邂逅 3
顔が朱色に染まっていくヴィタリーを、蜂蜜色の瞳が静かに見据える。男の草色の髪が僅かに揺れるその背後で、少しでも動けば血が舞うのではと疑いたくなるほどの緊迫感に、セリアは必死に耐えていた。
「ジークフリード。貴様、私に歯向かってただで済むと思うのか!」
「貴方様も。この場で諍いを起こすのは、賢い選択とは申しがたい」
まるでヴィタリーの怒りを煽るように、この国のマリオスの一人、ジークフリードは続けた。けれど、それはヴィタリーのプライドを更に傷付ける事に他ならない。
このまま引き下がれるか、とヴィタリーは再び口を開くが瞬間、新たな邪魔が入る。
「何を騒いでおいでで?」
緊迫した空気を割るように響いた静かな声に、ヴィタリーは遠慮も無く舌打ちした。
その場の注目を一気に受けた、金色の瞳を持つ茶髪の二人目の青のローブは、穏やかな笑みでこちらへ近付いてくる。その男に、ヴィタリーは厳しい睨みを投げかけた。
「犬の次は猫が現れたか」
「お褒めに預かり光栄ですよ」
「フン。憎たらしさも健在か」
心底忌々しそうにヴィタリーが視線を移した先には、穏やかな微笑みを浮かべた男が立っている。その地位を侮辱されたことに対しても、目の前で強く不快の文字を表す瞳にも、何ら感じていないようだ。
「失礼ながら殿下。若い少女を口説くのであれば、もう少し明るい話題から入るべきでは?」
「また恍けたことを」
ヴィタリーは、今直ぐにでも葬ってやりたいとでも言わんばかり怒りようだ。しかし、流石に彼等相手では分が悪いと考え直したのか。それとも何か別の意図があるのか。一旦は引く事を決めたようで、「下らない」と吐き捨てその場に背を向ける。
「マリオス候補生は、精々その志が裏目に出ぬよう祈ることだな」
捨て台詞を残して去って行く背中を、留めようとする者は誰も居ない。その姿が人混みに消えた頃に、先程割り込んで来た男がフッと笑いを洩らした。
「ククッ。あの殿下に喧嘩を売るとは、本当に面白いお嬢さんだ」
「え!い、いえ……その……」
「ああ、失礼。私はキースレイ・ブラーズ。以後お見知りおきを」
何処か掴みどころの無い雰囲気の男が発したその名に、セリアは瞬時に固まった。
キースレイ・ブラーズと言えば、マリオスの中でも切れ者と噂される実力者だ。目立った実績は無くとも、口煩い議員や有力貴族達を彼が影から黙らせたと聞いたのは、一度や二度ではない。
そんな凄い人に、もしかしなくとも自分は面倒をかけてしまったのでは。
瞬時にそう理解したセリアだが、けれど謝罪の言葉を何一つ紡ぐ前にキースレイはクルリと踵を返した。
「それでは、私はこれで。あとは任せましたよ。ジークフリード」
それは優雅に手を振ると、ヴィタリーの後を追うかのように同じ方向に消えてしまった。まるで風が過ぎ去ったかのような彼に、セリアはハッと我に返ると慌ててその場に残ったもう一人に思い切り頭を下げる。
「す、すみませんでした。あの、ご、ご無礼お許し下さい」
「いや。気にする必要はない。それよりも、セリア・ベアリット殿」
「は、はい」
蜂蜜色の瞳が鋭くなる様子に、背筋が自然と伸びる。
「レイダーの件に関して幾つか聞きたい。この様な時に失礼だが、少し良いだろうか?」
ああ、遂に来たか。とセリアは目の前のマリオスにゆっくりと頷いた。
コツン、コツン、と廊下を進む度にそんな音が響く。反響する靴音を何処か遠くに聞きながら、セリアは目の前を歩く草色の髪を必死に追っていた。
宴の続くホールを出れば、まるできらびやかな宝石箱から放り出されたかのよう。隅々まで整備が行き届いた通路には、輝かしい光もにぎやかな声も、一切届いてはいない。
「夜会を楽しんでいた所、すまない。今夜は他に仕事が山積している為、この様な時間しか取れなかった」
「あ、いえ。そんな、滅相もありません」
むしろ、セリアにとっては有り難いの一言だ。覚悟して来たとはいえ、やはり慣れない華やかな場にずっと居続けるのは辛い。
「大体のことはもう君の友人が報告を終えている。これは、ただの確認だと思ってくれれば良い」
「は、はい」
喧騒の中から離れ、漸く状況を纏める余裕が出て来た所で、セリアは改めて目の前の背中を見詰める。そこを歩いているのは、紛れもなく自分が尊敬してやまない青のローブだ。憧れだけで見る事すら叶わないだろうと思っていた存在が、すぐそこに居るのだ。
なんだか実感が湧かないな、とその青色をマジマジと眺めるが、やはりどこか現実離れしているような感覚は抜けない。
