追想 5
「ギル。どうしてここに?」
「丁度近くに用事があったものだから。それで、カレンにこれを届けてくれって言われてね」
ギルベルトは一枚の封筒をセリアに差し出す。従姉からの手紙に、セリアの曇った瞳を僅かに光を取り戻す。
「どちらさん?」
「えっと……セリアの従姉の婚約者。解る?」
「んん、取り敢えず解ったわ」
ポソリとルイシスが横のルネに尋ね、事実のみを伝えられたがやはりそれだけでは解り難いだろう。けれどルイシスは理解したのか、元々詮索する気が無いのか、それ以上を追求せず素直に頷いてみせた。
「それで。また我が儘を言ってるのかい?」
「だ、だから、そんなんじゃ」
「まあ、それはいいとして。セリア。出来れば今返事を書いてくれないかな。カレンは一刻でも早く応えが欲しいようだからね」
そちらの方が我が儘ではないか!とセリアが心中で突っ込むめばそれを察したのか、ギルは苦笑を浮かべた。
しかし、と手紙を渡されたセリアは周りの候補生達を一瞥する。今は話の最中であるのに、途中で席を立つのは、ここまで付き合ってくれた候補生達に流石に失礼というものではないだろうか。
「急いだ方が良いんじゃないかな。あまり遅いと、カレン自ら返事を受け取りに来ると言っていたからね」
「うっ!そ、それは……」
流石にそれは不味い、とセリアは怯んだ。カレンなら本当に来そうである。これは、すぐにギルに返事を届けて貰わねば、きっと明日にでもカレンは現れるだろう。
それは、今は本当にご遠慮願いたい。とくに、この状況で彼女が来るのは。
「あ、あの…… すぐに戻って来るので、その……」
「折角のレディ・カレンからの手紙なんだから、ゆっくり読んで来たらいいよ」
「うっ。ご、ごめんなさい」
そう言ってパタパタと温室からセリアの姿が消える。彼女の気配が完全になくなると同時に、ギルベルトは深く息を吐いた。
「随分と、ややこしいことになってますね。外で話を聞いてれば、まったく」
途端に顔を顰めたギルベルトに、候補生達は僅かに目を見開く。
「マリオス候補生というのは、こんなことまでしなければならないのか」
「あの、彼女の様子が可笑しい理由を?」
そう聞けばガーデンチェアに腰を下ろしていたギルベルトの瞳が、鋭さを増す様に細められた。
「……貴方達は、それを知りたいのか?」
カレンやセリアの前では決して見せない、相手を探る様な厳しい視線に、これがそう単純な話題ではないと候補生達はひしと感じる。
「……それが彼女に関する事なら、知っていたいです」
横から発せられた声に、ギルベルトも僅かに眉を上げる。ジッと自分に集まった視線を、イアンは強く見返した。
「勝手だと思われても仕方ありませんが、俺は彼女のことなら何でも知っていたい。アイツは、滅多なことでは弱さを見せません。だからいつもこっちが空回ってるばかりだ。けど、もしそこから抜け出せる手があるなら、なんでもしたい」
真剣に語るイアンから視線を反らし、ギルベルトは他の候補生達も見遣る。彼等も同じ気持ちなのか、そこには同意の意志がはっきりと見て取れた。
それを理解すると、ギルベルトは一度深く息を吐きだす。
「勝手だと言うのは、気持ちは解らないでもありませんよ。むしろ、そこまでセリアの事を考えてもらえるのは嬉しい。ただこれは、はっきり言ってしまえば、ベアリット家の醜聞にもなりかねないことで。あまり進んで話したい内容ではないんです」
チラリとギルベルトが顔を上げ一瞥したのは、静かに事の成り行きを見守っていたルイシス。他の候補生達はともかく、彼とは初対面であるギルベルトは、まだ彼に対して警戒を解けないのだろう。
それを汲み取ったのか、ルイシスはふっと肩を竦めてみせた。
「ああ、その辺は気にせんといて下さい。そういう貴族様がどうのと俺は興味ないさかい。けど、お嬢ちゃんに関することなら、知っといて損はさせませんよ。お互いに、これから長い間付き合っていくことになるんやし」
「…………君は、ルイシス・カーチェ君、でいいのかな?」
セリアからの手紙に書かれていた、新しい候補生。文面から悪い人間ではなさそうだと感じてはいたのだが、実際会ってみて果たしてそれが正しいのか不安が浮かんだ。
けれど、彼を追い出している時間は無いかもしれない。早くしなければ、セリアが戻って来てしまう。
