病室 1
校長室を漂う雰囲気は、いつもとは違い何処か緊迫していた。けれどそれに臆する者はおらず、ただ時が静かに流れるばかりだ。
パラパラと報告書に目を通す校長をカールは静かに待つ。二人の間に当然会話などある訳もなく、ただ沈黙を守っていた。
「……ここに書かれている事は?」
「全て事実です」
躊躇のない答えに、校長も若干眉を寄せる。
「そうか……この件はこちらで処理するよ。すまなかったね」
「我々は、己の役目を果たしたまでです」
候補生達が一晩で完成させた鮮明な報告書。その内容に、校長も普段の余裕や穏やかさを胸の内に仕舞う。けれど同時に動揺や驚きも殆ど見受けられない。
相変わらず食えない男だ、と内心でカールは舌打ちした。
「校長。実はもう一つ、検討して戴きたい件が……」
最後のページを読み終えた頃に、真剣な風に切り出され校長も顔を上げる。そして、先を促した後に聞いた言葉には、流石に目を見開いた。
「セリア・ベアリットを、マリオス候補生から外すべきです」
まさか彼の口から聞くとは思っていなかったのか、あまりの予想外な内容に校長も一瞬言葉を失った。そのまま数回目を瞬かせると、けれど冷静に切り返す。
「……理由を、聞かせて貰えるかな?」
「適切ではないと判断しました」
言葉少なに淡々と述べるカールに、校長も困ったように眉を寄せる。けれどここで説き伏せられてはならない、と校長の威厳に賭けて言葉を続けた。
「適切でないというのでは、まだ具体的ではないね。彼女は力不足だと思うかい?」
「…………」
「カール君。君の人を見る目は本物だと思っている。だからこそ、私は君も賛成してくれると思っていたのだが」
「恐れ入ります。ですが、あの者は候補生でいるべきではありません」
冷たい瞳が、ここは引かないと強調するように光る。けれど、それを躱す方法を校長は心得ていた。
「彼女はきっと国の為に勤めてくれる。そして、候補生とはそんな若者がなるべきだと思わないかい」
にっこりと微笑む校長に、カールの表情は逆に冷たくなる。他人がここに居たなら、間違いなく卒倒しそうな空気にも、校長は平然と続けた。
「彼女には実力が伴っている。ならば、それに見合った地位は当然ではないかな?」
「…………」
「君の言葉も考慮しよう。だけど、私は彼女から候補生の座を取り上げる積もりはない。あるとすれば、それは彼女がマリオスに不向きだと判断された時だよ」
決して校長が折れないことを悟ったカールはそれ以上を発することなく、ただ冷たく瞳を細めた。
ヨークの件に加え友人達の言葉は、多少なりともセリアに衝撃を与えた。それはもう誰の目にも明らかで、今も俯いたままジッと大人しく寝台の上で項垂れている。
慕っていた人間に命を狙われたことは、かなり応えるものがあったらしく、セリアはぼんやりと己の手を眺めていた。既にその焦点もあっていないのだが。
幾ら銃口を突きつけられたと言っても、覚えているのはのほほんと微笑む彼だ。例え別の意図があったのだとしても、自分が今の地位にあるのは彼のお陰なのだ。
彼の言葉が無ければ、自分はここには居ない。だからこそ恩義も感じていたし、とても信頼していた。感謝しているのは本当だし、今も同じ気持ちだ。
今更、恨む積もりも、責める気もない。素直に憎めるとも思えない。ただ、その彼が敵だと突然言われても、それをどう受け止めていいのか解らない。受け止め切れないと言った方が良いのか。
加えて友人達のキツいお叱り。特に、カールの台詞は今も脳内で響いていた。
『思い上がるな……』
そんな積もりは無かったが、実際はそうだったのだろうか……