「おか、かか、か、お考え直し、くく、くださいぃぃ」
「ああ、ったく!こんな時に一々ジジィ共の寝言を聞いてられるか。行きてぇならアンタが行ってくれ」
「で、ででで、ですから……わ、わた、わた、私ではなく、貴方にと……そ、そそれに、もう、別室でお、お、おお、お待ちに……」
「勝手にさせとけばいいだろう」
セリアが思考に浸っていると、目の前から急にそんな会話が聞こえた。突然のことに驚いて前に視線を向ければ、二人の男性が何やら言い合いをしている。というより、一人は面倒くさそうにその場から立ち去ろうとし、もう一人がそれを必死に引き止めようとしているのか。
そして双方共、着ているのは青色のローブ。
ということは……
「二人とも、何をしている」
「ひっ!ジ、ジジ、ジークフリード様……」
「客人の前だ。騒ぐなら場所を変えろ」
ジークフリードに咎められ、オドオドしていた男は更に縮こまってしまった。それとは対照的に、苺色の髪を揺らしたもう一人は“客人”の言葉に興味を示したようで、セリアの方にグルリと顔を向ける。
「おっ!噂のお嬢ちゃんのお出ましか」
そのまま大股で距離を一気に詰めると、好奇心を宿した新緑の瞳で覗き込んで来た。
「お前さん、あのヴィタリー殿下に喧嘩売ったんだってな。キースレイから聞いたぞ。度胸は人一倍って話は伊達じゃなかったわけだ」
嬉々として語る男の言葉に、セリアはサァッと血の気が失せるのを感じる。
なんと耳の早い。というより、喧嘩を売った積もりなど毛頭ないのに、そんな風に言いふらしているのか、あの方は。本当に、勘弁してくれ。
「ハ、ハハハ、ハガル様!そ、そんな、じょ、じょ女性に……女性の方に、そ、その様にと、とと、突然おこ、おこおこ、お声をか、かけられて、は……」
ジロジロと上から下まで、まるで観察するかのように見詰める男の視線が、その声で漸く逸れた。
その言葉で己の過失に気付いたのか、詰めていた距離を一歩分広げた男は、深々と丁寧に一礼してみせる。
「これはこれは、失礼致しました。陛下の客人に対する無礼、お詫びします」
「ふぇ?」
先程までの態度とは一変した男に、セリアの声はつい上擦る。唖然とするその反応が気に入ったのか、俯いていた男の顔にニヤリと笑みが張り付いた。
ーーしまった!
からかわれたことに気付くと同時に、こちらは本当に自分の失態に顔を青くし、セリアは大慌てで頭を目一杯下げる。
「は、はじめまして。セリア・ベアリットです」
「おぅ。ハガル・ボルスキーだ。会えて嬉しいぜ。お嬢ちゃん」
「ボ、ボルスキーって。あの、ハガル・ボルスキー様ですか?」
「なんだ。知ってるのか?」
「だ、だって……」
ハガル・ボルスキーといえば、十年程前にクルダスの鉄道状態から無駄な路線の廃止、不足している地域への着工等を手がけ、現在の形に導いたことで有名だ。その他にも建築分野で数々の功績を残している。
…… この人が。
今まで目の前にマリオスが居るなんて信じられない、といった気持ちだったセリアは、いきなり事実を突き付けられる。
唖然とする姿にますます興味を示したらしいハガルは、後ろでオドオドしていた色素の薄い空色髪の男を引っ張り出した。
「んじゃぁコイツも知ってるか?ニイって言うんだけどな」
「ニイって、まさか…… ニイ・ドレイシュ様、ですか?」
ニコニコと頷くハガルによって明かされた、人前に突き出されダラダラと冷や汗を流す男の正体に、セリアはまたもや驚愕した。それと同時に、ニイの鼠色の瞳に更に動揺が走る。
「す、すす、すみません。あ、あの……ニイとも、申し、まます。セ、セセ、セリア様で、ですね……お、おおお、お会い出来て、こ、こここ光栄で、でですす」
セリアの前で先程からまるで何かに怯えているようなこの男。明らかに狼狽えしどろもどろに喋る様子に、悪く言ってしまえば、怪しい、という言葉さえ出てきそうだが、とんでもない。
その座に着任してから僅か五年で、災害時の農村地域への救済制度を大きく改革した、れっきとしたマリオスだ。
信じられない気持ちのセリアだが、けれど考えてみれば当然ではないか。青のローブを纏ったマリオスを、改めて本人だと言われても、何ら不思議はない。ただ、急なことでまるで頭が状況に追い付いていないが。
そこでセリアはハッとした。そう言えば、先程彼等は今まで自分を案内してくれていた男をジークフリードと呼んではいなかったか?
