病室 4
「ほら。あーん」
目の前に差し出された匙から、セリアはふいと顔を逸らした。そのまま視線だけを戻し、懇願するように元凶を見上げるが、あっさり無視される。
「だ、だって……」
「この件に関してお前に文句を言う権利は無い」
「うう、……」
ルネが、それは楽しそうに提案した所謂お仕置きという奴だ。それから、セリアは何一つ自分で行うことを禁じられてしまった。それはもう徹底的に、これでもかというほど、動きを抑制されているのだ。
その結果、セリアは医者を呼んだり、窓を開けたり、それ等全てを候補生達の監視と支えの元で過ごすことを強いられている。本を持つ事はおろか、起き上がるのでさえ一人でさせて貰えないのだ。
そうなると当然食事も自由に出来ない訳で、セリアは現在、まるで親が子供にするように、口の前にスープの乗った匙を差し出されていた。
そのまま食べろと言うイアンに、そんな小恥ずかしい事出来る訳がないではないか。と、セリアは何度も抵抗を見せたのだが、それが聞き入れられる見込みはない。
「強情だなぁ。食わねえと治らねえぞ」
「だから、自分で食べられるってば」
「ダメだ」
ほらほら、とセリアに口を開かせようと匙を突き出すイアンは、始終機嫌が宜しいようであった。そこから察するに、どうやら仕置きというのは建前であり、候補生達が楽しんでいる分が多いようである。それにセリアが気付くことはないだろうが。
香ばしい匂いのスープを早く寄越せと空腹の胃が要求するが、セリアはそれを無視し懸命に顔を背ける。その様を、イアンは笑顔で見詰めていた。
ずっとこうして居るのも悪くはないのだが、そうすると折角の食事が冷めてしまう。やはり温かい内に食べさせた方が良いだろう。
「早くしろって。俺もずっと腕を上げてるのは疲れるんだぞ」
「うっ!」
ただでさえ手間を掛けさせているのは自覚している為、そう言われてしまえば従うしかない。これがルネの言う“仕置き”であると思い込んでいるセリアも、ならしなければ良い、とは言い出せずに、渋々差し出された匙に口を付ける。それに満足したようで、イアンは空になった匙で再びスープを掬った。
まんまとイアンの策略に嵌ってしまった間も、セリアは内心でブツブツと不満を漏らす。
面倒を見てくれるのは有難いし、正直まだ動くのは辛いのだが。だからといって、これはあんまりではないだろうか。
そんなやり取りをしながら何とか食べ終え、食器を置いたイアンがニンマリと笑った途端、セリアは再びさっと顔を逸らした。
「こらっ!大人しくしろって」
「大丈夫だから。それくらい自分で出来る」
「ダメだって言ってるだろ。ほら、こっち向けって」
「いらない!!」
まるで自分が我が儘を言っているように聞こえるが、そんなこと今のセリアには関係ない。イアンが手に持つ布巾から、懸命に顔を背ける。けれど残念な事に、そんな抵抗、目の前の強敵には何の意味も成さなかった。
クイッと顎に指を掛けられてしまい、無理やりイアンの方を向かされる。あっ、と思った時には既に遅く、白い布が口元に宛てがわれた後だった。
「うー、」
「ほら。我慢してろ」
ギュッと目を瞑り羞恥に耐えるセリアの口元に布を押し当てながら、イアンは自然と頬が緩むのに気付く。そこに、僅かながらも不純な感情があるのを自覚しながらも。
本来なら、自分はずっとこうしたかったのだから。優しく包まれる事に戸惑い、強気に抵抗を見せながらも自分に従うセリアが、今は可愛くて仕方ない。
一つの空間に押し込めて、誰の目にも触れさせず、自分だけを見詰めさせたかった。それを可能にするこの場所に、背筋を振るわせる程の愉悦が走る。
「なんかいいな。こういうの」
「へっ?」
「今だけでも、お前を独占出来るからな」
「はい……?」
思わずイアンが口走れば案の定理解していないのだろう、セリアは渋い顔をする。
首を捻ってその言葉を頭の中で繰り返してみるが、一向に意味を汲み取れない。一体、自分は何を言われたのだろうか。というより、何故コイツはこんなにも楽しそうなのだ。自分はこんなに苦しんでいるのに。