自分が力不足で足を引っ張るから彼等が怒っていると思った。けれど、その後のルネの言葉はそれを否定するもの。だとしても、ならばなんだと言うのだろう。考えろと言われても、一向に答えなど思い浮かばない。
廻り出す思考は響いたノックの音で遮られ、セリアはハッと我に返った。
「セリア。私だ」
「ラン!?」
扉の向こうの人物にセリアは焦る。まさかこんなに早く来てしまうとは。まだ彼等の言った宿題が出来ていない。幾ら考えても行き着くのは昨日と同じ答えで、けれどそれではまた彼等に怒られてしまう。
サッと青ざめるセリアの願いとは裏腹に、ランは迷わずその扉を開けた。その碧眼が、病室の寝台の上に大人しく座っている少女を捉えると、明らかに安堵した顔を見せる。まさかまた居なくなっているのでは、と疑っていたようだ。
「ら、ラン。あの……」
どうしよう。まだ答えは出ていないと説明するべきだろうか。それとも、幾ら考えても解らないのだから、もう昨日と同じことを言ってしまおうか。
どうすればよいのだ、と冷や汗を流すセリアに、ランは僅かに眉を寄せた。
「気分でも悪いのか?」
「う、ううん。まさか、そんな。全然平気ですとも」
「……君のその言葉は信用出来ない」
容赦なく言われたセリアは、うっと声を詰まらせた。しかし、彼がそう言うのも仕方ないので、反論は出来ない。
このままでは、また怒られてしまう。と、目の前で麗しい顔を多少歪めたランに、セリアは内心で悲鳴を上げていた。
背中に冷や汗を流すセリアの前で、ランは短く息を吐き出す。
「……私も、今度ばかりはカールの言葉に反論はしない」
突然切り出された話題に、セリアは一瞬何のことだと目を瞬かせる。けれど、すぐにそれが昨日のことだと気付いた。
何と返すべきか解らず、妙な沈黙に耐え切れなくなり視線を逸らすが、それに構わず続いたランの言葉にセリアは再び顔を上げた。
「君は、なぜそうも自分の身を顧みない」
「えっ?」
「それが、私達をどれだけ不安にさせ、苛立たせるかも、君は理解していないのだろう?」
「え、えっと……」
待て待て!なんだかいきなり妙な雰囲気になってやしないか。ランの言っている意味が理解出来ないのだが。でも「なんのことですか」なんて聞いたら絶対に怒られる。というより、彼が少しずつ身を寄せてくるので、距離が近い。
「君なら、危険を回避することも出来たはずだ。本当ならば、我々に任せるべきだった。にも関わらず、どうして手負いの身で一人突き進むことを選ぶんだ」
「だからそれは……」
「まるで、君に自分などどうでも良いと言われているようで、それはどうしても許せない」
「ひ、ひぃええ!」
伸びて来た大きな腕の中にしっかりと収められ、セリアは頓狂な悲鳴を上げた。
傷に触らぬよう配慮はしているようで、力はさほど強くはないが、けれど振り解ける程でもなく。
動揺しだすセリアを抱きすくめたままランは、耳を寄せる様にその胸に顔を埋めた。
流石のセリアも、これには一気に顔から血の気を引かせ、焦りで思考は停止する。それと同時に、もうこれ以上は見過ごせるか、と必死にランを押し返した。けれど、傷が痛む為どうしても腹に力が入らない。
「行かないでくれと、私は君に言った」
聞こえたか細い声に、何とか引き剥がそうと躍起になっていたセリアは動きを止めた。
「恐ろしいんだ。君からこの音が聞こえなくなるのではと思うと」
ランが強く耳を押し当てれば、動揺と焦りから乱れた鼓動が鼓膜を突く。耳に心地いいその音と、確かに感じる温もりに、ランは静かに瞳を伏せた。
姉の呼吸が止まった時、その鼓動も同じ様に消えて行った。ほんの僅かに聞こえる音が、少しずつ、少しずつ消えいくその恐怖は今でも根深く残っている。だからこそ、たった一人のこの少女を、絶対に手放したくない。
