始まり 2
大量の椅子を目にしてから一週間。セリアは平和に過ごしていた。
それからの、マリオス候補生達との大きな接触は無い。クラスが違うので、それも当然だろう。例の案内が終われば、学友、という関係で終わるのだから。
途中廊下ですれ違えば普通に挨拶も交わすし、多少の会話もするが、それだけである。それだけでも他の女生徒達にしてみれば十分妬みの対象になるのだが、椅子を積み上げ満足したのか、目立った嫌がらせは無い。
「それでは、授業はここまで」
ヨークの一言で、教室内はすぐに騒がしくなった。授業が終われば当たり前の光景なので、誰も気にしない。それよりも、セリアが気にしているのは。
「無い……」
鞄の中を漁っても、机の中を覗いても、自分の教科書が数冊見当たらないのだ。可笑しい。数時間前までは確かに机の中に閉まっていた筈だが。
何処かに置き忘れたのか、と思い直し急いで教室を出る。それから校内を走り回り、思い当たる場所は大体当たったが、一向に見つからない。まだ慣れない学園内でもあるためだが。
これは、かなりまずい状況になった。
もう一度机を見て見よう、と教室に帰って来ると、先程は無かった筈のメモが置いてあった。
『教科書、三階物置』
いかにも怪しすぎる内容だが、だからといって放っておく訳にもいかない。取り敢えず、教科書だけでも見つけねば。このメモを見る限り、どうやら自分が何処かに置き忘れた、という事では無さそうだ。自分は今日、三階へは行っていないのだから。
はあっとため息を吐くと、セリアはしぶしぶと足を廊下へ向けた。
今回の事で思い当たる節があるとすれば、昨日のあれであろう。
偶然出会したラン達と下校を共にし、そこでその日の授業で交わした議論についての意見を求められたのだ。当然のようにセリアが自分の答えを述べると、そのまま話し合いは発展し、気付けば夕食まで共して議論に熱を上げたのだ。
そしてその現場はばっちり目撃されており、多少静まった女生徒方の嫉妬の火に再び油を注いでしまったようである。
三階の物置は、廊下の隅にあり、いかにも人目につかない場所である。中には掃除器具等が仕舞われており、それなりの広さがあるが、埃っぽさもそれなりで、人が歩けばたちまち塵が舞い上がるだろう。
セリアが中を覗けば、なんとも御丁寧に部屋の真ん中に教科書が無造作に置かれている。
勘弁してくれ、と言いたくなるが、教科書が見つかっただけ良しとしよう。と中へ入ると、後ろで無情にも扉が閉まる音がした。慌てて振り返れば、外側からカチャリと子気味の良い音まで聞こえる。
何となく予想はつくが。試しに扉を押してみるが、案の定、開かない。
さて、いよいよ本格的に困ったものだ。
授業が終了すれば、生徒は皆下の階へ向かうので、三階に残っている者は少ないだろう。今来る時もそうであった。明日まで待てば、少なくとも誰かがここを通るだろうが、それを待つ気は無い。
部屋を見回しても、他に脱出出来そうな場所が無い為、出入り口は当然目の前の扉のみとなる。そうすると、当然結論は扉をぶち破る以外無い訳だ。物置内を物色してみるが、使えそうな物は無い。
仕方あるまい、とセリアは立ち上がった。
扉から二三歩離れ、勢いをつけて身体をぶつける。しかし、ビクリともしない。しかも、肩には鈍い痛みだけが広がる。だがここで諦めるほどの大人しさをセリアは持ち合わせてはいない。何度も何度も扉に体当たりを決める。全く効果が無い訳でもないが、扉をぶち破るのには時間が掛かりそうだ。
なかなか崩れない扉に、少々苛立ちながらも、持ち前の諦めの悪さで止める事はしない。
これでもか、ともう一度勢いをつけて扉に向かった瞬間、光が目に飛び込んで来た。えっ、と思った時には遅く、全開にされている扉に突進してしまっていた。
「ぎゃっ!!」
猫を踏んだ様な声を出しながら、勢いを殺せなかったセリアはそのまま床に突っ込む羽目になった。
「……貴様は一体何をしている」
この声は!と、打った鼻を抑えつつ、セリアが振り向くと、そこには呆れた様な表情でこちらを見下ろす魔王がいた。
人の居ない静かな場所を好むカールは、授業後も校舎内に留まっている事が多い。
