邂逅 1
セリアの怪我から約二ヶ月。
既に通い慣れてしまった病室の扉を静かに開けば、中は暖かな陽に照らされていた。そのまま音を立てぬよう気を配りながら寝台に近寄れば、案の定少女の瞳は閉じられている。ノックの音に返事が無いことから、察してはいたが。
フッと柔らかく微笑むと、ランはそっと寝顔にかかった髪を優しく退けてやる。その際、寝台の上に零れている本が目に留まったので、少女が普段使っている栞を挟んで仕舞った。
読書の途中で寝入ってしまったのだろう、セリアを起こさぬよう横の椅子に静かに、そして優雅に腰を下ろす。
視線を向ければ、静かに瞼を閉じた顔がそこにあり、無防備な様はまるで子供のようだ。微笑ましく思っていれば、僅かに開いた唇が目に入り、途端に熱が集まった頬を窓から流れる風が宥めるように撫でた。
この頃になり、怪我も順調な回復を見せ、候補生達も幾らかの安心を得ていた。
とはいえ、少女の動向から目を離すことはしない。つい二週間前にも、医者から、多少なら動いても良いだろうと言われた途端、歩き回ろうとした彼女を抑えたばかりだ。少し気を許せば、すぐに無茶をするのは、本当にどうにもならないらしい。ずっと寝台の上で退屈しているのは解らないでもないが、もう少し身体を労わってはくれないだろうか。
流石に候補生達も、もう甲斐甲斐しく世話を焼くことはしないので。というより、セリアにもう勘弁してくれ、と懇願されたのだが。なので、詰まるような息苦しさはないが、それでもずっと室内では辛いのかもしれない。
やれやれとランが肩を落とせば人の気配を感じたのか、閉じられていた瞼がうっすらと開き、茶色の瞳に彫刻の様に美麗な顔が映る。
「ん……ラン…?」
「ああ、すまない。起こしてしまったか」
まだ眠気の残る目を擦りながら身を起こそうとするセリアをランが支える。そこで漸く自分がうたた寝をしていたことに気付いたのか、ぼんやりとしていた目がハッと開らかれた。
「ご、ごめん。もうそんな時間だった?」
言いながら時計を確認すれば、やはり昼過ぎ。しまった、と思いながらセリアはもう一度ランに謝罪する。
彼が来ることは解っていたのに、まさか寝てしまうなんて。のどかな天気に、つい眠気を誘われたなんて、まるで子供の言い訳だ。
謝るセリアに、ランは苦笑しながら気にするなと返した。
「身体の調子は?」
「とくに変わりはないよ。もう本当に大丈夫なのに」
「だからといって、まだ外に出すことは出来ない」
こっそり抜け出そうとしたのを見つかった時から言われ続けている言葉に、うっと肩を縮こまらせる。
けれどずっと病室内に引き篭もっていては、鬱積も溜まるというもの。だから、病院内にある中庭を少し散歩しようと思っただけだったのだが。
「その、少しだけでも」
「それで身体に負担がかかれば、退院自体が先送りになるかもしれないのだぞ」
「う、う…… じゃあ、負担が無い程度なら」
「君の場合、それは無理だ」
まるで鬼だ。とセリアは内心で不満を漏らした。
幾ら平気だと言っても、一向に候補生達に許してはもらえない。医者の許可は下りたというのに。相変わらず、彼等は心配性だ。とセリアも外に出ることは半ば諦めていた。
ランの訪問から少しして、廊下の奥から近付く別の足音がセリアの病室へ向かう。その足音が部屋の前へ辿り着くと、一瞬の間を置いた後に扉が軽く叩かれた。
それは中の者達にもしっかりと聞こえ、セリアは「はい」と返事を返す。誰であろうかと首を捻れば、廊下からはとても意外な人物が現れた。
「セリア君。具合はどうだね?」
「こ、校長先生!?」
唐突に現れた客に、セリアもランも目を見開く。彼女が怪我を負った当初こそ姿を見せた彼だが、それ以来一度もここを訪ねたことなどない。
もしや何かあったのだろうか、と不安を覚えるセリアに校長はニコリと笑いかけた。
「順調に回復しているそうだな。退院は何時ごろになりそうかね?」
「あ、はい。来月にはまた学園に通えると」
「そうか」
セリアの答えの何が良かったのか、校長は心底満足したように二カッと白い歯を見せた。それがまるで悪戯が成功した時の子供のようで、まさかまた何か企んでいるのでは、とセリアは多少身構える。
困惑したように若干眉を寄せるセリアを気にせず、校長はその手に乗った白い封筒を差し出した。
「突然で済まないが、君にこれが届いてね」
「これ、ですか?……っ!?」
受け取った封筒を確認した途端、セリアも、そしてランも目を見開く。そこに用いられていた封蝋は、紛れもなく王家の紋章。つまり、王宮からの物だ。