「君だけなんだ、私が心を許せる女性は。君が居れば、もう何もいらない」
「…………ラン」
「だから、決して失いたくないんだ。君を。私の、たった一人を」
静かな空間に呼吸する音が僅かに響く。まるで子供が母に縋るように、そのまま顔を上げようとしないランに、セリアもすまなそうに瞳を伏せた。
「ラン。ごめんなさい」
ここまで言われれば、幾らセリアが鈍くとも、自分がどれだけ彼等を不安にさせたのかを理解する。申し訳ないと心底思いながら、何とか自分の考えを示そうと慎重に言葉を選んだ。
「でも、私もそんなに簡単に自分がどうなっても良いとか考えてる訳じゃなくて。そう易々とやられる積もりはない、といいますか」
自分の身がどうなっても良い、と考えている訳ではない。国の為なら全てを捧げる覚悟はあるが、命を無意味に放り出す積もりもなかった。彼等の言うように、己を顧みず、死んでも良いなどとは思っていない。
それは分かって欲しい。
「でも、心配掛けて……ごめんなさい」
「……セリア」
叱られた子供のように下を向くセリアに、僅かに溜め息が漏れる。
まだこちらの心を完全に理解したとは言い難い気がするが、今はこれが精一杯なのだろうか。懸命に弁解するセリアに、ランもそれ以上は望むまい、と半ば諦めた様に頬を緩めた。そして、そっとセリアから身を離す。
解れた緊張に漸く落ち着いたのか、セリアが「あと一つ」とランの瞳を真剣に見返した。
「私だけなんて言わないで」
「っ……?」
「ランが、お姉さんのことで女の人と距離を取ろうとしてるのは知ってる。でも、強い女は一杯いるし。きっとその中には、素敵な人も沢山いるよ」
ランが心を許せると言ったのは、自分が突然消えてしまうような存在ではないと感じたからだろう。
姉を失ったランが、その恐怖を拭い切れていないのは聞いた。
しかしだからといって、自分だけだ、などと言って欲しくなかった。それがまるで、彼の心の壁を表しているように感じたから。自ら枷を嵌めるようことをして欲しくない。それでは彼のこれからの出会いの妨げになってしまう。大切な友人と、彼の未来の相手との障壁にはなりたくなかった。
「だから、私の他にも……」
続けようとした言葉は、頭に大きな手が優しく置かれた事で遮られた。驚いて顔を上げれば、ランがジッと見下ろしてくる。その色が、いつもとあまりにも違うのはセリアにも分かった。何か、熱いものを含んだ様な……
けれどそれが何かを見切る前に瞳が閉じられ、僅かの間沈黙が流れた。
この少女は、やはり何も解っていない。何故自分達がここまで彼女を案じるのか。何故、彼女を守りたいと願うのか。
「そう、だな……」
けれど出て来たのは、笑顔の仮面と、胸に渦巻く感情とは真逆の答え。それを言い直すことはしないが、叫びたいのは別の言葉だ。
違う…… 彼女でなければ。今目の前に居る栗毛の少女でなければ、自分はダメなのだ。
例え、目の前にどんな女性が現れようと、それは自分にとって何の意味も成さない。自分がこの腕に抱きしめたいと思えるのはたった一人。そのたった一人を望むのに、他に心など開けない。
けれど、今この少女の笑みが見たいと、そして安心したいと、目先の欲望が気持ちを抑えろと訴える。そしてそれに従えば、自分の欲求はいとも簡単に、彼女の子供の様な笑顔で満たされるのだから。
笑顔で頷く少女に、胸の芯がジワリと熱を放つ。けれど、己の気持ちを叫べないという虚しさもあった。
複雑な心境のまま、ランが小さな頭を撫でていると、再び病室の扉を叩く者が居た。声で返事すれば、静かに開いた扉の後ろから、ひょっこりと顔を覗かせたのは思った通りの面々。
