要因 3
フッと浮上した意識にうっすらと目を開けば、視界に見慣れぬ天井が飛び込んで来た。寝台の心地も寮のものと何処か違う。違和感に疑問を抱き、まだ怠さの残る体を懸命に起こして当たりを見回せば、そこはやはり見覚えの無い部屋。ここは何処だ、と記憶を探り、漸く答えに辿り着いたセリアは、途端に寝台から飛び降りた。
まずい!一体、自分は何をしているのだ。ここへはペトロフに会いに来た筈なのに、何故自分はこんな所で寝ているのだ。
慌てて部屋を飛び出したが、当然の如く廊下も全く見覚えがない。自分がどうやってここへ来たのかも覚えていないのだ。右も左も分からず、どちらへ行ったら良いのか見当も付かない。
どうしようか、と頭を抱えるが、やはりただここでジッと待っているだけという訳にもいかず。取り敢えず少し歩いてみよう、とセリアは足を踏み出した。
周りを照らす明かりは廊下の窓から入る月明かりのみ。最初にこの屋敷へ入った時のように、相変わらず明かりの一つも点けていない屋敷の中は薄暗い。ホールはあんなにきらびやかに輝いていたのに。
勿体ないな、などと考えるセリアがフラフラと迷子のように廊下を進むと、ふと先に明かりが漏れる部屋を見付けた。明らかに人工的なそれに、セリアもホッと胸を撫で下ろした。
漸く人に会えそうである。運が良ければ、ペトロフの所まで案内を頼めるかもしれない。とそんな期待を胸に、セリアは迷う事なく扉に手をかけ、そしてゆっくりと手に力を込めた。
恐る恐る中を覗き込めば、明かりの正体であるランプが部屋の奥でユラユラと揺れていた。そして、部屋の机の前に置かれた椅子に座っている人物の影も、それと同じ様に揺らぐ。
「気分はどうだね。お嬢さん」
「ペトロフ氏……」
机に両肘を付いたペトロフは、先程と何ら変わらずニヤリと笑んでいた。まさか、ここで本人に合えると思っていなかったセリアも一瞬驚くものの、無理やり冷静を引き戻す。彼には、まだ言いたい事が沢山あるのだ。
「すまなかったね。まだ若いお嬢さんに酒を進めるのは、流石によくなかったようだ」
「いえ、こちらこそ。部屋を貸していただき、ありがとうございました」
未だに何かを企んだような笑みで、ペトロフはセリアをジロジロと観察する。まるで、何かを見定めようとしているかのように。その笑みに怯みそうになりながらも、セリアはキッと強くペトロフを見返した。その視線にペトロフはまたクッと喉の奥で笑う。
「先程の話が気になっているようだね。それでどうかな。君が身を犠牲にする程の価値が、本当にあるのかい」
「……私は、犠牲だなんて思いません」
「ほぅ……」
「私が出来る事は限られています。影響なんて殆ど無いないかもしれない。でも、もし少しでも国の為になれるのなら、と私は思っています」
「なるほど。やはり噂のマリオス候補生の一員だけあって、忠誠心は見事なものらしいな。セリア・ベアリット君」
「なっ!?なんで、それを……?」
自分の名前を言い当てられた事に、セリアは心底驚いた。なにしろ、自分はまだ名乗っていないのだから。しかも、自分がマリオス候補生だということも知られていた。一体どうして。これがランやカール達ならば分かる。未来のマリオスとして貴族達の間では彼等はそれなりに名が知られているのだ。けれど、自分は決してそんな立場ではない。なのに何故。
「そう驚くことではない。私は人一倍好奇心が強いだけだよ」
「は、はぁ……」
「では、その忠誠心の強いセリア君にお尋ねしよう。君にはどれほどの覚悟がある?」
「っ!?」
その言葉に上手く反応出来ず視線を上げれば強く見据えられ、セリアは言葉に詰まった。目の前のペトロフからは、軽はずみな答えを許さぬ、妙な威圧感を感じる。今まで座っていた椅子から、スッと立ち上がった男にセリアも何を言われるのだろう、と身構えた。
「先程言った通り、君達の進もうとする道は険しい。国を潤す光の裏には、必ず陰が付き纏う。特に、王宮という場所は、目を覆う程の人の欲や汚れが、留まることなく旋回する場だ」
「……それは……」
「志あり若く、ましてや女の身である君に、一体どこまで耐える事が出来る?」
ペトロフの言葉にセリアも一瞬息を詰まらせた。彼の言っている言葉が、理解出来ない訳ではないからだ。綺麗事だけを並べ、胸を張って闊歩する積もりなどない。実際、自分は今のクルダスの汚点を、少なからず見て来た。現国王陛下と王弟殿下との間にある確執を、ただの兄弟喧嘩で終わらせる程考え無しではない。それに、この類の問題は今に始まったことでは無い筈だ。これから先、こんなことはずっと続くだろう。
