来寇 3
慌てて戻った食堂内で、セリアは必死に目を凝らしていた。既に時刻は遅く、食堂の明かりも消されていて、当然のように誰もいない。けれど、そんな事気にしてなどいられないのだ。なんとしてでも、見付けなければ。
それから三十分程捜索しているのだが、何処を探しても一向に見当たらない。誰かに拾われてしまったのか。それならば良いが、もし本当に無くなってしまったら。脳を揺する恐怖にセリアは青ざめるが、今更どんなに後悔してもペンダントが戻って来る訳もなく。
どうしよう、ともう一度食堂内を見渡してみるが、どうやらここには無いようだ。もしかしたら外に転がっているかもしれない、と僅かな希望を抱いて、食堂は諦めたセリアは入って来た時と同じ様にコソコソと抜け出した。なるべく目立たぬ様にといっても、暗闇のお陰で殆どその影は見えないのだが。
そこら辺に落ちてはいないかと地面を睨みながら、今度は食堂の外をウロウロと歩き回る。夜、という時間の所為で非常に見難いが、そんなことは関係ない。とにかく、一刻も早く取り戻さねば。
地面に全神経を向けているセリアの背後に立った人物が、呆れたように小さく息を吐いた。
「何をしているのですか?」
「うひゃぁ!!」
突然のことに素っ頓狂な悲鳴を上げたセリアがその原因を作った人物に向き直れば、本人は眉を寄せ、頬を引き攣らせながらこちらを睨みつけていた。
「ハンス、先生……」
不可抗力とはいえ、悲鳴を上げたのは失礼だっただろうか。非常に気まずい雰囲気だが、取り敢えずセリアは相手の名前を呼んでみる。それでも眉間の皺は相変わらずに、黒縁眼鏡の奥から睨む瞳は鋭い。その表情から十分に解るが、どうやら虫の居所は悪いようだ。
「このような時間に、寮外を歩き回るなど、生徒にあるまじき行為です」
「うっ、その、これは……」
「と、言いたい所ですが、それはこちらにも責任があるので仕方ないとしましょう」
「へっ?」
必死に言い訳を考えていたところをそんな風に言われ、セリアは思考を停止させた。それは、いつものハンスからは考えられないような台詞で、セリアも意味を汲み取る前に困惑する。
疑問符を浮かべたセリアの前に、ハンスはスッと手を出した。その手に置かれていたのは、紛れもなくペトロフ氏のペンダント。それにセリアも目を見開く。
「あっ!」
「これを探していたのでは?」
「は、はい!ありがとうございます。 でも、どうして先生がこれを?」
何故、ハンスがこれを持っているのだ?
驚いたまま固まるセリアの心情を読み取ったのか、一つ溜め息を吐くと、ハンスは呆れたように説明した。
「先程クルーセルに渡されました。食堂で恐らく貴方が落とした物だろうから届けて欲しいと」
「クルーセル先生に!?」
やはりあの時落としてしまっていたのか。しかし、そうなると何故クルーセルはわざわざハンスに渡したのだろう。そこまでする理由は無い様に思うのだが。
セリアがもう一度視線を上げると、先程よりも険しい表情がそこにあった。首を傾げるセリアの心を読み取ったのか、ハンスはそのままいつもの様に説教じみた言葉を並べ始める。
「クルーセルはこれから用事があると言って、そのまま逃走しましたよ。本当に、この様な時間に、一体何処を彷徨いているのか。教師という立場でありながら、今日の職務もまだ終わっていないというのに」
「は、はぁ……」
「貴方も貴方です。いくら大切なものだからといって、女生徒が一人でこの様な時間に」
「えっと、あの……すみません」
夜も遅い時刻に、この少女なら恐らく外を探し回っているだろうと思い来てみれば、案の定予想は的中。それだけでもハンスを苛立たせるのは十分だ。けれど、セリアに対して愚痴のような説教を吐き出すだけでは発散しきれなかったようで、ハンスの怒りは、遂には別の方向にまで向く。
「そもそも、あの二人にも問題があります。あの様な場所にまで討論を持ち込むなど。何故、あそこまで対立していなければ気が済まないのか。お互い実力には何の問題もないのに、それをどうして理解しないのか」
その意見には、賛成せざるを得ないなとセリアは内心でこっそり頷いた。
と、それはいいとして、出来ればペンダントを受け取って早くこの場を離れたいのだが。けれど、ハンスはまだ不満が溜まっているらしく、ブツブツと何かを唸る様に繰り返し呟いている。その矛先は、何時の間にかクルーセルに戻っていたようだが。
「昔からそうでしたよ。彼はいつだって職務を放棄するのです。だから私が候補生達を毎回毎回鎮めなければならなくなるのですよ。まあ、彼が居た所で面白がって止めやしないのでしょうが。ならば、せめて他の仕事は片付けていって欲しいものです」
「は、はぁ……」
止まりそうもないハンスを前に、セリアも口を挟むに挟めず、ただ黙ってそれを聞いていた。本音を言ってしまえば、今直ぐにでも帰りたいのだが、そんなことが出来る筈もなく。なら、せめてペンダントだけでも返してもらえないだろうか。このまま没収などされたら、本当に洒落にならない。