「フッ。取り敢えず、これから話すことは他言無用で頼みますよ」
覚悟を決めたように、ギルベルトは背もたれに身体を預けると、ゆっくりと足を組んだ。
「貴方達も見ましたよね。クリスティーナさん。セリアの母親を」
その言葉に、候補生達は顔を顰めた。思い出すまでもない。明らかに歪みの入った二人の関係。娘を敵視しているかのような視線で睨み続ける母親の姿。
「僕もカレンに聞いた話で。クリスティーナさんが、ああなった理由は……」
セリアの母クリスティーナと父オスカルは、やはり政略結婚で結ばれた。けれどその話しが持ち上がった当時、まだ十七だったクリスティーナには、想い人が居たのだ。
別に珍しいことではない。その想いを貫くか、家のしがらみに捕われ心を押さえ付けるかはその者次第だが。
クリスティーナの相手は、彼女が偶然街で出会った若者。世間から離されて育った少女はまだ純粋で、一目で恋に落ちその男に夢中になった。そしてその想いは呆気無い程に成就する。
親の言付けに忠実に従って生きてきた彼女に取って、それは決して許される想いではなかった。けれど恋に盲目にされた少女は、それが永遠に続く事を夢見ながら、その若者との恋を燃え上がらせた。
二人が会うことを許されたのは、クリスティーナの部屋の窓を若者が軽く叩いた時だけ。夜の闇に紛れながら、窓越しにお互い恋を語る時間は、少女に取って特別だった。
そんな夢の時間は、そう長くは続かない。
彼女は突然親に決められた縁談を突きつけられた。
今まで深窓の令嬢として生きてきた彼女に、両親に逆らうなどという選択肢は無く、涙を堪え、震える身体を説き伏せ、クリスティーナはその話しを承諾した。
しかし幾ら頭で理解していようと、心がそのことをすんなりと受け入れる筈はなく、クリスティーナは涙を流し続けた。
そんな中、クリスティーナの結婚は滞りなく実行される。新しく妻となった少女に、若きベアリット家当主、オスカル・ベアリットは誠意を尽くそうとした。
彼も、彼なりの覚悟を持って由緒あるベアリット家に婿に来たのだ。たとえ妻となった少女に愛情は無くとも、これから育んで行こうと。務めを果たすだけでなく、少女を心から幸せにしようと。
そして、瞳を涙に濡らす妻の姿に気付いた。
疑問を抱いたオスカルに、幼い頃から少女を見守り続けたという侍女がとうとう打ち明けたのだ。少女には忘れられない男が居ると。
政略結婚の末に自分に嫁ぐ羽目になってしまった少女に同情したオスカルは、妻を呼び出し一つの提案をした。これから、その男に会う事を一度だけ許すと。
その男との恋仲を認める訳には行かないが、最後に気持ちの整理をする時間を与える。その代わり、心に区切りがついたら、その後は自分の妻として尽くして欲しい、と。
二度と叶わないと思っていた、愛する者と再び会うことを許されたクリスティーナは、真剣にその提案を受け入れた。
彼女も、貴族の令嬢として己の義務を忘れた訳ではない。妻になると決めたからには、その責任を果たそうと、夫に尽くそうと心に言い聞かせていた。
ただ、どうしても彼にもう一度だけ会いたかった。それが許されたのだ。断る筈などなく、オスカルに心から感謝し、彼女は胸を踊らせた。
心配だと付いて来た侍女と共に、高鳴る胸を押さえ彼と出会った街へとクリスティーナは向かう。
突然現れて、彼は驚くだろうか。会ったらまず何と言おうか。自分の気持ちを伝えたい。ああ、涙を堪え切れるだろうか。
そんな思いを抱えたまま何時間も彼を探して周り、足に疲労が溜まった頃、ふと視界の端を見慣れた影が過った。胸に走った希望と共にハッと顔を上げれば、次の瞬間クリスティーナは己の目を疑う。
探し求めた男の横には、楽しそうに笑う別の女達が三人程歩いているのだ。仲睦まじく、それぞれが男に腕を絡ませながら。
彼は自分に気付かないのか、そのまま人気の無い道路へ入って行った。信じられないと我が目を疑いながらも、咄嗟にその後を追えば、路地の隅で抱き合う男女達の姿。それだけでも十分衝撃を受けたのに、更に少女が驚いたのは、一人の女の指にはめられている指輪を見た時だ。
あれは、自分が無くしたと思っていた、祖母の形見に貰った大切な指輪。
一つを見付ければ、他の物も自然と目に飛び込んで来る。