「それだけではない。君の場合、更に過酷な道を強いられることになるだろう」
「……?」
「言ってしまえば、君の存在そのものは変化だ。今までの様に伝統だけを重んじる体制から、新たな時代へ進化する為の。しかし変動の時、時代は血を求める。変化が大きければ尚更。その渦中の中心人物である君が、無傷でいられる筈もない」
「…………」
「安穏な人生など望めない。苦悩し苦渋を味わい、最後に何かを得る確証も無い。抗おうとすればするほど、君を縛る茨の棘は根深く食い込む。その苦痛、犠牲、全てを受け入れる覚悟が、君にはあるのか?」
ペトロフの真剣な瞳と視線を交えたセリアは、大きく息を吸い込んだ。彼の言っている事は正しい。変化を恐れる人間は多く、異を唱える者も居る。それ以外にも自分のまだ知らない、厳しい面は多くあることも、十分解している。
今はマリオス候補生である自分だが、その機会を与えてくれたのは校長や国王陛下だ。自分が候補生となるまでに、彼等がどれほどのことをしてくれたか、理解していない訳ではない。そして、これから自分がその地位を最大限に活かすことこそが、その責任だということも。
「ペトロフ氏。貴方の言っている様に、私が望む道は決して楽なものではないでしょう」
「…………」
「けれど、それが私の選んだ道です。国の為に何かをしたい。それが自分の望みです」
安穏な人生など望んでいない。自分の性に合っているとも思わない。この道から逸れる機会なら、幾らでもあったのだ。けれど、自分はそれをしなかった。今まで進んで来た道を、自ら放棄するなど考えたこともない。そして、今もする積もりはない。
「私は、まだ十年と少ししか生きていません。だから、ペトロフ氏の言う苦痛や犠牲がどんなものか、きっと本当の意味で理解してはいません」
「…………」
「でも、たとえこの先何があっても、私の体に流れる血はクルダスの物です。もし、クルダスがその血を望むのなら、私はそれを受け入れます」
「……国の為に全てを捧げるというのか?その身が引き裂かれる事になっても」
「それが運命なら、私に迷いはありません」
言い切ったセリアと対峙していたペトロフは、その言葉を噛み締めるようにゆっくりと瞳を閉じる。そして深く息を吸い込むと、今度は大声を上げて笑い出した。今までの何かを含んだ様な笑いではなく、腹の底から可笑しくて堪らないかのように。肩を揺らし、大口を開けて笑うペトロフの姿にセリアも唖然としてしまった。
「あははははは。なるほど。いや、面白い。まさに若さ。純粋でなんとも凛とした輝き」
「あ、あの……」
「いや、楽しませて貰ったよ。わざわざ君達を呼んだ甲斐があったというものだ」
「はっ!?」
その言葉にセリアは目を見開いた。呼んだ、とはどういう意味だ。自分達はここに乗り込んで来たわけだが、決して招待された覚えはないぞ。
「私もこんな性格だから敵が多くてね。とある事情から、君達を直接招待することが出来なかったのだよ。そこで、フロース学園の生徒達が問題を起こせば、その原因である私に、君達なら会いに来てくれると思ってね」
「なっ!!」
そ、そんな。まさかこれまでの全ては茶番だったのか!?だとしたら、この男は一体何を考えているのだ。そんな、自分達を呼び寄せる為にわざわざこんな大事を起こすとは。
「実に面白い。君にはこれからも期待したいものだ」
「は、はぁ……どうも」
最早なんと答えたらよいのか分からない。目の前の男は心底楽しそうにしていて、どうにも反応に困る。けれど、それでは彼も生徒達を屋敷に招く行為を控えてくれるのだろうか。
セリアがそのことを聞くべきかどうか迷っていると、ペトロフはゆっくりと向きを変えた。そして部屋の横に置かれている本棚に近づくと、なにやら並べられている本の裏を探り出し、一つのペンダントを取り出した。金色の細い鎖と、それに繋がれた茶色の平たい円の中には大きな百合の花が彫られている。
「君にこれを預けようと思ったのだが、どうかね。受け取ってくれないか?」
「こ、これを、ですか?」
