希求 2
ザウルに手を引かれ人混みをすり抜けて進んだ先では、三人の老婦人達が楽しげに談笑していた。こちらに気付かない様子の彼女達に一歩近付き、ザウルが静かに声を掛ける。
「お祖母様……」
その呼び掛けに、談笑していた夫人達の内の一人が振り返った。とても穏やかな表情で、纏う雰囲気も柔らかい。こちらまで暖かな気持ちになるその笑みに、セリアはきっと彼女がザウルの祖母なのだと悟る。
すると、彼女に続いて他の婦人達も振り返った。そしてザウルと並ぶセリアの姿を捉えた途端、好奇心に瞳を輝かせる。
「まあ!相変わらず、セレスティーナのお孫さんは綺麗ね。少し見ない間に、また一段と美しさに磨きがかかって」
「フロース学園のマリオス候補生にまで選ばれたんでしょう。羨ましいわ。とても優秀で」
途端にザウルの賞賛を始めた婦人達に、ザウルは丁寧に会釈する。すると、まるで年頃の娘の様に彼女達も顔をほころばせた。
「本当に素敵で。男の子にしておくのが勿体ないくらいよ」
「そうねぇ。でも、今日は可愛らしいお姫様がご一緒じゃない」
唐突に向けられた視線に、セリアは慌てて頭を下げる。その様子に、婦人達はますます興味を引かれたらしい。
「まあ、なんて愛らしいの。最近の女の子はもっとキツイ感じがするのに」
「そうよねえ。服も媚びている感じがしないし。最近は、若い子達がどんどんと派手になっていくから」
「そうなのよ。私の孫もね、もっと大人しい服にしたら良いのに、大胆に肌を見せて。こういう子を見習って欲しいわ」
「流石ザウルさんね。こんなにいい子を連れてくるなんて。本当に羨ましいわよ、セレスティーナ」
どうやら、セリアの地味な風貌は老婦人達には好評らしい。けれど、セリアはそれに何と返したら良いか解らず、取り敢えず不自然でない程度の笑みで答える。
そうしていると、ザウルの祖母がはしゃぐ二人の言葉を遮る様に前に出た。
「二人ともそれくらいに。ザウルにお嬢さんを紹介して貰わないと」
そう言ってザウルとセリアを少し離れた場所へ導く。後ろの方で未だ好奇の混じった視線を投げかけてくる婦人達を一瞥するとザウルの祖母、セレスティーナは僅かに苦笑した。
「御免なさいね。この齢になると、お互いの孫の成長が楽しみになってしまって」
「あ、いえ。そんな……」
謝罪されてセリアは大いに戸惑った。彼女達の言葉に悪い気はしなかったし、何より互いに仲の良い間柄だからこそ、その身内にも似たような愛情を覚えるのだろう。それはむしろ喜ばしいことだ。
「貴方がセリアさんね。始めまして。ザウルから話を聞いていて一度お会いしたいと思っていたのよ」
「あの、今夜はお招きありがとうございました。お誕生日、おめでとうございます」
ニッコリと優しく微笑むセレスティーナに、セリアもそれまでの緊張が幾らばかりか和らぐ。きっと、ザウルの穏やかな気性は祖母譲りに違いない。
「お会い出来て嬉しいわ。中々若い人達の噂までは聞こえてこなくて。学園でのザウルはどうなのかしら。少し頼りないのでは、と心配しているのだけれど」
「そ、そんな。頼りないなんてとんでもない。いつも助けられてばかりで。何時も気を使わせてしまって、むしろ申し訳ないくらいです」
「そうなの。よかったわ。故郷のことで中々心を決められないって悩んでいるから、学園でもそうなのじゃないかと」
「えっ?」
予期していなかった話題に、セリアはパチリと瞬いた。そこで思い出した様にハッとすると、慌てて横のザウルに視線を向ける。視界に映ったその表情は、何処となく固いように見えた。
「お祖母様。その話は……」
「でも、貴方は何時だって一人で抱え込んでしまうもの。仲の良いお友達に相談する方がいいでしょう」
そういってセレスティーナは視線を再びセリアに合わせる。その何かを期待する様な瞳に、返す言葉が見つからずセリアは大いに戸惑った。
「学園での暮らしが終わるまでには決めて貰わないと。私は急いではいないのだけれど、故郷のお父上はそうも言ってられないみたいで」