「重要な物だけに、私が直接届けた方が良いと思ってね」
「は、はい……ありがとうございます」
「うん。 ランスロット君。君達の実家にも、近々同じ物が届くと思うよ」
急に話を振られたランも、その動揺と混乱を巧みに隠し、静かに頷いた。
「それでは、私は失礼するよ。すまないが、まだ仕事が残っていてね」
「あ、はい!ありがとうございました」
用はそれだけらしく、校長は早くも去る意志を示す。
ニコニコとそれは上機嫌で、下手をすれば鼻歌でも聞こえてきそうなほどの足取りで帰っていく校長を、セリアとランは呆然と見送った。
嵐が過ぎた後に流れる静寂から我に返った頃、手に残された封筒を改めて確認してみれば、押されているのは見紛いようもなく王家の紋章。けれど、一体王宮が自分に何の用だろう。
「とにかく、開けてみたらどうだ?」
「う、うん……」
ランに促され、渡された手紙をもう一度強く持ち直した。なんだか緊張で手が震えてしまいそうになるが、それを抑えてセリアは丁寧に封を開いていく。
ゆっくりと剥がされた中から出てきたのは、手紙と、もう一枚の封筒だった。
「っ!……これは」
「ど、どうしたの?」
ランが急に声を発したので、セリアも驚いてしまう。何事だ?と本人を見上げれば、出てきた封筒を持ち上げながら、信じられない内容を告げた。
「招待状だ……国王主催の舞踏会の」
「え、えええ!!」
毎年の恒例である、国王主催の舞踏会。それは、他の貴族達が気紛れに催すパーティーとは訳が違う。選ばれた者だけが参加を許され、規模も華やかさも、与えられる栄光も桁が違う。年に一度のこの夜の席に招かれるということは、それだけで一大事である。
国の最高権力者であり、象徴でもある国王が主催するのだから、当然と言えば当然なのだろうが。
「……で、お前はどうするんだ?」
ランと二人でどうしたものかと放心している内に候補生達が集まり。現在セリアの病室で、その招待状の処遇に頭を悩ませていた。
真剣な空気の中、セリアはもう一度同封されていた手紙に目を落とす。
それは本当に国王陛下からの物らしく、怪我に対する労わりの言葉に続き、ペトロフの報告書に関しての礼が並べられていた。それを読むに、舞踏会への招待は謝礼の気持ちであり、出来ればその際にでも詳細を報告して欲しいとのことだった。
手紙の文字を追いながら、セリアは非常に困惑する。
陛下からの招待を無下に断るなんて出来る筈もないし、報告もして欲しいというのだ。この様に直接手紙に書かれてしまえば、行かない訳にはいかない。けれど、如何せん自分は場違いである。
華やかな夜会など慣れていないし、下手をすれば招待してくれた陛下にまで恥をかかせてしまうかもしれない。
だからといって、参加しないなど出来ないのだ。が、しかし……
答えの出ない堂々巡りを脳内で繰り返していたセリアだが、その内何かを思い出したように、すっと顔を上げた。
「私は……行く」
はっきりと言い切るセリアに、顔を青くしながらどうすべきか迷うだろう、と予想していた候補生達は僅かに驚く。その理由を聞けば、少女の瞳が一瞬キッと強さを増した。
「国王主催の舞踏会なら、王弟殿下も出席なさるでしょ」
「……それはそうだが……どうする積もりだ?」
「何もしないよ。でも一度、直接顔を見てみたくて」
眉を寄せて不審そうに自分を見詰める候補生達に、セリアは誤解のないように首を振る。
「本当に、何かしようとか考えてる訳じゃないよ。ただ、直接会えば、何か分かる気がして」
ペトロフが託したのは、本当にあの報告書だけだったのか。絶対に違うと、何処かで言い切ってしまう自分が居る。理屈も根拠も無いが、もっと何かあった筈だ。彼が伝えたかったものが。
対峙した時に彼が繰り返し口にした、覚悟と犠牲。それが何を意味しているのか、自分にはまだ計り切れない。
自分が知った謀反は、きっと片鱗に過ぎないのだろう。その裏では、もっと大きな存在同士が渦巻いている筈だ。でなければ、謀反を起こすのに、あんな小規模の貴族達で動こうとする筈がない。その根に何があるのか。それは、国王陛下にも、そしてきっとヴィタリー王弟殿下にも繋がっている筈だ。
その本人の顔を見れば、もっと何かが解るかもしれない。
「…………それで?」
「へっ?」
「お前なぁ。あれだけ言ったのにまだ分かってないのか?下手なことしたら、今度こそどうなるか分からねえぞ」
「だ、だから、本当に何もしないよ」
「ふざけるな!ただでさえ後先考えずに突っ走って行くだろうが」
「でも……」
