始動 1
何処か遠くから自分を呼ぶ声に、セリアはゆっくりと意識を浮上させた。けれど、未だ眠気の残る瞼を上げる気にはなれず、またもや微睡みに身を任せようとする。
「おい、セリア!」
「うわぁ!!」
唐突に近くで響いた声に、一気に覚醒したセリアは飛び上がって跳ね起きた。その途端、手に持っていた物が滑り落ち、遠い地へ向かって落下していく。あっ!と思った時には既に遅く、それは見事に友人の頭を直撃してしまった。
「いてっ!!」
「イ、イアン!ごめんなさい。大丈夫?」
昼寝をしていた木の上から、セリアは丁度真下に居る友人に向かって声を掛ける。突然現れたイアンは、痛むのか軽く頭を摩っていた。その傍らに落ちた本を、横に立っていたランが拾い上げる。
「セリア、すまない。こちらに君が居ると聞いたのだが」
「え、えっと。それは解ったけど…… ちょっと待って。今下りるから」
スルスルと木を伝い地面に下りたセリアは、改めていきなり現れた友人に目を向ける。
「二人とも、どうしてここに?」
年度の境目である夏期長期休暇に入った彼等は、皆実家へ戻っていた。セリアも当然、ベアリット伯爵家へ帰宅し、のんびりと休日を過ごしていた。
家の庭にある木の一つで本を片手に昼寝を決め込んでいたのだが、そんな時にいきなり彼等が現れたのだ。
「マリオス宣布の儀が明日だろ。一緒に行こうと思って誘いに来たんだよ」
「えっ!い、いいの?」
その途端、瞳を子供の様に輝かせたセリアに、イアンは思わず苦笑いが漏れる。
年に一度行われる、マリオス宣布の儀。その年新たにマリオスとして王宮に召される者の名が、王都で公布されるのだ。
セリアは、王都に一人で行くなどとんでもない、と屋敷の者に止められていた為、今まで行けた試しが無い。けれどこれなら一人ではないのだから、何も心配ないだろう。とセリアは大いに喜んだ。
「それにしても、お前こんな所で何してたんだよ?」
「え、えっと…… 本読んでたら途中で寝ちゃって」
ハハハ、と乾いた笑いを零すセリアに、イアンは多少呆れた目を向ける。木に登って読書など、しかもそのまま眠り込んでしまうなど、貴族の、ましてや年頃の娘のすることではない。
「あ、ラン。ありがとう」
そう言ってランからセリアが受け取った本には、『クルダス創世記』の文字。絵本や小説、論説等、色々な形で残されているその物語は、国民なら誰でも一度は聞いた事のある内容だ。
イアンの頭部を直撃したそれは分厚く、所々痛んでいることから随分と読み込まれているのが窺える。
「でも二人とも、わざわざごめんなさい。ランの実家なんて、凄く遠いのに」
「いや。我々こそ、突然すまなかった。出来ればセリアを誘いたいと言ったのは私だ。君が良ければなのだが。どうだろうか?」
そう問うランに、セリアは勿論だと首を大きく縦に振った。
普段も多くの人が行き交う王都だが、今日はその比ではない。何処をみても人の波で、万一にでも連れと逸れてしまえば、きっと見つからないだろう。だからこそ、細心の注意を払うべき。の筈なのだが……
「ど、どうしよう……」
説明の必要などないが、セリアはしっかりと迷子であった。人で込んでいるとはいえ、全く周りが見えない程ではない。自分も注意していたし、大丈夫だろうと高をくくっていた。
けれど、ふいに後ろから受けた衝撃に、彼等の背から目を離してしまったのだ。自分にぶつかってきたのは少年で、幸い怪我も無く彼は元気に走り去ったのだが、気付けば自分は取り残されていた。それから必死に前へ進んだが、友人を見つける事は叶わず、今自分が何処に居るのかすら解らない。
それでも、取り敢えず前に進まねば、とやる気を奮い立たせて足を踏み出す。と、後ろから伸びた手に腕を取られた。驚いて振り返れば、そこには輝かんばかりの天使の微笑み。
「ル、ルネ!」
「やっぱり、セリアだったんだ。こんな所で、また迷子?一緒に来たのはイアンかランかな」
「うっ、」
全てを見て来たようなルネの口ぶりに、セリアはまったく言い返せない。俯いたまま小さく頷けば、ルネもクスッと笑いを洩らす。