眉を寄せるセリアに、イアンもクッと喉の奥から笑いが込み上げた。
出来れば、ずっとこうしていたい。けれど、それももうすぐ終わりなのだ。
「イアン。交代の時間です」
コイツ等が居るから。
病室の外から現れたザウルに、イアンは短く息を吐き出し「ああ」と応える。
放って置けば常に病室に居座り続ける候補生達だったが、流石にそれを続ける訳にも行かず。時間を決め、交代でセリアの見舞い(見張り)をすることに決めていた。
「ザウル。早くねえか?」
「そんなことありません。時間は正確ですよ」
穏やかに言われイアンは少々不満を覚えながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「セリア殿はどうでしたか?」
「今、食事が終わった所だ」
「了解しました」
友人二人の会話を聞きながら、セリアはぐぅっと訳の分からない唸り声を上げた。
これでは、まるで子供の扱いではないか。それでなければ囚人か。実際迷惑を掛けたのだし、彼等がそんな風にするのも解らなくはないが、これはあまりにも酷い仕打ちではないか。拷問でも受けた方がまだマシのような気さえしてくる。
寝台の横に腰掛けたザウルと共に、去っていくイアンの背を見送ったセリアは途端に顔を背けた。その意図を理解しているのだろう、ザウルはニコリと笑い軽く腰を浮かせる。
「セリア殿。薬を……」
「だから自分で飲めるってば」
「いけません。不用意に御身に負担を掛けては」
だから、たかだか薬を飲むくらいで負担なんて掛かる訳ないではないか。
セリアの悲痛な叫びは、相手がイアンであってもザウルであっても届かず、口元に水の入ったコップが近づけられる。
勘弁してくれ、と祈りにも似た感情を込めた瞳を向けるが、それは穏やかな笑みに弾き返されてしまった。
半ば諦めているとはいえ、何度経験しても慣れるものではない。本当に、どうにかならないものだろうか。
何処か不満気な顔で苦悩を乗り越え、セリアは何とか寝台に再び落ち着いた。なんだか、どっと疲れが押し寄せてきたよう気分である。
ゆっくりと息を吐き出すその姿を確認したザウルは、それまでの穏やかな空気を隠し、僅かに瞳を曇らせた。それに気付くと同時に紡がれた言葉に、セリアも疲労など吹っ飛び驚きに目を見開く。
「セリア殿。実は、此処に来る途中、クラリス殿とお会いしたのですが……」
「クラリスさんと?」
「はい。貴方にこれを渡してくれと言われて」
ザウルが持ち上げた手を覗き込むと、そこに見た物にセリアはあっと驚きの声を上げた。
「こ、これって……」
差し出されたのは紛れもなく、あの夜奪われた筈のペトロフのペンダント。敵に渡ってしまった筈のそれが、しかも二つ揃っているではないか。
「貴方に、心からの謝罪をと」
「…………」
ザウルを通し伝えられたクラリスの言葉にどう反応すべきか迷うセリアの表情は、少しずつ暗いものに変わっていく。
クラリスがこれを持って来たということは、やはり……
けれど、そうするとどうにもやりきれない。ペトロフの報告書には、シュライエ子爵の名もあった。父親が謀反に加担していたことを、彼女は知らなかったのだろうが。
「それと、貴方に感謝していると。例え如何なる結果になっても、それが国の為になるのなら、と。それがあの方の望みだそうです」
「クラリスさん…………」
視線を落とすセリアに、ザウルはそのペンダントを受け取るよう促す。
病院の前で、自分達が来るまで待っていたのだろうクラリスは、この病室を訪れる事を拒んだ。今更、会わせる顔が無いと。
彼女は、明日にでもフロース学園を去るそうだ。事情を知らない生徒達からは、相当引き止める声があったが。けれど、彼女は気丈にそれらを全て断っていた。
そのことを聞いたセリアは、より一層気分が沈むのを自覚する。まるで胸に重い鉛を押し込まれたようだ。