「……そう、なんですか」
聞かされた事実に、セリアは改めてザウルに決断を強いる時が迫っているのだと知った。以前に聞いた彼の故郷と、そこで待つ父親の話。彼は一体今、どんな心境なのだろうか。
チラリとセリアが視線をずらせば、予想以上に思い詰めた表情。端から見ても解るザウルの心痛に、セリアはもしや踏み入ってはならない部分に首を突っ込んでしまったのでは、と顔を青くする。
ザウルだって十分に悩んでいるのは知っているのに、なんだか余計に追いつめてしまったのではないか。
焦りからオロオロと挙動が不審になるセリアの横で、ザウルは沈んで行く自分の気持ちを悟られまいと誤魔化すように俯き、一言断りを入れてから静かにその場を離れた。
庭の端に、四本の白い柱が美しい東屋がひっそりと立っている。その中心に置かれている白い石造りのベンチに腰掛け、両膝の上に置いた腕に頭を預けたザウルが俯いたまま考えに耽っていた。
解らない。どうしても、自分のするべきことが見えないのだ。好きな様に生きろ。悔いを残すな。己の望みのままに。周りから散々聞かされた言葉が、再び脳内で渦巻く。
けれど、どんなに考えても、本当に解らないのだ。自分の望みのままに生きろと言われるが、ならば自分は何を望んでいるのだ。
ー 父を悲しませたくない。家族を放っては置けない
ー この国に残りたい。友と離れたくない
どちらも自分の望みだ。どちらを選んでも必ずもう一方に想いは向く。なのに、時は無情に過ぎて行くばかり。
こんな弱々しい姿、特にあの少女には見られたくない。
そんな考えと同時に、ふとセリアのことを思い出した。
彼女は、迷うことは無いのだろうか。何時いかなる時も後先を考えず、ただただ己を信じて真っ直ぐに突き進む。その光がとても眩しく、そして温かい。
けれど、己の行いが招いた事態に後悔し慌て、暗い表情を浮かべる姿も度々見た。なのに、それでも彼女は止まらない。
彼女の様な強い望みが無い為なのだろうか。国に対しても、家族に対しても。後悔するからと立ち止まってしまう自分は、弱いのか。
暗い考えにズルズルとザウルが引き込まれそうになっていると突然、ピチャンと水音がすぐ近くで跳ねた。それに続いて空気の温度が下がり始める。ポツリポツリと目の前で落ちる水滴の数が増え、気付けば小振りの雨が辺りを包んだ。
「……こんな時に」
思い悩んでいる時に、更に自分を迷わす要因が増えてしまった。雨を見る度に思い出す、母の涙。そして、父の涙。
冷えた空気が肌を刺す感覚に、ザウルは再び表情を暗くした。
やはり、故郷を捨て切る事など出来ない。雨を見る度に、自分は家族を想うだろう。しかし、本当にそれで良いのか。故郷へ戻れば、毎日でもこの国を思い出すのは解っているのに。
頭を抱えたくなる様な状況に、数日前の祖母の言葉が蘇る。
『全てから目を瞑り、耳を塞ぎ、感覚を捨て。世界から自分を切り離してしまいなさい。その何も無い世界で、一番最初に浮かんだものが、きっと貴方の答えです』
本当にそんなことで心が決まるのだろうか。未だ半信半疑であるが、今は藁にも縋りたい気持ちだ。そう思い、ザウルは俯いていた顔を上げる。ベンチの背もたれに頭を預け直し、体から力を抜いた。
世界から自分を切り離す。そんな芸当どうすれば出来るのだろうか。そう考えながら、懸命に全てを忘れようと試みた。けれど出来ない。グルグルと同じ悩みが思考を空回るばかりで、意識を手放すなど、まるで無理の様な気がする。
「ザウル?」
唐突な呼びかけに、途端に現実の世界に引き摺り戻された。そこは、先程までと何ら変わらない。庭の東屋で、雨が振っていて、そして何より自分はまだ何も掴めていない。
けれど、違っている事が一つだけある。それは視界に映る、キョトンとした表情の栗毛の少女。
「セ、セリア殿……?」
「よかったぁ。あのまま戻って来なかったから、少し心配になって」
「あ、すみません。ご迷惑をお掛けして」
「そんな。気にしないで」
