始まり 1
一日の授業が終わり、生徒達は思い思いの場所へと向かう。ここにも同じように寮へと向かう人物が居た。
昨日は、衝撃的な事実を知った後、その場に留まる事はせずに寮へ戻った。何も告げずに失礼かとも思ったが、ショックと羞恥で彼等を待つなんて出来る筈も無かった。
知らなかったとはいえ、マリオス候補生の一人に啖呵を切り、剰え彼等の力になりたいと堂々と語ってしまったのだ。その前にも、色々と余計な事をいくつか喋った気もする。
暗い気持ちで歩くセリアの背中に、聞くのは何度目かの明るい声が投げられた。
「よっ、セリア」
前を歩いていたセリアに追いつくと、イアンはポンと彼女の肩を軽く叩く。出来れば会いたくない人物の内の一人だが、無視をする分けにもいかずセリアは振り向いて軽く頭を下げた。
「イアン様。何か御用ですか?」
「えっ!?おい。セリア?」
いきなり丁寧に返されたイアンは、まさか自分がマリオス候補生だから、という理由でいきなり距離を置かれたのか。と焦ったが、セリアのしかめ面から、そうではないと悟った。
「なんだ。昨日の事怒ってんのか?」
「まさか。マリオス候補生の方に対して当然の振る舞いです」
セリアはそう言って何くわぬ顔でまた歩き出してしまった。言葉と行動が一致していないセリアに苦笑すると、イアンはセリアの横に並んだ。
「悪かったって。別に隠すつもりは無かったんだよ」
「何の事を仰っているのかさっぱり分かりません」
こちらを見向きもしないセリアに、イアンはどうしたものかと考える。こんなやり取りも、イアンにとって今までに無い物で、何処か楽しんでいる様子があるが。
「じゃあ、どっか甘い物の店教えるからさ。だから機嫌治せよ」
甘い物、の一言にピクリと肩を揺らし、歩調を緩めたセリアに、イアンは効果ありと見て尚も続けた。
「この近くで一番旨いクレープでどうだ?そんなに遠くないし、今からでも行けるぞ」
「クレープ……」
本人は意識していないのだろうが、徐々に口角が上がって来ている。先程までの素っ気ない雰囲気もなく、纏う空気も穏やかになった。まさかここまで効果があるとは思っていなかったイアンもホッとする。
その気になれば毎日でも高級な菓子を口に出来る筈の伯爵家の令嬢が、街のクレープ一つで機嫌を治すなど、他人から見れば奇怪に映る。
だが、友人と連れ立って出歩く事に憧れを持っているセリアにとっては、甘いクレープという特典まで付いて来るイアンの誘いは、十分に魅力的だった。
小さくセリアが頷くと、話は決まったとイアンはセリアを連れ、足速に歩き出した。
嫌がるセリアを説き伏せて、イアンは温室へ来ていた。マリオス候補生達に今は会いたくなかったが、どうせなら皆も連れて行こうというイアンの提案を断り切る事が遂に出来なかったのだ。
陽の光を反射している温室に、セリアがおずおずと足を踏み入れた瞬間、ドンと何かを叩き付けた様な音が響いた。
「その考えは間違っている!」
突然の音に、セリアはビクッと怯んだが、隣のイアンはやれやれといった様子で中へ進んで行った。恐る恐るイアンの後ろから中を覗くと、ランともう一人が机を挟んで対峙していた。そのもう一人とは、候補生の中でも一番会いたくないカールである。
昨日や一昨日の穏やかな雰囲気からは想像もつかない程相手を怒りの形相で睨むランにセリアが戸惑っていると、ルネに声を掛けられた。
「セリア。いらっしゃい…」
ルネはこの状況をどう捉えているのか、少し困り顔だ。
「この場合、治安維持の予算への投資を前向きに見当すべきだ」
「徹底した取り締まりこそ、この状況に置いては必要な政策だ」
「それではやり方が強引だと言っている」
「問題の火種は迅速に取り除くべきだ」
セリア達が入って来た事に気付いていないのか、それとも気にしていられないのか、二人が口論を止める気配は全く無い。
「もしかして、今日のあれか?」
「ええ。そのようです」
ザウルに聞いたイアンが、その答えに納得した顔をする。なんの事かとセリアは不思議に思う。自分にはイアンの質問の意味が到底理解出来ない。