ペトロフが自分の手に握らせたそれを、セリアはマジマジと見詰めた。一体これに何があるというのだろう。どこからどう見てもただの首飾りだ。何か仕掛けがしてあるようにも見えないし、装飾品以外の役割を果たしているようには見えないが。
「君がそれをどう使うか、残念ながら私は見届けることが出来ないようだが」
「へっ?」
「それをただの首飾りにするも、そうしないも、君次第だ」
「えっと、それはどういう………」
「フフ。それを考えるのも、君の運命ではないかな?」
ニヤリとまたあの何かを含んだような笑みに戻ると、ペトロフはそのまま部屋の奥へ移動してしまった。
「さて。君達はそろそろ学園へ戻った方が良い。馬車を用意させたから、今夜はこのくらいにしようではないか」
「あ、あの……」
「心配せずとも、もう夜の宴を楽しむ理由は私には無い。君達はきちんと役目を果たしたよ」
「は、はぁ」
ペトロフの一方的な言葉に、セリアはどうしようかと困惑する。突然渡されたペンダントの意味も気になるが、彼がそれを口にしそうな気配はない。部屋に置かれた時計で時刻を確認すれば、確かにそろそろ屋敷を出ないとまずい頃だ。彼の言う通り、今日はこのまま帰った方がよいのだろうか。
セリアが悩んでいると、唐突に扉が軽く叩かれた。ペトロフがそれに答えると、初めに屋敷の前で会った男が頭を下げながら現れた。セリアの存在を初めから知っていた様な態度で、男はそのままセリアを部屋の外へ出るよう促す。セリアは仕方なくそれに従い、男に続いて部屋を出た。その間も後ろのペトロフからの言葉はない。
せめて挨拶くらいはした方がいいだろう、と最後にセリアがもう一度振り返る。が、ペトロフはセリアに後ろ姿を見せるように窓の外を向いていた。その姿に、かけるべき言葉を見失ってしまい、セリアは男が扉を閉める間、ただジッと後ろ姿を眺めるだけに終わった。
「セリア!!」
男に誘われ、自分が先程寝ていた部屋まで戻ると、中から響いた声にビクッと肩を揺らした。
「心配したんだよ。様子を見に来たら居なくて」
「あっ!ごめんなさい。その……ペトロフ氏と話していて……」
心底心配した様子のルネや候補生達に、セリアは何があったかを話す。一通り説明を終えると、やはり候補生達も困惑した表情を見せただけで、誰もペトロフの真意を計れずにいた。
「それが、渡されたペンダントか?」
「うん。でも特に変わった所は見当たらないし」
「…………」
結局、あの男は何がしたかったのだろう。セリアが首を傾げても、一向に答えは出て来ず、更に疑問が広がるだけだ。
「とにかく、今は学園へ戻り、校長に報告した方がよいのでは?」
「それもそうだな。色々考えるのはそれからでもいいだろう」
部屋の外で静かに立っていた男に案内を頼むと、男は承知したようにゆっくりと頭を下げる。ゆったりとした歩みに従い、セリア達も屋敷を出た。
少し離れた所でセリアがもう一度振り向けば、そこから見える屋敷の窓には既に一つの人影も確認出来ない。ただ、薄暗い部屋が広がっているだけだった。
学園へ戻った頃には、既に明け方近い時間帯だった。ペトロフの屋敷を一歩出てしまえば、まるであの緊張感が嘘だったのかのように平和だ。馬車の中でセリアが疲労を感じる余裕がある程に。学園へ着くまでに、何度瞼を閉じかけたことか。
遠くに見える朝日を背に、馬車から降りたセリア達を、校長とクルーセルが出迎えた。思ってもみなかった人物達に、セリアもあっと声を上げる。まさか、夜通しここで待っていたのだろうか。
「セリアちゃんおかえり! どうだった?」
「……え、えっと。一応、夜間に生徒を屋敷に招く行為は控えてくれるそうです」
仮にも問題となっていた件の結末を聞いているのに。そうとは思えない程、クルーセルの声は呑気だ。そんな朗報が当たり前だ、と言わんばかりの機嫌で聞かれても、とオロオロしつつセリアが事の経緯を簡素に告げると、クルーセルは途端に顔を輝かせた。
「あらぁ!!よかったわ。流石セリアちゃん。ねっ、校長。言った通りでしょ」
「うむ。すまなかったな、諸君。本来なら、我々教師が直接赴く所だったのだが」
「皆に任せておけば間違いないわ。ああ、嬉しい」
「ああ。流石は我が学園の誇りだ」
またはしゃぎ出す校長とクルーセルを、候補生達はどうしようか、と戸惑いながらぼんやりと眺めていた。取り敢えず、色々と報告したいことはあるのだが、二人は一向にそれをさせてくれそうにない。困惑した風にセリアが後ろの候補生達を見遣れば、彼等も同じ心境のようだ。苦笑で返されてしまった。