ニッコリと微笑むセリアの髪は、僅かに濡れている。髪だけでなく、枯草色のドレスの肩の部分も、水を吸ってシミを作っていた。
そこでザウルはハッとする。まさか、雨の中自分を探してここまで来たのか。それ程激しく振ってはいないが、それでもその中を歩けば濡れてしまう。にも拘らず、何故彼女は此処まで来たのだ。
相変わらず、自分の体を労らない。とザウルは自分の上着を脱ぐと、それを優しくセリアの肩に乗せてやる。
「えっ!い、いいよ。そんな……」
「冷やしては御体に触ります」
「そんなに寒くないし。これくらい放って置けばすぐ乾くよ」
「いけません」
肩に乗せられた手から伝わる力が強まり、セリアは観念してそれを受け取る。掛けられた上着を落ちない様に手で押さえると、そのままベンチに座らせられた。
「貴方は、もう少しご自分を大切にして下さい」
目の前に立ったザウルが髪に絡まる雫を拭う様に、少し腰を折って濡れた栗毛を一房撫でる。
「今は、ザウルの方が心配で」
「……セリア殿」
「私は何も出来ないけど、でもやっぱり」
その後、セリアは戸惑う様に一度口を閉じ、そして意を決した様に再び口を開いた。
「……ごめん」
「何故、貴方が謝られるのですか?」
「本当なら一緒に考えなきゃいけないのに。でも、それだと私は、どうしてもザウルにここに残って欲しいって思ってしまうから。だからザウルの力になれなくて」
始めて彼の胸の内を聞いた時、自分はまだ彼等をよく知らなかった。だから、マリオス候補生といえどきっと悩みがあって。だからこそ、彼の望む様にすれば良いと。それでなければ悩んで悔いを残さぬようにしろと言った。
けれど、もうセリアにとって彼は仲間の一人だ。もし彼が国に帰ることを望んだ時、それを笑って送り出してやれる自信が無い。素直に白状すれば、彼にこの国に留まって欲しいと、そう望んでしまう。
「ごめんなさい」
スッとセリアが手を伸ばし、長く外に居た所為かすっかり冷えきってしまったザウルの頬を包む。
その手から伝わる温もりが心地よく、ザウルは思わず他の全てを忘れてしまう。感覚の全てがその温もり一つに集中し、他の何もかもを放棄するかの様に。
分け与えられる体温に身を任せてしまえれば、と。それ以外の考えが浮かばない。
確かにその瞬間、ザウルは他の全てを忘れ去り、たった一つを望む心だけが残された。
「セリア殿。自分は……」
外で振っていた小振りの雨が、急に勢いを弱める。それを皮切りに、空を覆っていた雲の間から幾筋かの光が漏れ始めた。
「自分は、離れたくありません」
誰よりも愛しい、この少女の傍から。
「……ザウル?」
「離れません。自分はこの地に残ります。それが、自分の想いです」
唐突なザウルの言葉に、セリアは一瞬戸惑う。まさか、無理をしているのではないか。自分の我が儘が、彼を追い込んでしまったのではないか。
そんな風に考えたが、どこまでも柔らかく、穏やかに自分を見据える琥珀色の瞳が、嘘ではないと語る。
「そっかぁ…… よかったあ」
ホッと安堵した様に、セリアの顔が花の様に綻ぶ。それが、雲の間から降り注ぐ光に照らされ、一層輝いた。周りに溜まった雨水や水滴が反射して、雨上がりの空気を更に爽やかにしている。
ああ、とザウルは僅かに息を洩らした。
どうして、これを手放そうなどと考えられたのだろうか。この笑顔が見られなくなる所に、この温もりを感じられぬ遠い地に、己の居場所などあるものか。焦がれて止まない筈のものを、何時の間に見失っていたのだろうか。と、ザウルは一瞬自嘲する様な気持ちさえ込み上げる。
もう二度と、己の心が解らないなどと、愚かなことは言うまい。自分の気持ちも、望みもたった一つ。
愛しい。何処までも愛しい。この少女が。
ただそれのみ。他に、何を望む必要があろうか。
一体、彼は何を考えているのだ。毎度我々を挑発する様な言葉も気になるが、彼の心が読めない。我々を嫌っているのか、それともそうではないのか。そして、どうしてそこまでセリアに構うのだろうか。