ほ、ホントに?」
差し出された笹の包みを開けるか開けないか、の所で何とか踏みとどまりチラリと彼の様子を窺うと穏やかな笑みを浮かべて首を縦に振った。
現金な話だけど、私はこれによって『ワサビ事件』を水に流すことに決定。
ち、小さなことを気にしてるなんて大人としてダメだもんね!
切り替えが大事なんだよ、切り替えが。
それに『福丸亭のイチゴ大福』といえば、一日三十個しか作らない限定品。
手に入れるのが酷く難しいことで有名だ。
あまりに数が少ないものだから朝方、店の前にちょっとした行列が出来たりする。
値段も一つで六百円もするし。
べ、別に甘いモノに釣られたとかそういうんじゃない!
ち、違うんだ。ちょっと心が広いだけだよ!
これまた絶品な笹団子を平らげ、お茶を飲みながらチラッと半目で須川さんをねめつけた。
「…でも、流石にわさびをしこたま口の中に突っ込むのはひどいとおもいます!」
「では私からも尋ねますが、三日三晩どころか一週間も丑の刻に帰ってきて鳥が鳴く前に起き、仕事をしてようやく帰ってきたのに出迎えるどころかソファで寝こけている部下を発見したらどうおもいます?偶然目についたわさびをお仕置きに使っても仕方ないかな、とは思えませんか」
「ぅぐ…!そ、それは…その、すみませんデシタ。でもワサビはもうやめてください…鼻いたい」
確かに、私が上司の立場だったらソファーひっくり返すか氷水を頭からぶっかけるくらいはするかもしれない。そりゃそうだよね…普段から色々過激な須川さんだもん、ワサビくらいつっこむよね。酷いけどしかたない。も、もう昼寝はしない!しても許可を取ってからしてやる!
神妙な顔で頭を抱えたのを見て、須川さんが必死に笑いを噛み殺していたことを私は知らない。
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わさび事件です。
実際にやられたら確実にキレてもいいレベル。