闇が支配する部屋で、ペトロフは静かに窓の外の月を眺めていた。その思考は、昨晩この場を訪れた少女達へ向いている。さて、彼等は一体どういった行動に出るだろうか。などと先を予想しては、一人楽しそうに表情を緩めていた。
薄暗い室内でペトロフが笑みをたたえていると、背後の扉が静かに開く音に気付く。この屋敷に自分以外の者が居る筈はないにも関わらず開いた扉に目をやれば、そこには一つの影が佇んでいた。予想通りのその人物に、ペトロフはまるで友人を出迎えた時の様に微笑みを向ける。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
「屋敷の者は皆引き払い、私物も全て下げ渡し、この家に残るのは貴方だけ。準備は万端と言った所でしょうか」
「まあ、私は心構えと好奇心だけは人よりも優れているからね」
「その無用な好奇心の所為で、ご自分の寿命を縮められる点は感心しませんが」
ゆっくりと入って来た侵入者が向けた銃口に、部屋を照らす月明かりが僅かに反射する。それでも、ペトロフは一切怯んだ様子を見せず、堂々としていた。
「わざわざペトロフ伯爵の名を買い、身を隠し、折角逃れたものを。ご自分から居場所を知らせる様な真似をされるとは」
「賭けだよ。君が早いか、彼等が早いかのね。結果、君は負けたようだが」
「ええ。その点は認めざるを得ないでしょう」
平静を装っていた男の顔が、僅かにその表情を歪ませた。その様子をペトロフは心底可笑しそうに眺める。思わず感情が顔に出てしまったが、男はすぐに冷めた目つきに戻ると、グッと拳銃の引き金に指を掛けた。
「今まで死んだも同然の生活を送っていた貴方が、この類の脅しに屈するとは思えませんが、一応聞きます。アレは何処ですか?」
「賢い君なら分かっていると思うが、私の口からその答えは出ないよ」
「……そうでしょうね。無駄な忠誠心の所為で、その身を滅ぼすとは。愚かな」
「褒め言葉として受け取っておこう。けれど、忠誠心とは少し違うのではないかな」
「私にしてみればどうでもよいこと。価値の無いものであることに変わりありません」
男がまた一歩、また一歩と近づく間も、ペトロフは微動だにせずただジッと静かに待った。これから自分を殺そうとする男に向けるとは思えない程、楽しそうな笑みを向けながら。
「ところで、私は一体どのようにして生涯を終えるのかな?自殺か、事故死か。もしくは使用人の一人に恨みでも買ったか?」
「ご自分が死んだ後の事はお気になさらぬよう。周りへの被害も心配なさらなくて結構です。貴方の事ですから、他人に要らぬ事を吹き込んでもいないでしょうしね」
「ああ、君が相手で本当に助かったよ。私の元使用人が拷問でもされたらどうしようかと心配だったんだ」
「ご冗談を。他の者が相手なら、貴方はそれなりの対処法を取ったでしょうに」
ペトロフから数歩分の距離の所で立ち止まった男は、その銃口の先を定める。スッと細められた瞳は、相変わらず冷たい。その表情から読み取るに、ペトロフとこれ以上の問答をする積もりは無いらしい。
「これが最後です。返答が何であろうと貴方の末路は変わりませんが、質問に答える気はありますか?」
「こうしていても時間の無駄なことは、君もよく分かっているだろうに」
「…………いいでしょう。言い残した言葉があれば聞いてやりますよ」
グッと奥歯を噛んだ後に、男はもう何も期待していない、と残酷な言葉を投げかけた。冷ややかな言葉に、ペトロフは心底満足そうに笑う。
「さて、どうしようか? この生涯を締めるのに、相応しい言葉は。滑稽で虚しくも、己の目的によって殺されるが、小さな光に望みを託した男の人生。題名はそう『我が死の時も未来は潰えず。最後に見るは宝石の輝き』とでもしておこうか」
「……その未来を見届けられないとは、気の毒ですね」
「いや。私には見えるよ。ほんの少しだがね」
小さく呟かれた言葉は、拳銃の中の火薬が破裂した音に掻き消された。
後日、レイダー・ペトロフ伯爵の自殺に関する記事が新聞に小さく載った。
突然のことだが、これが良い方向へ向いてくれればと思う。我々と同じ目標を持った者というのであれば、きっと良い刺激になってくれるだろう。
けれど、そうばかりも言っていられない。新参者は仲間となるのか、それとも……