解っていたことだが、こうして突きつけられるのはやはり心苦しい。謀反を実際に企てたのは子爵達であり、その家族は巻き込まれただけだ。その事を、陛下はきっと理解して下さるだろうが、何の咎めも無しとも思えない。
だからといって、知った事実を隠すことも出来ない。何よりも、これは謀反だ。国へ反旗を翻す意志のある者達を、見て見ぬ振りをすることはどうしたって出来ない。国への忠誠がどれほど求められているのか、謀反がこの国でどれほど重い罪かは、子供でも知っている事だ。
一瞬生じた迷いを、けれどセリアは首を振って懸命に追い出す。それと同時に、ペトロフに毅然と言われた言葉を思い出した。
決して綺麗事だけでやってなどいけない。寧ろ、美しくないものの方が多い。それが、自分の選んだ道だ。
グッとセリアが強く拳を握れば、手の中のペンダントが堅い音を立てた。
そのまま、セリアにとっては苦痛の日々が続き、けれどだからといって候補生達が“仕置き”を撤回してくれることはなかった。結局あれから三週間が経った今でも、セリアは赤子同然の扱いを受けている。
辛うじて、多少動いたり、寝台の上で身を起こすことは許されたが。それでも、食事の時間の拷問は続いていた。
「……それにしても、凄いね」
ルネが林檎の皮を包丁で器用に向きながら目を向けたのは、部屋を埋め尽くしている大量の花と果物。それらが一杯に詰まったバスケットが、これまた病室一杯に詰め込まれているのだ。
どうしてそんなものが部屋一杯に詰め込まれているかと言うと、数日前に突然この病室に贈られて来たのだ。全て匿名で届いた物で、贈り主に見当もつかないそれらに、候補生達が目を見開いたのは言うまでもない。
確かに、病人や怪我人に贈る品としては間違っていない。ただ、その量が問題であり、匿名であることも気がかりであった。
もしや宛先が違うのでは、と確認してみても、それは確かにセリア・ベアリットに贈られた物。候補生達も色々と調べてはみたが、ついにその送り主を特定することは出来なかった。
かと言って、毒が盛られている訳でもなさそうだし、匿名であることを覗けば、これは喜ぶべきなのかもしれない。
しかし、なんといっても量が尋常ではない。果物は一週間を果物だけ食べてもまだ余る程だし、花は部屋が一面の花畑を詰め込んだのでは、と錯覚する程。
幸い、花はルネが腕を振るい全て花瓶に生けてくれたし、果物も看護婦に頼んで病院に入院している他の患者達にも振る舞って貰うことにした。
そうして、漸く適当な量になる見通しが立ったそれ等を、セリアとルネとで有難く頂戴している所だ。先程帰ったイアンも、苺を数粒摘んで行った。
「はい。出来たよ」
ニッコリと満面の笑みでルネが差し出したのは、皿の上に綺麗に乗せられた兎。正確には、兎の形をした林檎だ。その見事な出来映えに、セリアは思わず目を見開いた。
赤い耳の生えたそれに見惚れていると、サクッと良い音を立ててフォークが突き刺さり、口元に差し出される。ここでも、やはり自分で食べることは許されないようだ。
鼻をくすぐる甘酸っぱい香りに、セリアはゆっくりとそれを一口頬張る。途端に、期待を裏切らない新鮮な甘味が口に広がった。思わず顔を綻ばせれば、ルネも満足そうしたように頷く。
「美味しい?」
「うん。でも、誰からか解らないのに、いいのかな?」
「いいんじゃない。セリアに贈られて来た物なんだから」
本当に問題無いのだろうか?というより、一体誰から贈られて来たものなのだ。候補生達の誰も心当たりはないと言っていたし、当初は自分も気味が悪いので手を付けるのが憚られたのだが。けれど放って置いては、果物も花も痛んでしまう。それは非常に勿体ない。特にこの量では。
難しい顔で果物の山を見詰めるセリアの前で、ルネも赤い兎を口の中に放る。どうやらお気に召したようで、何かに納得したように頷いていた。
「折角貰ったんだし、残したら勿体ないでしょ。だから、セリアも我慢して食べてね」