「あ、あの……」
「どうかしたか?」
「あの、すみませんが、もしや、ジークフリード・サイグベラ様、ですか?」
「ああ、すまない。きちんと名乗っていなかったな」
肯定の意と取れるその回答と、本人が大きく頷いたことで、それが事実だとセリアは思い知らされる。
何年か前に発覚した、王宮議会の有力議員による汚職を徹底的に取り締まり、さらにそれを機に拡大し過ぎた議会の権限縮小の方針を掲げた男こそ彼だ。
マリオスは全員が平等な立場にあるが、その中にあってさえ圧倒的な権威を誇り、忠誠の象徴ともされている。
自分の最も尊敬する人物が、実は目の前に居たことに、今更ながらに気付かされる。そのあまりにも突然の事態を懸命に処理しようと試みるが、その前に頭に熱が溜まって来て目眩を起こしそうだ。
「それで、お前達は一体何をしている」
「そ、そそそ、それ、が………ハ、ハガル様が……エ、エルブラン様とと、とホウルン様が、い、いらして……でもめ、め面会を、さ、ささささ、されない、と……」
オロオロと冷や汗を流しながら、今にも卒倒しそうな顔色で言うニイの後ろから、ハガルが声を上げた。
「茶を不味くする奴らとの暇つぶしは御免だって言ってるんだ」
「し、ししか、しかし、お二方共、ゆ、ゆゆ、有力な、しょ、商家のごと、ごと、ご当主。む、無下に、さ、ささ、されるのは……」
「また関税の根回しだろ。こっちは一切譲る気はねぇって、何度言ったら解るんだ、あのジジィ共は」
「で、ででで、ですから…… だからと言って、な、なな蔑ろにさ、されれては……」
どちらも譲らない様子で言い合う二人を、ジークフリードが手を挙げて制止した。
「ハガル。行かないのなら、使いくらいはやれ。でなければ後々また煩い。けれど交渉は無しだ。ニイもそれで良いな」
各々まあそれなら、と納得したようでニイはホッと安堵の息を洩らし、ハガルは面倒臭そうに頭を掻いている。
「あとハガル。一昨日の報告書は早めに提出しておけ。ニイは、例の資料の不備の直しを要請するように」
「……御意」
「それともう一つ。ハガル、夜会で良い酒が出揃っているのは解るが、程々にしておくんだな」
「おいおい、勘弁してくれ。今夜飲まねえで何時飲むんだよ。じゃあな、お嬢ちゃん」
釘を刺されハガルはバツが悪いのか、チッと舌打ちしながら廊下の奥へ消えて行った。その影が完全に見えなくなると同時、横から聞こえた大きな溜め息。セリアがそちらに目を向ければ、心底疲れ切ったと言わんばかりに、ニイが肩を落としていた。
「そ、そそ、それでは、わ、わたた、私もこれで。あ、ああああ、貴方の、こ、今後の、ごごご、ご活躍を、ここ、心より、ね、願って、おお、おります……ぜ、是非、ままま、またお、おおお、お会い出来ますよ、よう」
これでもかというほど頭を下げ、ニイは急ぎ足でハガルとは反対の方向へ去って行った。その後ろ姿を見送ると、それまで微動だにしなかったジークフリードがゆっくりとセリアへ向き直る。
「すまない。見苦しいところを見せた」
「い、いえ。むしろ、光栄です。こうして、マリオス様達にお会い出来て」
とんでもない、と首を横に振るセリアに、蜂蜜色の瞳が意外そうな色を見せる。
「……そう言う意見は初めてだな。だが、それなら助かる」
「あ!す、すみません」
「いや。では、こちらだ」
再び歩みを再会するジークフリードの背を、セリアは慌てて追った。
「座ってくれ」