考え出したセリアを見かねたルネが静かに説明してくれた。どうやら、今日の授業中、治安が悪化している街があると仮定し、この場合最善と思われる政策についての議論が行われたらしい。
当然の如くこの二人の意見で議論は白熱したが、結局案は纏まらずに時間切れとなったようだ。そして授業が終了した今、その時の決着をつけるべく、こうして議論の延長戦をしているわけである。
二人が挟んでいるテーブルには、それぞれの意見を纏めた資料が置かれている。それを相手に突き付けて意見をぶつけ合っている光景を見る限り、お互い一歩も譲る気は無いようだ。
「そもそも、お前の考えは甘い。そんな事では、潰すべき敵すらも見えなくなる」
「その傲慢な思想を見直すべきだと言っているんだ。より良い国を作るには、周りと手を取り合い、協力する事が大切だ」
「国を動かす気があるのなら、その楽観的思考こそ改善するべきだ」
遂に、言い合いは互いの性格や思想の否定にまで到達してしまった。二人がお互いの意見など聞く気が無いのは見て分かる。しかしどちらも譲らないので、誰かが止めないかぎりこの言い合いが終わる事は無いだろう。
慣れているのか、イアンやルネはこの状況に全く動じていない。ただザウルが少し心配そうな視線を送っているだけだ。自分達が何を言っても無駄なのは分かっているので、今は見守る事しか出来ない。
言い争っている二人の勢いで、テーブルに置いてあった資料が数枚ハラリと落ちた。イアンはそれを拾い上げるとポツリと呟いた。
「二つとも、悪い案じゃねぇんだけどな」
「どれどれ?」
セリアが後ろから顔を覗かせると、イアンが資料を手渡して来た。それにざっと目を通すと、ランの案を見ながら零した。
「でも、この予算案は少し難しいんじゃ…」
その言葉にイアンやザウルは当然反応したが、ラン達まで議論を中断させセリアに視線を移した。その事を気にした様子もなくセリアは尚も続ける。
「これだと、他の所から予算を削る必要があるけど、時間が掛かる。それに、この額だと、余分が出るかもしれないし、その調査や確認も大きくなるわ」
「しかし、この場合で重要になるのは治安の改善であって、その為の投資は必須だ」
セリアの意見にランが真剣に返す。そこへ別の声が割って入った。
「それこそ、その場しのぎにすぎない。それよりも、より強固な規制をかける事が先決だ」
「それにも問題があるわ」
訝しげな視線を向けるカールにもう一枚の資料を目で追いながら言った。
「急な取り締まりには反対の声だって挙がるだろうし、それで混乱が生じればそれに乗じて治安が更に悪化する可能性もある」
「ほう。ならば貴様はどうする」
「……そうね。まずは民間へ危険意識を持つように呼びかけて。公安機関と市民団体の連携も考えるわね」
少し考えてから言い切ったセリアに、二人はまだ納得出来ない様子だ。今度はセリアを挟んで、また議論が始まってしまった。
最初、セリアが仲裁に入ってくれないかと期待したイアン達だが、思わぬ事態に驚いていた。
セリアの行動には勿論だが、何よりも目を疑ったのは、今までお互いの意見を聞くなど絶対にしなかったランとカールが、セリアを挟んでそれぞれの案を少なからず視野に入れ始めた事だ。まるで、言葉の通じない二人の間に、一人通訳を放り込んだ様な光景だ。
しかし、何時まで経っても一向に終わりを見せない議論にイアン達も戸惑っていた。意見は飛び交い、新しい案が出され、遂には国家レベルの治安維持政策にまで発展した三人の会話に、イアンがとうとう止めに入ったのだ。
「はいはい。もう今日はそれくらいで良いだろ。お前等、どれだけこの国の治安が悪いと仮定するつもりだよ」
確かに、今彼等が提示していた政策を必要としていたなら、それは立派な犯罪国家といえるだろう。
「ふん。多少は有意義な時間を過ごせたようだな」
決着こそつかなかったが、散々論争して満足したのか、それだけ言い残すとカールは温室の外へ消えた。
「セリアも。早く行かねえと時間無くなるぞ」
「あ!それはダメ!」
ここへ来た本来の目的を思い出したのか、セリアはすかさず返した。その反応にもまた笑いそうになるが、ぐっと堪える。ラン達を先程話したクレープ屋に誘うと、漸く目的地を目指した。