そんな中、廊下の隅からガタンガタンと何かを叩く音がしたので来てみれば、施錠された扉。開けてみれば、飛び出して来たのは、栗毛の地味な少女。少し前に校舎内を走り回っている人物と、中から聞こえる声の主が同じなので予測はしていたが。
物置を覗いてみれば無造作に置かれている数冊の教科書。そして、簡素にだがしっかり施錠されていた扉を見れば、何があったかは大体想像出来る。
「カ、カールハインツ…様……」
「廊下が想像しいと思えば、やはり貴様か」
見下ろす瞳は、相変わらず涼しげだ。よりにもよって、自分が以前啖呵を切った張本人にこんな失態を晒すとは。助けてもらえたのは有り難い。だが、彼は一番会いたくない人物でもあった。
しかし、何も言わない訳にもいかない。自分があの扉を一人で破るには相当の時間を要しただろう。それまでに身体がもったかどうか。実際、肩の痛みもかなり悪化している。間違いなく痣になっているだろう。それに、彼には言わなければいけない事があるのだ。
床から立ち上がり、制服のスカートの埃を祓ってから、背の高い彼を見上げる。
「あの……助けて頂いてありがとうございました」
「助けた訳ではない。廊下が想像しいので、その元を見に来ただけだ」
「あと……」
セリアはガバッと頭を下げた。
「あの時は、申し訳ありませんでした。理由も知らずに私の一存で決闘を中断させてしまいました」
「………」
あの時、彼等が何故決闘などしていたかは知らないが、とりあえずこれで全員に謝った。決闘を止めたのを間違いだったとは思わないが、余計な事だったかもとは思う。なので、その為の謝罪だ。
「ほお、自覚は有るようだな…」
低い声で言われて、うっと怯む。特に責められた訳ではないのに、なんだこの威圧感は。
「だが、謝罪の必要はない」
思っても見なかった人物から、思っても見なかった言葉を言われ、また驚いた。ラン達は分かるとして、見るからに厳しそうな彼まで、ラン達と同じような事を言うとは思わなかったのだ。
「あ、ありがとうございます。カールハインツ様」
「カールで構わん」
「……?」
これは、もしや友好的と捉えて良いのだろうか。
言われた言葉に少しの優しさを感じたので、彼の表情を見たが、変わらず冷たい瞳で見下ろして来る。
「それと、礼儀を弁えるのは良いが、習熟していない言葉を使う必要もない」
更に言われ、再び混乱する。つまり、丁寧に話すのに慣れていないのであれば、気さくに話せば良い、という事だろうか。
そんなに言葉遣いが不自然だったであろうか、とショックを受けるが、これもイアン達と同じで形式ばらないでも良いという意味だろうかと考え直す。
しかし、そんな冷たい顔で言われても、実感が湧かない。相当顔が整っている為、余計そう感じるだけかもしれないが。
相手の真意が分からず、疑問符を浮かべていると再び言われた。
「フン。貴様とは多少なりとも価値ある議論が交わせそうだと思っただけだ」
それだけ言って彼は歩き出したが、すれ違う時、いきなり右腕を掴まれた。痣が出来ているであろう肩の方の腕だ。
「いっ!」
急な痛みにセリアも遂に顔をしかめる。いきなり何をするのだ、と彼を見上げるが、その瞳は相変わらず冷たい。
「それから、今すぐ医務室へ行け」
脅すような声色に竦み上がりそうになる。腕を放して今度こそ立ち去ったカールに、呆気に取られた。
言葉だけを聞けば、肩を心配してくれたのは分かる。だが、その行動と表情はとても気を配った風ではない。実際は、助けられた上に心配までされたのだが、どうも分かりにくい。
しかし、今ので彼が親切だという事だけは十分理解した。それに、自分とは議論が出来ると言った。自分の意見を認めてくれたのだ。それを考えただけでも嬉しさで肩の痛みが消えて行く気さえする。
すっかり気を良くしたセリアは、物置の教科書を拾い集めると、上機嫌で言われた通り医務室へ向かった。
「痛っ!」
医務室へ来たは良いが、丁度誰も居ない為、セリアは一人で肩の治療を行っていたのだが、案の定、悪戦苦闘していた。
夢中だった為あまり自覚は無かったが、相当強く打ち付けていたらしい。肩は内出血で赤黒くなり、大きな痣も出来ている。前はそれ程感じなくても、見てしまえば痛みがぶり返して来た。取り敢えず湿布を貼ったが、しばらくは動かしたくない。
それでも、セリアにとっては、カールとの会話の方が重要だった。