途端に降って来た叱責の声にセリアも思わず縮こまる。怯えるセリアに、けれど候補生達の声は和らぐ兆しを見せない。
まったく、あれ程の目に遭いながら、また何を言い出すのか。一度は分かったかと思ったのに、その舌の根も乾かぬうちに、一体何を考えているのだ。
渋る候補生達だが、その中に一人だけ、僅かに口の端を緩める者がいた。
「フン。好きにしろ」
「お、おい!!」
鼻で笑いながら言ったカールの台詞に、セリアを含めその場の全員が目を見開く。当の本人は別段気にした様子もなく、相変わらず涼しい顔でこちらを見下ろしてくるが。
「構わんだろう。王宮の中は警護の目もある。下手な動きは出来ない筈だ」
「だからって……」
「何より、陛下からの招待を断る訳にも行かないだろう」
その言葉に、イアンもグッと言葉に詰った。
言われてみれば、確かにそうだ。何と言っても、これは国王から直々に届いた招待。無下に断ることも出来ないのだから、王宮へ行くことはもう決まったようなもの。そうすれば、自分達が何と言おうとセリアはまた行動するに決まっている。
その事に気付き、候補生達も首を縦に振ることを余儀なくされる。まったく、どうしてこうも面倒な女なんだ、コイツは。
苛立ちで目つきが険しくなるイアンに内心悲鳴を上げながら、セリアは僅かにホッとしていた。何はともあれ、お許しが出たのだから。
夜会当日に、また勝手に動いたらきっと怒られるだろうし、ここは相談しておいた方が良いだろうと思ったからこそ口にしたのだが。
「でもセリア、大丈夫なの?怪我の方は……」
「多分平気。痛みも殆ど無いし。来月だったら退院してる頃だもの」
「なら良いんだけど。それまでゆっくり養生しないとね」
「うん。ありがとう」
礼を述べるセリアに微笑むと、ルネはそれじゃあと候補生達を部屋の外に出るよう促す。
あまり長居するのも可哀想だし、彼女なりに一人で考えたいこともあるだろう。その間にこちらも、もしもの時の為に対策を練らなければならないし。どうせ、今言った所で聞く耳を持たずに、また厄介事を持って来るのは目に見えているのだから。
と、かなり的を得たことを考えるルネは、まだ納得いかないような顔をしている候補生達を病室から連れ出した。
一人きりになったセリアは、大きく肩を落としながら深い溜め息を吐いた。
候補生達にはああ言ったものの、実は大きな問題がもう一つある。
どうしよう…… 何を着ていけばいいの……?
国王主催の舞踏会と言えば、年に何回もあるものではない。招待されるのは勿論、選ばれた貴族達であって、陛下や王族ともそれなりに深い関係の者が殆どだ。当然、セリアが過去に招待されたことなどない。
ベアリット伯爵家も、一応は名家だ。それなりに歴史も長いし、権威が無い訳ではない。けれど、それはローゼンタール公爵家等とは比べ物にならないのも事実。
何が言いたいかと言うと、はっきり言って場違いなのだ。
それに加え、こういった場は特に外見に厳しい。見窄らしい格好で出向けば、それこそ爪弾きにされ王弟殿下の顔を見るなど出来ないだろうし。下手をすれば、門前払いの可能性もあり得る。何より、自分は如何せんこういう事に慣れていない。
せめて、悪め立ちしないだけの格好をする必要があるのだが、どうしたものか……
以前夜会に自分で選んだ服で参加した際は、候補生達に地味だ何だと言われた記憶しか無い。それはまあ、多少は褒められたりもしたが、あれは建前だろうし。
そうして絶望に浸っていると突然、鈴を鳴らすかのような可憐な声が病室の外から聞こえる。
「セリア。入るわよ」
「あ、姉様?」
何の遠慮も躊躇もなく開けられた扉の向こうから、輝かんばかりの美貌を纏った、従姉様が現れた。
「具合はどうかしら?」
にっこりと微笑む姿は、まさに女神。カレンの存在一つで、病室が明るくなったような錯覚すら覚える。
やはり心配だったようで、怪我からカレンは毎週のようにこの病室を訪れていた。その度にセリアの回復具合を見ては、満足そうに帰って行くのだ。
唐突に現れた姉の顔を見た瞬間、脳裏に妙案が過ったセリアはパッと真剣な空気を纏った。
「姉様!」
「どうしたの?」
「実は、お願いがあって……」
その後紡がれた言葉に、ただでさえ大きなカレンの青い瞳が、更にその面積を増した。
そんな。漸く待ち望んでいたことが起きたと思ったのに。それなのに、ああもう、セリアったら。
でも、仕方ありませんわね。他でもない貴方の頼みですもの。精一杯やらせて戴くわ。
その変わり、私も目一杯頑張らせて貰うわよ。ああ、今からとても楽しみだわ。