「わっ!美味しそう」
店先に並べられた色とりどりのディスプレイ用のクレープにセリアは感極まっていた。ふわりとしたクリームに、様々なフルーツが乗っていて、見ているだけでも楽しい。
オープンテラスのこの店は、同じ目的を持った者で随分賑わっている。店の雰囲気も良いので、余計に人気がある。
どれにしようかと本気で悩むセリアだが、どうしても決められないようだ。選んだ物を注文しようとしては、後から来る客が手にするクレープを見てまた悩む。
うーん、と唸りながらクレープを睨むセリアに、思わず笑ってしまいそうになるマリオス候補生達。
学園からそれほど離れている訳でもないのでこれが最後、という訳でもない。むしろ、これから幾らでも来れるという事に、セリアは全く気付いていない。というより、クレープに夢中になっていて、そこまで考えていないのだろう。
結局悩んだ末、苺と生クリームの入ったシンプルな物を選んだ。他のマリオス候補生達も自分の分を注文すると、出て来たクレープを受け取り、テラスの一つに席を取った。
腰を降ろした途端、美味しい、と呟きながらセリアはクレープを口いっぱいに頬張る。その姿はとても貴族のお嬢様の見せる物ではない。しかし、それを気にする者もここには居ないので良しとしよう。
嬉しそうにクレープを平らげて行くセリアを暫く眺めていたルネが途端に口を開いた。
「やっぱり、セリアって面白いよね。ランとカールの間に平気で入ってく人なんて、今まで見た事ないよ」
クレープを食べる手を一旦止めてルネを見れば、彼は優しく微笑んでいる。ルネの言っている意味がよく分からず疑問符を浮かべる。
「カールって?」
こっそりザウルに聞けば、先程ランと議論していた方ですよ、と教えられた。本名はカールハインツという事も。面白いと言われたが、自分ではそんなつもりは全くなかったので、どう反応して良い物か悩む。
困り顔のセリアを他所に、ルネの意見にイアン達は納得していた。当人であるランは、自覚が有るのか無いのか、少し考え込んでいるようだ。
「しかし、君の意見は参考になった。出来ればまた議論したい」
「そんな、マリオス候補生が参考に出来るような立派な事は言えないわよ」
セリアはこう言っているが、実際あのカールでさえ彼女の案に耳を貸していたのだ。彼を知る者なら、これだけでもそれなりに説得力のある発言であった事が分かる。
だが、セリアがそんな事知る由もなく、手を振って否定している。ただ、参考になるとは思わないが、マリオス候補生達の交わす議論には興味があるのは事実だ。
その事を告げると、イアンが、それなら何時でも見れる、と笑っていた。
「でも、良かった。昨日は温室にいなかったから、怒って帰ったのかと思ったよ」
そういえば自分は少なからず腹を立てていた筈だと、セリアは思い直す。そして、クレープ一つですっかり気分を良くしている自分にも、単純だなと思う。チラリとイアンを見れば、非常にバツが悪そうな顔で頭を掻いていた。
「黙っててごめんね」
「そんな。謝る程の事でもないから」
確かに驚きはしたし、最初に話していてくれればとも思ったが、彼等が謝る程の事でもない。それに、彼等は自分に非常に親切にしてくれているのだ。それだけでも十分ではないか。
そうは言うものの、クレープによって機嫌が上がったのも事実であった。
絶品なクレープに上機嫌で寮に帰ったセリアだったが、自室の前の惨状に、目を見開いていた。
何処から運んだのか、大量の椅子が入り口を塞いでいたのだ。積み重ねられた椅子は、絶妙なバランスを保ち、何人たりとも通す気配は無い。
誰が何の目的でやったかは容易に想像が出来る。誰もが憧れるマリオス候補生の方達と、慣れ慣れしく接している得体の知れない転校生に、女生徒方が嫉妬と怒りの鉄槌を下したのだろう。
前の学校で女性の怖さは十分知ったつもりだったが、この学園の女生徒も例外では無いようだ。
さてどうしたものか、とため息をついていると、トンと肩を突つかれた
「貴方、この部屋の人?」
振り向くと、そこには肩まで届く長さの青髪を弄りながらこちらを見る女生徒が立っていた。