肩の治療をさっさと済ませ、寮へと向かう。思った以上に物置の中で時間が経っていた様で、もう陽が落ちようとしている。今日の課題もこなさなければならないのだ。
セリアは意気揚々と医務室を出た。
しばらくは気合いで誤魔化していたが、やはりそれでは治らない。夕食時になり、食堂で夕飯を済ませたのだが、右肩が動かせない為かなり不便であった。
何とか食事を済ませ食堂を出ると、一つの大きな影が前に立ったので、見上げると相変わらずの冷たい顔。これから夕食なのだろう彼に挨拶すれば、無言だが僅かに反応してくれた。
「それよりも、どうなのだ?」
唐突な問いに、一瞬何のことか?と首を傾げるが、その視線は肩に寄せられていた。それで納得する。どうやら心配してくれているようだ。
「暫くは負担をかけない事だ」
言葉少なにそう言うと、カールはそのまま横を通り過ぎた。
「ありがとう」
遠くなって行く背中に呼びかけたが、何の反応も返らず、そのまま食堂内へと消えてしまう。それでも、なんとなく彼の優しさを理解したセリアは微笑みながら寮へと戻って行った。
夜。寮の学生が寝静まる時間だが、それは街も同じ。灯りの無い道路には人影は殆ど無く静寂が広がっている、筈である。しかし、ある一角で響いたのは女性の悲鳴とそこから走り去る影の足音。
「また出たって」
「今度はここからそんなに離れてないぞ」
今、生徒達が騒いでいる内容は、最近流行っている一連の事件の噂である。
最近、学園都市で夜になると、道行く人が後ろから鈍器のような物で殴られる暴行事件が勃発していたのだ。女性ばかりが狙われているこの事件、まだ死人は出ていないが、不安は拭えない。危機感から夜の外出を控える者が増えているが、そうはいかない者もいる。
噂する生徒達でざわつく校舎内を、肩を気にしながら歩く生徒が一人。
殆どの女生徒から敵視されてしまったセリアは、誰かと雑談する機会が無い為、噂の事を全く知らない。
一晩経過しても引かない肩の痛みを気にしながら、セリアは真っ直ぐ校門へ向かっていた。
校門の傍を通ったザウルは、門の外へ出ようとしていたセリアを見かけ呼び止めた。
「セリア殿」
「あっ。ザウル」
「お出掛けですか?」
「うん。ちょっと筆記用具が足りなくなって。ザウルは?」
「自分は、これから図書室で調べものがありまして」
「そうなんだ」
そのまま少しの間雑談したが、お互いの目的を果たすべく、それぞれの場所へ向かった。
学園都市へ来たセリアは、活気のある街中につい興奮してしまう。本来の目的も忘れ、フラフラとショーウィンドウを覗くのに必死だ。以前来た時はクレープに夢中だった為、あまり街並に集中していなかった。なので、街の物一つ一つが新鮮だ。
「おお、ザウル遅かったな」
夕方、いつものように温室にいたイアンがザウルを迎えた。中にはルネとカールも見える。
「すみません。調べものに時間が掛かりまして」
「その前にセリアとも少しおしゃべりしてたんだよね」
見ちゃった、と笑うルネにザウルも頷く。
「図書室へ行く前、偶然お見かけして。そんなに長くは話していなかったんですが…」
「セリアがどうした?」
丁度今入って来たのだろう。温室の入り口に立つランが聞いて来た。
「筆記用具を買うと、街へ行く所をお見かけして」
「そうか、では先程見たのはやはり彼女か」
つい先程、本屋から戻ったランは帰り道の途中、フロース学園の制服を着たセリアらしき人影を見たらしい。すぐに人混みに消えて見えなくなり、声はかけられなかったが。
そこまで聞いて、イアンが首を傾げる。
「ラン。お前がセリアを見たのは?」
「二十分程前だ」
「場所は?」
「街の広場の近くだが。どうかしたか?」
街の広場はここから少々距離がある。ランの足で二十分かかったのだ。セリアの足ではそれ以上かかるだろう。
「ザウル。お前がセリアを見た時、あいつは?」
「これから街へ行くと、校門に……」
「時間は?」
「授業が終わって直ぐです」
今は夕方だ。それも、もうすぐ陽が沈む。いくらなんでも、買い物一つでこれほど時間が掛かるのは可笑しい。普段ならば只の散歩か何かだと片付けられるが、今はあの噂もある。
「道にでも迷ってんのか?」