そんな風にセリアが青ざめていると、ハンスも散々愚痴を吐き出し漸く落ち着きを取り戻したらしい。持っていたペンダントを渡してくれた。そのことにセリアがホッと胸を撫で下ろすと、上から溜め息が聞こえ、恐る恐る視線を上げてみる。次に視線に映ったハンスは、疲れ切った様子で何処かぐったりとしていた。
本当に、この人は大丈夫なのだろうか。その内過労で倒れたりするのでは、と心配になってしまう。
「とにかく、もう部屋に戻りなさい」
「は、はい。ありがとうございました。あの、先生……」
「まだ何かあるのですか?」
呼び止められた瞬間に、ハンスは苛立ちを隠すことも忘れ、栗毛の少女をジロリと睨む。疲れている為か、その視線も普段の数倍キツイ。
その険悪な空気に、セリアは若干怯みながらも軽く頭を下げた。
「えと、ご迷惑お掛けしました。あの、お体には気をつけて下さい」
「…………はあ」
一度チラリとこちらを見たと思ったら、思い切り溜め息を吐かれた。何か間違った事を言っただろうか。
バツの悪そうな顔をするセリアに、ハンスは思い切り渋い顔をする。自分の疲労の原因が、自身にもあることを是非とも理解願いたいものだ。
心底疲れた、といった雰囲気を醸し出し去って行くハンスの背中を、セリアは取り敢えず心配しながら見送る。
朝日が眩しく差し込む部屋で、セリアは一度寝返りを打った。昨日はなんとなく色々とあったので、まだ疲れが残っている感じがする。
まだ寝ていたいと身体が要求するが、いつまでもこのままという訳にもいかない。眠気の残る頭を起こし、寝台からのらりと這い出る。今は安全に机の引き出しに保管されているペンダントを思い出しながら身支度を終えたセリアは、亀の様にノロノロと部屋を出た。
廊下に出たはいいが、なんだかまだ眠気が残っている。もともと朝が得意な方ではないセリアは、そのままのんびりと校舎を目指した。
そうしてぼんやりしていたところを、急に後ろから押された為に思わずセリアは数歩蹌踉けた。そこまで大した衝撃ではなかったが、突然だったので驚いたのは事実だ。一体何事だ!?と振り返って確認してみれば、いつぞやの女生徒達が、こちらを睨んでいた。
「道を塞がないで頂戴!クラリス様の邪魔よ」
「へっ!?」
言われた台詞に驚いて視線を彷徨わせれば、仁王立ちする女生徒達の間に、こちらを見下ろすクラリスの姿があった。
「あ、あの……すみませんでした」
取り敢えず、のんびりと歩いていたのは事実なのだから、こちらにも非があるだろう。頭を少し下げて謝罪すると、女生徒達と彼女達の前を歩くクラリスは、そのまま何事も無かったかのように行ってしまった。その姿を、セリアは半ば呆然と見送る。知らぬ間に、クラリスはとうに自分の地位を確立していたらしい。なんというか、凄い人だな、とセリアは感心してしまった。
そんなことがあってから数日経った今も、クラリスを慕う生徒は数を増す一方だ。それは男女を問わず、学園内の何処にいても彼女は圧倒的な支持を得ていた。このままでは。
「クラリスさんの転入は確実かもしれないね」
呑気に笑顔でそう言ったのは、ルネの紅茶を啜るセリアだ。今日はカールもランも温室に顔を出していない為か、この場はとても平和である。
「うん。優秀だって、先生達の間でも評判がいいからね。ただ……」
「ただ……?」
「少し心配かな。彼女の周りって、ちょっと威圧的な雰囲気があるから」
「……それは」
確かに、ルネの言っていることは解る。クラリスを慕う一部の生徒にも、多少強引な感じが見られるし、ルネがそれを気にかける理由も理解出来た。しかし、それはカールの部下達にも言えることのような気がするが。
「心配のしすぎかもしれないけどね。それに……」
言葉を続けようとしたルネだが、急に口を噤む。それにセリアは疑問符を浮かべた。
「どうしたの?」
「ううん。でも、まだ決まってはいないみたいだから、なんとも言えないけどね。それより、おかわりは?」
「えっ? あっ!ありがとう」
良い香りが漂う液体に満たされたカップを、セリアはにっこりと受け取った。まあ、ルネの言う通り雰囲気的にちょっと厳しい所もあるが、そんなに悪い人ではなさそうだし、大丈夫だろう。と、セリアは結論付けると、ルネの淹れてくれた紅茶に再び口を付ける。途端に、甘い味が口一杯に広がった。
一通りの用事を済ませたカールは、ただ静かに廊下を歩いていた。しかし、そうすると周りの喧騒が余計に聞こえてしまうものである。カールにとっては雑音でしかない生徒達の会話が、今も廊下の奥から響いていた。その音の中に、最近良く聞くようになった名が出た途端、バイオレットの瞳が細められる。
次の瞬間には、カールはその足を止めた。その先で、数名の生徒と会話する、黒髪の娘を見付けたからだ。