ルネの言葉はつまり、例え恥ずかしかろうがなんだろうが、文句を言わずに自分達に食わして貰え、と言うことらしい。どうにか逃れられないかと模索するセリアだが、妙案が浮かぶ前に再び口元に兎が突き出されてしまった。
「ーーーー」
「なんだ、不機嫌そうだな」
「それはそうだろう。学園内に彼方側の人間が交じっていたのだぞ。しかも、それに気付かなかったとは」
「まあ仕方ない。その辺りは、彼方が上手だったということだな。用意が周到なのは何時ものことだろう」
向かい合う二人の男は、何時かのようにチェス盤を挟んでいる。難しい表情で白の駒を操るのは、フロース学園の校長だ。そうして相手の駒を一つ盤の外に追い出すと、その浮かない顔にも僅かに光が差した。
「それにしても、クイーンを危うい目にあわせたことは良いのか?」
「これくらいのこと、乗り切って貰わねば困るだろう。逆境の中でこそ得る物も多いのだよ」
「相変わらず、手段を選ばないな。お前は」
目の前の友人が悪びれもなく言って退ける様に、対局している相手も眉を上げる。そのまま黒の駒で、立ちはだかる邪魔な駒も弾いておいた。
「もし潰れていれば、どうする積もりだったんだ」
「まったく、私も信用を失ったものだ。私の宝石は簡単には砕けないさ。それに、実績を積んでもらわなければ、次のゲームには進めないだろう」
「クイーンを大事にしていたのではなかったのか?」
「勿論だとも。ただ、使えることを示すのに、多少の経験が必要なことはお前も解っているだろう。私は、その機会を与えてやっただけだ。後のことは全てクイーンの判断だよ」
よくもまあ、そこまで腹を真っ黒に染めたものだ。と男は出そうになる言葉を、けれど考え直し飲み込んだ。言ったところで、この男には応えないだろう。どこまでが本気なのやら、あまり想像したくはない。
「それで、見事乗り切ってみせた私のクイーンに褒美はないのか?」
「自分で危険の中に突き出しておいて、よく言う」
「私が与えられる物より、余程良いものがあるだろう」
「まあ、考えてはあるさ」
そう言った男は校長に一枚の白い封筒を差し出した。それを確認した校長も、ニヤリと口の端を吊り上げる。
手に渡された封筒を、満足げに頷きながらそっと仕舞う。次にその手で再び駒を動かした。
「まだ無理はさせられないが、何とか間に合うだろう」
「しかし、お前に怪我人に鞭打つ趣味があるとは、知らなかったな」
「彼女にしてみれば、これほど喜ばしいことはないのではないか?」
「それを利用するのだから、立派な鞭だろう」
男の嫌味は僅かながらに響いたらしく、校長はヒクリと頬を動かした。しかしそこは流石フロース学園校長。無駄な威厳を駆使し、何食わぬ顔で白の駒を持ち上げる。
「今頃はあれも届いている頃だろうな。他の見舞い品など目に入らぬ程気に入ってくれただろう」
「何を言うかと思えば。花を贈られて喜ばん娘は居ないぞ」
「フフフ、甘いな。私はあの子の好みを良く知っているのだよ」
「しかし食してしまえば終わりだ。その点、花は暫くは持つからな。鮮やかな花を飾れば心も休まり、傷も早く癒えるというものだ」
「食物は栄養となる。何の足しにもならない観賞するだけの花よりは、治療に貢献しそうだが」
真面目な話しをしていた筈の二人の会話は、段々とどうでも良い方向へと向かっている。しかも、その間もチェス盤の上で駒は進んでいるのだ。
上では口論、下ではゲームが進行している状態に、最終的に終止符を打ったのは黒の駒であった。そのまま白のキングを射程に入れると、静かな沈黙が流れる。
「やはり、あの娘は花をより喜んでくれたようだな」
「ぐっ……」
対局を制した男に、校長は何も言い返せず口籠る。
どちらの贈物が喜ばれたかをチェスで決めてしまった二人は、受け取った当の本人である少女が、贈り主の解らぬことと、その量に頭を抱えたことなど知る由もない。
そこに行けばきっと何か解ると思う。それに、どうしても一目見たいから。突然のことだけど、折角だし。だから……