「仕方ないね。じゃあ、こっちにおいで」
掴んだ腕をそのままに、ルネは歩き出した。当然腕を引かれてセリアもついて行く訳だが、一体何をしようと言うのだろう。ラン達の居場所に心当たりでもあるのだろうか。
そう思ってルネに従っていたセリアは、気付けば外にテラスのある茶店で茶を飲むことになっていた。
「えっと…… ルネ?」
「うん。何?」
「私、ランとイアンを探さないといけないんだけど」
「この人の多さで、見つけられるの?」
それはそうだが…… と口籠るセリアに、ルネはまた天使の笑みを向ける。
「大丈夫だよ。あの二人ならきっと、今頃王都中を駆けずり回ってセリアを探してるから。そういう時は、大人しく一カ所で待ってた方が良いんだよ」
「……そう、なのかな?」
ニコニコと目の前で紅茶に口をつけるルネに、セリアは何も言えなくなる。
確かに、無闇に探しまわるより、一カ所で待っていた方が出会う可能性は増えるかもしれない。けれど、だからといってこんな悠々とお茶を飲むのもどうかと思う。
「ダメだよ、セリア。一人でまた探しまわろうとしたら」
まるで自分が今考えていたことを見透かしたような言葉にセリアは、思わず飲んでいた茶が肺に入ってしまい、思い切り咽せる。痛む喉と肺を何とか鎮めようと胸を叩けば、幾らばかりか落ち着いた。
「で、でも、やっぱりジッとしてられないから。この辺りだけでも探してみる」
そう言って飛び出そうとするセリアの背に、ルネは思い切り溜め息を吐く。まあ彼女がそう言うのも仕方ないか、と飲んでいた紅茶のカップを置いた。
「セリア」
先程のように腕を取られ、振り向けばニッコリと微笑む天使。けれど、その背後にセリアは悪魔を見た。
「僕の言いたいこと、解るよね?」
有無を言わせぬその雰囲気に、セリアはサアッと青ざめ、大人しくその場に腰を下ろした。
それから二時間程待った頃、人混みの中から見慣れた姿が顔を出した。こちらに気付かぬまま走り去ろうとする姿を、セリアは咄嗟に大声で呼び止める。
「ラン!!こっち!!!」
その声が届いたのか、視線を動かしたランが、ホッとした顔でこちらへ向かってくる。その僅かに息を乱した様子に、ルネもニッコリと手を振った。
「セリア、よかった。ルネと一緒だったのだな」
「うん。僕も偶然セリアを見つけてね」
「しかし、君は用があって来られないのではなかったのか?」
「その筈だったんだけど、思ったよりも早く終わってね。だから、ちょっと覗きに来たんだ」
そうか、と頷くランに、セリアは目一杯謝罪する。その額を流れる汗から、随分と探させてしまったようだ。気にするな、とは言われたが、やはり責任を感じてしまう。
「それより、そろそろ時間でしょ。行った方が良いんじゃない?」
「そうだな。イアンは、宣布が行われる広場の周りを探す事になっている」
「じゃあ行けば会えるかな。セリア、今度は逸れないでね」
そう言うルネにセリアは、気を引き締めてスッと背筋を伸ばした。
今度こそ、何事もなく広場へと辿り着いたセリア達は、その中を走り回っていたイアンと、意外にも簡単に再会出来た。その際、しっかりとイアンには説教を食らったのだが、セリアはそれも甘んじて受ける。
漸く一段落し周りを見渡せば、そこには同じ目的を持った人が溢れている。ざわざわと騒ぐ人混みに、どんどんと胸が高揚してくるのを感じた。
ここで挙げられる名は、当然後には国中に知れ渡るので、自分も毎年数日後には同じ結果を聞いていた。けれど、当日に直接自分の耳で聞くというのは、やはり何処か違う。
今か今か、と期待した目で広場に設けられた演壇を見ていると、そこに一人の男性が現れた。その途端、広場の誰もが口を閉ざし、その人物に視線を向ける。
人々の注目を一身に受けた男は、手に持っていた筒状に丸めた紙を広げると、声高にその内容を読み上げた。
「当年、クルダスに置いて青を纏う事を許された者を以下とする。マリオス・メラール・ヴェルガ……… 以上」