「隣の部屋の者だけど、これの所為で私も部屋に入れないの」
彼女の指す先には、積み切らなかった椅子が、隣の部屋の前まで崩れている様だ。
なんとなく申し訳なく感じてしまう。自分がやった事ではないとはいえ、自分が原因である事は否めないのだ。
「はあ、すみません……」
「大変だろうけど、出来るだけ私にまで影響が出ないようにして欲しいわ」
それは自分になのか、これの犯人になのか。彼女はそう言って、自分の部屋の前の椅子を移動し始めた。
彼女の意見も尤もだな、と思いながら、セリアも椅子を移動させる。
作業していく内に、自分の部屋に入れるだけの分を片付けた女生徒は、じゃあ頑張って、と言い残し、さっさと部屋へ入ってしまった。
出来れば手伝って欲しかったが、迷惑をかけてしまった分、そんな事を頼める筈もなく、セリアは気合いを入れて山積みの椅子を移動させた。
「終わった……」
全てが片付く頃には、すっかり夜遅くなっていて、体の節々はズキリと痛む。ふらふらとする足取りで、なんとかベッドに這い上がる。初っ端からこうも派手に来るとは、驚きである。
もう全て忘れて寝てしまえ、と疲れた身体を休める為、セリアは意識を手放した。
痛む身体に鞭打って、窓のカーテンを開けると、それは見事な陽が部屋に降り注いだ。唸りながら身支度を整えるが、間接や筋肉の痛みが引く事はない。
自分でも運動はそれなりにする方だと思うが、あの様な労働は別だ。軽く三時間程は椅子を動かすのに使っていただろう。
しかし、だからといって授業を休むわけにもいかない。気合いを入れて、何とか部屋を出た。
学園への道を歩いていると、以前の様に林の中に影を見つけた。疲れているせいか、声を掛けようとは思わなかったが、向こうがこちらに気付いたようで、おいでおいでと手を振って来る。
「おはようセリアちゃん。なんだかお疲れね」
「おはようございます。クルーセル先生はまた日向ぼっこですか?」
「そうなの。私の朝の日課。そういえば、温室でマリオス候補生達には会えた?」
彼は何かと自分を気に掛けてくれているようだ。心身疲れているセリアには、それがとてもありがたく感じる。
「はい。候補生の五人と。全体では何人居るんですか?」
興味本位で聞いただけだが、クルーセルは意味深に笑った。
「本当は十ニ人いるんだけど、将来マリオスになれるのは、その五人だから大丈夫よ」
クルーセルは微笑んでいるが、セリアには彼の言葉が理解出来ない。というか、何が大丈夫なのだろうか?
マリオス候補生になれるのは、マリオスになる事が可能な人材だ。確かに、今までの候補生全員がマリオスになった訳ではないが、いずれも何らかの形で成功を治めている。それが国の為か否かは別だが。
つまり、それだけの資質を持った者達が候補生となるのだ。それが十二人もいるのに、マリオスになれるのがラン達だけとはどういう事だろうか。
「もちろん、皆素晴らしい素質を持った生徒達よ。成績も優秀だし、家柄も申し分ないし。でもね、それだけじゃマリオス候補生にはなれても、マリオスにはなれないの。セリアちゃんなら分かるでしょ。逆に、素質を持っていなくて候補生にはなれなくても、マリオスになるべき人はマリオスになるの」
もちろん、マリオスになるべき人は候補生にもなる事の方が多いけどね。と付け加え、クルーセルは片目を瞑った。
彼の言っている事は、理解は出来る。説得力もある。ただ、納得いくかと問われれば、答えは否だ。いきなりの話で混乱しているのもあるが。そもそも、こんな話を自分にしても良いのだろうか。
「ほらほら、セリアちゃん。あんまりのんびりしてると遅刻しちゃうわよ。そうなったら私も叱られちゃうから急ぎましょ」
いやいや。教師である彼が叱られる、というのは何処か可笑しい気がする。それよりも、こんなに立ち話に時間を取ってしまったのは、彼にも責任があると思うのだが。
戸惑いながらクルーセルを見るが、彼は全く気にした様子を見せず、むしろ現状を楽しんでいるようでもある。しかし、文句を言っている間にも本気で遅刻しそうなので、取り敢えず今は校舎を目指して歩いた。