「……その為にも、是非貴方方のご理解を戴きたいのです」
「は、はい。クラリス様」
その答えにニッコリと微笑んだクラリスが次に視界に捉えたのは、少し離れた場所に立つ銀髪の青年。その瞬間ピリリと走った緊張に一瞬動揺を表しそうになる。しかし、決して表情に見せまいと必死に平静を装った。
他の生徒達が去った後も、カールとクラリスは微動だにせず、その所為で二人の間には数歩分の微妙な距離が出来ていた。
「中々のものだな。単純な輩の心を掴むのは、雑作もないと見える」
「…………」
「……何を企んでいる?」
タラリと背中を流れる冷や汗がクラリスに告げていた。この男だけは、敵に回してはならないと。いや、それだけではない。彼だけは、何としてでもこちら側に付いて貰わなければ。初めからその積もりだったではないか。
他の者は、敵になりさえしなければどうとでもなる。けれど、このカールハインツという男は、自分に取って敵か味方にしかなり得ないことを、クラリスは十分理解していた。ならば、ここさえ乗り切れば。
「私の思想に賛同する人を、一人でも多く増やそうと願っています」
「ほぅ。さぞかし、立派な主張があるようだな」
冷たい瞳にクラリスはグッと言葉に詰まった。そして直感した。
――バレている。やはり、既に自分を見定めに掛かっていたか。ならば、尚更だ。
「ならばお聞かせ下さい。私の意見は間違っているでしょうか?」
「其方のすることに兎や角言う積もりはない。ただ、私の周りを嗅ぎ回る様な真似は、不愉快だ」
ジロリとそのバイオレットの瞳で睨まれ、クラリスはまたもや怯んだ。この男は何処までを知っているのだろう。いや、もう全てお見通しと言った所か。ならば、こちらもその積もりで対峙するべきだろうか。
脳内でこれからどうすべきかを必死に模索するクラリスに、再び冷えた声が投げかけられた。
「何が望みだ?」
周りの空気すら凍っているように錯覚するその場で、クラリスは溜った唾液を飲み込んだ。
「…………私と、手を組みませんか?」
背を這う汗を無視し、クラリスは普段の凛とした姿でそう述べた。その言葉に、カールは眉一つ動かさず耳を傾ける。
「貴方も既に解っているのではないですか。いえ、元々解っていらっしゃった筈」
「…………」
「不必要なモノは排除。それが貴方のやり方だと窺いました。ならば、排除するべきモノがあるのでは?」
ジッとカールを見詰めるクラリスの瞳は真剣だ。一歩も引くことは許されない者の目。
縋る様に自分を見詰める黒髪の娘に対しカールは何も言わない。けれど、そのうちに瞳を静かに細めたかと思うと、ゆっくりとその手を伸ばした。
その翌日、学園を生徒達が歓喜するような一つの噂が飛び交った。あのカールハインツが、クラリス・シュライエの後見に回った、と。その噂は、当然の如く候補生達の耳にも入る。噂に疎いセリアはともかく、それを知ったラン達は信じられないと、と我が耳を疑った。そして当然だが、すぐさまカールの行動を怪訝に思う。
とくにランは、その感情が不審感だけに留まらなかったようで、横に居てもその怒りが伝わる状態に、イアンが必死に宥めにかかった。
「おいラン。そんなに興奮するなよ」
「……何故あの男は、よりにもよって」
「アイツが何考えてるかなんて、俺達にだって解らねえだろう」
「しかし、事実だけを見れば、これは……っ!」
温室の机に拳をぶつけるランは、明らかに頭に血が上っている。それを収めようとイアン達も試みるが、状況が状況なだけに、強くランを否定出来ない。
「ただの噂ということもありますが。けれど彼の場合、あり得ないことではありませんから」
「でも、カールにも何か考えがあるんじゃ」
「はい。自分もそう思います。でなければ……」
静かな声でゆっくりと紡がれるザウルの言葉は、ランが踵を返したことで遮られた。驚いて視線を向けると、そのまま足早に温室を出て行こうとする。
「ラン?」
「やはり、私は納得が行かない。この目で確かめる」
嵐の如く去って行くランを、いち早く我に返ったザウルが急いで追った。
そうして赤髪の青年の後姿が消えると、イアンも深い溜め息を吐く。
「本当に、何考えてんだよ。アイツは」
「セリアは、まだ何も知らないんでしょう?」
「多分な。出来ればアイツが気付く前に、なんとかしてえけど」
「そうだね。出来れば、だけどね……」
果たして、そんなことが叶うのだろうか。嫌でも妙なことには巻き込まれるか、首を突っ込むことが趣味の様なものだ。今回も、あの無鉄砲な少女が、蚊帳の外に居てくれるかどうかは、怪しい。
私は、目的の為に動くのみだ。貴様に口出しされる謂れはない。ましてや、下らん戯れ言に付き合うなど。
価値があると判断すれば利用する。そうでないのならば捨て置け。不要な感情に流されてばかりで、先を見失うなど。
愚かな……