その男性の言葉と同時、人々の瞳に落胆の色が走った。それはセリアや候補生達も例外ではなく、皆一様に僅かだが肩を落とす。
しかしそれも仕方ないと言える。マリオス・メラール・ヴェルガーとは、初代国王に仕えたマリオスの名として伝えられている名だ。それが読まれたということは、今年は新たなマリオスが誕生しなかったということ。
男が仕事を終え姿を消すと同時に、広場の人も疎らになっていく。その中で、セリアは難しい顔をしていた。
「……今年も、誰も選ばれなかったのね」
「まあ、こればっかりはどうしようもないだろ。マリオスに見合う人材が居なかったってことだしな」
「でも、これでもう十一年、誰も選ばれてないことになるのに……」
マリオスとして選ばれる者は、あらゆる面に置いて要求が高い。家柄や頭脳、能力は勿論、それを証明する為の名声も必要。何より求められるのは、強い忠誠心だ。
そして、それを実際に見極めるのは国王陛下とマリオス達。有力者の推薦もあれば有利だが、マリオス達にその実力の程を示さなければ、到底認められない。
難しいことであるのは解っている。けれど、クルダスは長い歴史の間ずっとそれに応えるだけの人材を生み出して来た。確かにマリオス・メラール・ヴェルガーの名が読まれる年もあったが、それが十年以上も続く等今まで無かったのだ。
マリオスの制度は、ある意味特殊ともいえる。その能力を買われた者ならば、途端に大きな権力を手に出来るのだ。だからこそ、常に新たな人材を迎え、偏った考えや権力図になることを防ぐ方針から、マリオスの選出は毎年行われる。にも関わらずマリオス達の顔ぶれは、既に十一年も変わっていない。
今のマリオス様達を疑う声は無いが、この現状に人々の不安は高まり、王宮への不信感が募っているのが現実だ。
「随分と窶れた顔だな」
フロース学園校長、マクシミリアンの言葉通り、目の前に座る男は非常に疲れた顔でソファに背を預けていた。といっても、その表情の違いが解るのは長い付き合いの校長くらいのもので、他は誰一人として彼の疲労に気付いては居ない。国の最高権力者としての威厳と責任がそうさせているのだろうか。
「当然だろう。毎年だが、この時期は忙しい」
「ここ十年程は特にな」
校長がゆったりと男の前に腰掛ければ、空気に更に重みがかかる。普段は冗談めかした校長も、この時ばかりは何か思う所があるのか、真剣な瞳で前を見据えていた。
「……次は私が忙しくなる番か」
「まあそう言うな。お前程の適任者は、そう居るものではない」
「この貸しは大きいぞ」
「すでに返済の目処は付いている」
確かにそうだな、と頷き息を吐き出した校長は幾らばかりか雰囲気を和らげた。
「その間、後の事は任せたぞ」
「穏やかにとはいかないだろうが、無闇に踏み荒らさせはしないさ」
「それは理解しているが、私の生徒達には個性的な者が多くてね。心配もしてしまうというものだ」
そう言い終えると、全ての確認をし終えた校長はスクッと立ち上がった。
「では、是非とも私の無事を祈ってくれたまえ」
「お前のしぶとさなら、それも必要ないだろう」
お互いニヤリと口元に笑みを張ると、ソファに座ったままの友人を一瞥した校長は、静かに扉を出て行った。
王宮から出た場所に止まっていた馬車に、フロース学園校長が乗り込む。その後に馬車の扉を閉めた使用人の男は、目深にかぶった帽子の隙間からチラリと御者を見遣った。その視線を確認すると、御者も静かに頷く。
まるで何かから隠れるように、慎重にお互いの意志を視線だけで確認しあった二人は、その後何事も無かったかの様に別れた。その直後に、馬車はゆっくりと動き始める。
それから丸一日経った頃、ある街の病院に知らせが届いた。王都から来た馬車が、坂道の途中過って転落してしまったので、乗っていた怪我人を見て欲しい、と。
一体、どういうことなんだ、これは。何もかもが、あまりにも急過ぎる。校長先生の身に、何が起こったというのだ。
しかも、もしルネの言葉が本当ならば……