右の女の首に光る真珠の首飾りは、去年父に強請ったものにそっくり。左の女の髪に刺さった飾りも自分がかつて所有していた物に良く似ている。どれも、うっかり無くしたと思っていたものばかりだ。
フラリと蹌踉けた少女は、その瞬間全てを理解した。自分へ向けられていた愛の言葉は、所詮は偽りだったのだと。欲に目を眩ませた男に、自分は利用されただけなのだと。
悟ったと同時に、少女は引き止める侍女の言葉も聞かず、その場から走り去った。
それからずっと泣き暮らすクリスティーナに、オスカルも表情を暗くする。よかれと思ってしたことが、逆に妻を追いつめてしまったとは。
初めて心から愛した男に裏切られた少女の心を、無情な現実が更に蝕んだ。何処から漏れたのか、彼女の今までの行動は、周りの人間の知る所となっていたのだ。
なんとはしたない、恥知らずだと両親に罵られ、少女は増々行き場を失う。家の使用人達でさえ、愚かな少女の行いを哀れみと嘲りの目で見た。
ーー 何故、そんな愚かな行いが出来る。夫を迎えたばかりで、もう他の男に目移りしたのか。年端もゆかぬ少女と思えば、実は何とはしたない ーー
家の恥だと散々罵倒された少女に示された逃げ道。
妻として一刻も早く跡継ぎを生み、その家の存続と安泰を確保することだ。それが、唯一自分に出来る罪滅ぼしなのだと。
その事実が心に浸透していくと同時に、少女は人前から涙を隠し、妻としての役割を果たす事を己の支えとした。時折脳裏を過る過去の愛しい男との思い出から目を背け、家の為にと己の身を削った。
自分に課せられた役目は、跡継ぎを生む事。それしか出来ないのだ。それが自分の価値なのだと。
言い聞かされた言葉は、やがて己の意思へと変わる。心から懐妊を願い、一度恥を曝した少女に対し向けられる疎ましげな視線にも耐え、クリスティーナは漸く身籠った。
元気な男児を、立派な跡継ぎを、と散々聞かされた言葉を、彼女は自分自身でさえも何度も繰り返した。まるで、祈るような、縋るような。
どうか自分の存在価値を奪わないでくれと。立派な跡継ぎを生ませてくれと。神に、天に、ただただ一心不乱に祈った。
そして生まれたのは、元気な声で泣く可愛らしい ーー 女児。
途端に冷ややかになる周りの視線。それと同時に、少女を絶望が襲った。
どうして。どうして自分ばかりがこの様な仕打ちを受けるのだ。自分が一体何をした。ただ一人の男を愛し、手酷く裏切られ傷つき、ならば役目を果たしたいと願っただけではないか。ここまで惨い運命を課せられる理由が、どこにある!?
「セリアのあの性格や目標も一つの要因だったんでしょうね」
国の為に尽くす、などと男児ならば立派だと賞讃される様な台詞に、ならばなぜ男に生まれなかった、とクリスティーナが焦燥したのは容易に想像が出来る。
「……セリアは、そのことをどう思って」
「さあ、そこまでは。それどころか、本当に真相を知っているのかすら、僕等には解りません。オスカルさんが、とくにセリアには知られまいと口止めしているから。ただ、あの子は変なところで勘がいいから」
確信はなくとも、何かを感じ取っているということくらいは見れば解る。ただ、下手に詮索して墓穴を掘るだけに終わる事態もあり得るので、必要以上にこの話題に触れるのは避けるべきだ。
もしかしたら、セリア本人は何かよからぬ方へ誤解している可能性もある。何が起こったか理解しているのかもしれないが、そうでないかもしれない。それでも、この件に関して不用意に掻き乱すのは、誰も望んでいない。
「たとえ何をしたところで、事態が好転するとは思えませんから」
ギルベルトがそう語り終えた頃、丁度セリアが温室へ戻ってきた。従姉からの手紙に励まされたのか、暗い候補生達とは真逆の、僅かに晴れた表情で。
翌日、候補生達はセリアを励ましたのが何であるのか。その心に何を思ったのかを、痛感することとなる。
幾ら拳を振るったところで、貴方が吐き出したいのは違う物の筈です。ご自身を傷つけてまで、それを押さえ付ける。それほどまでの葛藤が、貴方の心だということなのですね。
一人苦しむ貴方を、自分は見守ることしか出来ないのでしょうか。
けれど出来れば、貴方にとっても、彼女にとっても、後戻りの許されない道は進まないで戴きたい。そう願うばかりです。