部屋に通されるやそう言われセリアは室内を見渡す。そこは、恐らく彼の執務室なのだろう。重厚な書斎机が設置された手前に、上質そうなソファが置かれていた。床に広がる臙脂色の絨毯は、靴の裏からもフワリとした感触が十分伝わってくる。部屋の壁際に静かに佇む書棚には、分厚い本の他に幾つもの資料が詰められ、彼の多忙ぶりを表しているかのようだ。
つい見惚れていたセリアだが、ジークフリードに再び促され、ゆっくりとソファの端に腰掛けた。その程よい弾力に、沈んだ身体が僅かに押し戻される。極上の柔らかさと、生地の肌触りがまた心地よい。
落ち着いた所でチラリと視線を上げれば、ジークフリードも向かいに腰を下ろしていた。
「早速だが、レイダーの屋敷へ行った時のことを、出来れば詳しく知りたい」
「ペトロフ氏の?」
確認するように発したその名に、ジークフリードはピクリと眉を上げた。
「……ペトロフ、か」
短く息を吐き出すジークフリードに、セリアは疑問符を浮かべる。
「ペトロフ、というのは偽名だ」
偽名だと突然告げられ、訳が解らないとセリアは思い切り目を見開いた。まさか、名まで偽っていたのか、あの男は。けれど、自分は住所録でペトロフ伯爵の家を調べ、その先で彼に会ったのだから、偽名である筈がない。
「いや、偽名というのは少し違うか。何にせよ、ペトロフ、というのは馴染みが無いな」
「あの……ジークフリード様は、彼を知っていたのですか?」
恐る恐る聞いたセリアの問いに、ジークフリードは迷う素振りもなく力強く頷く。
「レイダーは、私の親友だった男だ」
「えっ!!」
「……あの男もマリオスになるべき筈だった、のだが」
「何故だレイダー。何故辞退など……」
「そう目くじらを立てるな。相変わらず頭の堅い」
詰め寄る親友を、手を挙げ制止する。のらりくらりと追求を躱す男に、ジークフリードの額にも青筋が数本立った。
「質問に答えろ」
「まったく。何をそんなに騒ぐ」
「私は、ずっとお前と共に国を導くものと。お前も、国の為にと尽くしてきた筈だ」
「まあそう言うな。マリオスの役目はお前に任せるさ。私はもっと別の見方をしたい。二人共同じ場所にいては、つまらないだろう」
軽い口調のまま手をヒラリと振って男は自分と道を別れた。まるで今生の別れのような気にさせるその背を見せ付けながら。
それでも、彼は国に忠義を尽くす一人であった。二人の仲もそれきりなどではなく、むしろそう危惧していた自分を嘲笑うかの様に、何食わぬ顔で何度も自分の前に現れたのだ。
「……何故私の屋敷にいる」
「おいおい。私は客人だぞ。上手い酒でも出して持て成したらどうだ」
「いい加減にしろ。大体、どうやって私の予定を知った」
「私の好奇心を舐めて貰っては困るな」
相も変わらず恍けたような言葉で自分の追求を躱す男に、久しぶりに帰宅したジークフリードは激務に追われる日々の何倍にも増した疲労を肩に感じた。
「そうそう。お前が最近嗅ぎ回ってるというあの男、やはり叩けば埃が出たぞ」
「はっ?何を……」
「そらっ。コイツは手土産だ」
そう言われ、重要な証拠書類や資料等を、何度自分は手渡されたか。彼が何処で手に入れたのかすら解らないそれらで、何度危機を回避してきたことか。
いつも真意は掴めず、何処までが本気なのかすら解らない。その目的すら、何処にあるのか悟らせない。けれど彼は、確かに自分の唯一人の親友だった。
お前が何を言いたかったのか、私にはどうしても解らん。レイダー。
一体、あの時お前は何を考え、どんな未来を思い描いたというんだ。
それを知る唯一の手掛かりの少女。どうしても、聞きたいことがある。