「心配だね。セリアなら、ちょっとした事なら逃げられると思うけど」
確かに、彼女ならば、相手を返り討ちには出来ないが、逃げ切るくらいは出来るだろう。
「あいつ身軽だし、すばしっこいから大丈夫だと良いが」
「やはり心配だな。とにかく探しに…」
「待て」
立ち上がったラン達を、それまで黙って見守っていたカールの声が止める。
「あれは今、怪我を負っている」
「………!!」
遠くに浮かぶ夕日は今にも沈みそうだ。
「………え……と」
こう言う場合はどうすれば良いのだろうか。
イアンの危惧した通り、しっかりセリアは迷子になっていた。目に映る物に気を取られ、自分の向かう場所に全く注意していなかったセリアは、気がつけば裏通りに近い道を歩いていた。辺りを照らす灯りも人影も少ない。
あまりこういう雰囲気が得意でないセリアは、一生懸命出口を探しているつもりなのだろうが、裏道の奥へ奥へと入って行く。
これでは、一連の事件がなくとも、何かに巻き込まれるだろう。陽はすっかり沈み、すでに月も昇り始めている。
必死に足を勧めるセリアは背後から近付いている気配にまだ気付いていない。
「くそっ。あいつ何処にいるんだよ!」
「イアン、私はあちらを探す。お前はそっちだ」
「わかった」
走りながら悪態を吐くイアンとランが別れる。ザウルとカールも別の場所を探し、ルネは学園でセリアが戻った時の為に待機していた。
元々地味な容姿の彼女を目に留めている者は少なく、目撃情報も得られないため、一向に見つからない。ラン達の不安は募るばかりだ。まさかとは思うが、もしもという事もある。
「えっ!?」
背後に感じた殺気に咄嗟に屈めば、セリアの真上を何かが音を立てて横切った。そのまま振り向けば、影になっている人物はそのまま長い棒を自分に振り下ろそうとしている。
「くっ!」
必死に身を捩って避けたが、瞬間、肩に鋭い痛みが走った。ぐっと堪えるが、やはりまだあまり動かす事は出来ないようだ。それでも、相手は迷わず再び振り下ろして来る。これも辛うじて避けるが、思った程身体動かず、避けるのが精一杯だ。いきなりの事に混乱するが、戸惑っている時間は無い。考える事は後でも出来る。
振り下ろされる棒を避けて、相手との距離を取る。それでもじわじわと追いつめられ、遂に背中に固い壁があたった。敵は目の前で棒を力一杯振り下ろそうと腕を上げる。逃げる隙が全く見えない。セリアがぐっと目を閉じて衝撃に備えた瞬間。
「セリア!!」
敵の背後から自分を呼ぶ声がした。敵もそれは予測していなかったのだろう、一瞬怯む。その隙を見逃さずに、セリアは身を投げて敵から離れた。一瞬の間に逃げたセリアを追いきれず、棒はセリアが元いた場所に叩き付けられた。
攻撃は躱せたが、肩の痛みは限界に来ている。避けた時に床にぶつけた様だ。痛む場所をぐっと押さえて動かぬセリアに、イアンが駆け寄った。
思わぬ邪魔に焦ったのか、敵はその場から走り去った。その姿は段々と裏道の闇に呑まれて行く。後に残るのはその場に響く足音だけとなった。
「セリア!おい!セリア!!」
「イアン……痛い」
抱き起こされた際、身体を揺すられて、またそれが肩に響く。
声を聞けて取り敢えず安心したのかイアンはほっと息を吐いた。イアンの声に駆けつけたのか、ラン達の姿も後ろに見える。
「イアン、ありがとう。でも、どうして此処に?」
「お前を探してたに決まってるだろ。こんな時間まで何してたんだよ」
イアンに睨まれギクっと怯む。こんな大事になって、まさか街をフラフラしていてそれで道に迷ったとは言えない。このまま誤魔化せないかと他の者を見るが、集まった四人は全員ご立腹の様子である。あの穏やかなザウルまでもが苛立った表情なのだ。
うっと唸って、「言わなきゃダメ?」的な意味を込めて見上げるが、逆にジロリと睨まれてしまった。仕様がないので、正直に話すと、案の定呆れたような表情をされた。
「物騒な事件の噂があるにも関わらず、夜間まで街を歩き回るなど、少々思慮が足りなかったのではないか?」
「……事件?…噂?」
ランの言葉に、はて、噂とは何かと疑問符を浮かべれば、ついには横からため息が聞こえた。
「とにかく、今は学園に戻りましょう。セリア殿の傷も診なければ」
ザウルが提案して、一旦その場から生徒達は離れる事にした。