昨日は眉間に皺を寄せていたイアンとザウルも、微笑むルネの後ろでいつも通りの穏やかな表情を見せていた。唯一その中にカールの姿が無いことを確認すると、セリアは深く息を吐く。
やはり、彼はまだ怒っているのか。なんとなくホッとした様な、落胆した様な、妙な気持ちだ。
「あれ!ラン、早いね。セリアはちゃんと大人しくしてた?」
「も、もう勝手に出て行ったりしないよ」
「そんなの信用出来ないでしょ」
周りの三人にも頷かれてしまい、セリアはうっと言葉に詰まった。それに構わずルネはニッコリと微笑み、セリアの前に顔を突き出す。
「ところで、昨日の宿題は?」
「うっ!」
「ランに助けてもらったなら、出来るよね?」
その微笑みがどうしても悪魔の笑みに見え、セリアはタラリと冷や汗を流す。というより、ランに助けてもらったとは、やはり先程の話しはそういうことだったのか。しかも、それがバレているではないか。
本能的になんとなく危険な空気を感じ、セリアはジリジリと後ろへ下がるが、寝台の上では逃げられる距離など高が知れている。
遠慮なく詰め寄るルネに、セリアは見えない鎖で拘束されているような錯覚を覚えた。
けれど、逃げ出したくなる衝動を必死に押さえる。
「し、心配掛けて、無茶して。ごめん、なさい……?」
「ククッ。何で疑問系?」
しまった! と思うがもう遅い。けれどもし違っていたら、また怒られてしまうのは確実なのだし。そう思うと、やはり自分の答えにちょっと自信が無い。
オロオロと視線を彷徨わせるセリアに、ルネも笑いを洩らした。
随分と悩んだようだし、後ろの友人達もそれで良いみたいなので、今回はこれでよしとしようか。
「まあ、満点じゃないけど、一応それで合格ってことにしてあげるよ」
「は、はぁ。ありがとう」
取り敢えずは自分の答えで正しかったらしい。どうやら、相当心配を掛けてしまっていたようだ。命に関わるような大怪我ではなかったとはいえ、自分も少し無茶をしたかな、と反省する。
漸く肩を落としたセリアに、今度はイアンが何やら大きな封筒を見せた。少し土で汚れているそれに、セリアの背に僅かに緊張が走る。
「お前の言った通り、学園の稽古場のど真ん中に埋められてた」
「本当に!?」
まさかとは思ったが、本当に稽古場に埋められてたとは。
ペトロフのペンダントに記されていた文字は、フロース学園の稽古場を示していた。どこまでも、ペトロフは他人をおちょくるのが好きらしい。一体、どうやってあんな場所に隠したのか。というより、学園内に敵が居ることを知っていながら、敷地内にしなくても。
信じられないと言った風にセリアが驚いていると、その目の前にイアンが封筒を差し出した。
「中はお前が確認すべきだろ?」
恐る恐るその封筒を受け取り、いいのか? と確認するように見上げれば、その場の全員が頷く。それを見たセリアも、意を決めゆっくりと封筒の口に手を伸ばし、中身をそっと取り出した。
出て来たそれは、何枚もの資料のようで、セリアはそれにじっくりと目を通して行く。そして、その顔から段々と血の気が引いて行く様子に、候補生達も眉を顰めた。
「……セリア?」
「……これって…………」
どうしよう、と困惑の色を目に宿したセリアが、恐る恐る差し出すそれに、候補生達も目を落とす。読み進めて行く内に、それがとんでもない内容だということに気付き、候補生達も目を見開いた。
「謀反に関する報告書、だよね?」
「……それと、反逆者の一覧と証拠」
急に突きつけられた現実に、流石の候補生達も呆然とするしかなかった。
何処までも物事をはき違える積もりか。今のままで、お前の望む場所まで辿り着けるとは到底思えん。
それを理解しないようなら、さっさとこの場から立ち去れ。